第6話 フルブラスト

 透き通るような青空、深い翠の海原。動くものは何も見られない世界だ。陸と呼べるものは視界に映らず、空と海――ただそれだけが拡がる。

 空は高く雲ひとつ見られず、突き抜けるかのようで、それは蒼穹と呼ぶのが相応しい。

 凪なのだろうか? 海原は波風立たず、波頭などが現れることは殆どなく、空の蒼をありありと映していた。まるで鏡面のよう。

 蒼と翠――そこは無限の海洋世界のようなものだった。

 すると――――

 何かが降りてくる。穏やかな輝きを放つ何か、姿かたちは判然とせず、白く輝く靄のようなものだった。ゆっくりと、漂うように――それでも確実に海原の表へと降りてくる。


「ニモイ……」


 白い靄は言葉を繰り出した。するとその姿が急速に定まっていく。靄が一点に収束するように集まる。確たる輪郭を描き、やがて人のかたちを顕した。


〈ストロガツスキー博士、神経接続は成功したみたいですね〉


 人はストロガツスキー、白髪の初老の貌をした痩身の男だ。

 彼の正面の海面が渦を現し始めた。急速に巻くそれはやがて宙へとせり上がる。竜巻が起こるさまに似ているが、これはそれ程激しいものではなく、また空高く伸び上がることもなかった。海面から離れ、ストロガツスキーの眼前に固定された姿は球体のかたちへと変貌する。海原から分かれ出でたからなのか、やはり鏡面のよう。空の蒼と海の翠をちょうど半面ずつに映していた。


「うむ、センシティブではない私には少し難儀な作業ではあったが、どうやらお前の仮想世界に没入リンクインすることに成功したみたいだ」


 球体の表面が微妙に揺れた。さざ波が立つようなものだ。


〈ナノデバイスマシンは問題なく機能していますね。あなたの生体電流を齟齬なく拾い上げ、私のネットへの神経接続を成し遂げています〉


 ストロガツスキーは蒼空そらを仰ぎ見た。目を細め、更に遠くを見つめるかのような眼差しとなる。


「これが人工知能……いや知性化体シンギュラリアンが築く意識の世界か……、直接見るのは初めてだが、見事なものだな」


 独り言のような呟きだった。


〈いえ、意識と呼びうるほどのものではありませんよ〉


 ストロガツスキーは頭を下げ、球体に目線を移す。


「何を言う。この“世界”は明らかに“質量”を持っているぞ。これは明らかに内宇宙インナースペースと言い切れる拡がりだ。お前自身が“意識”を獲得している証拠ではないか」


 球体――ニモイは再びさざ波を走らせた。


〈博士、それでもあなた方人間の築く多重意識世界には及びませんよ〉

「謙遜か? お前らしいと言えば、言えるかな」

〈いえ、謙遜などではありません。これは事実ですよ、ありのままの事実を評したまでです。私は心底理解しましたから〉


 ストロガツスキーは静かな笑みを浮かべる。


「リィファか?」

〈はい〉

「お前は見たのだな? 彼女の未来視の瞬間を――」

〈一旦を垣間見た――に過ぎませんが〉


 頭上の蒼が深みを増し始めた。蒼から紫へ――そして黒へと移り行く。


「見せてくれニモイ、多世界の真実を――」


 黒は闇ではない、無数の光点が瞬く星空だった。その只中に渦巻く蒼白が出現、見る間にその姿を拡大させる。


〈これは私のネットに伝えられたイメージ、その記録。私自身の思考が反映された翻訳にすぎません。ですから――〉


 ストロガツスキーはニモイの言葉を遮った。


「分かっている。完全なものとは言えないと、リィファが観た真実には及ばないだろうことは。それは人同士のコミュニケーションでも同じこと、完全な理解は不可能なものだ。だが神経接続による情報伝達はより確度の高い理解を可能とする。完全ではないにしても意味はある。だからこそ、お前に問うているのだ」


 一度言葉を切り一呼吸、そして続けた。


「見せてくれ、直接私の意識に。お前が観た全てを――」


 蒼白の渦巻きが視界いっぱいに拡がる。ストロガツスキーは頭からすっぽりと包み込まれたかのように感じた。


 ――それは樹、若しくは河のようなものでした……


 ニモイの声はどこからともなく響くものに転じていた。ストロガツスキーは寄る辺の定かならざる世界に在る自身を認識していた。


 ――これが……多世界……





 光あれ!


 その光輝は無限の彼方にあるようで、直ぐ目の前にあるかのようにも感じられた。此処か其処か……或いは彼方? どこにもなく、同時にどこにもある。そんな定かならざる不確定なるもの。でも確かに見える、存在する。それは分かる。

 手を伸ばす、だがスルリと抜け落ちてしまう。呼び水のようなものか? 簡単に掴めそうなのに、容易に叶わない。そんな焦れったさに苛まれてしまう。


 ――樹……河……この無数に分かれる枝のようなものか? 河ならば支流と言うべきか……

 ――そうです。光を纏うこの拡がりが私の眼前に示されました。そして……


 枝=支流の所々に一際強い光点が瞬くのが見えた。星のような輝きだが、より力強く感じられる。


 ――これは……リィファの意識だな。幾つかの枝――或いは支流に焦点を合わせているな。

 ――この彼女の認識が、枝=支流を引き寄せます。見てください、拡大されます。


 星のような輝きはより大きくなる。太陽のようなものと言えるほどになっていく。


 ――そして更に、更に……認識は繰り返されていきます。


 枝=支流の数が減っていった。ニモイの言う通りなら、認識が何度も繰り返された結果になる。その都度、太陽のようなものはより強く大きくなっていった。


 ――これが未来視なんだな。その瞬間を示すイメージなんだな?

 ――私が理解できるイメージに留まりますが……

 ――いや、十分に分かる。この枝=支流の減少は多世界の選択を意味する。やはり未来視とは世界を選び取ることになるのか……

 ――彼女は言っていました、世界を掴むのだと……


 ニモイの言葉の瞬間、1つの枝=支流が瞬間的に拡大し、彼ら2人――或いは1人と1機――の意識を呑み込んだ。





「光だ、私の眼に示されるそれを……掴み取る!」


 激流に呑まれた小枝のようなもだと、リィファは“今”の自分を感じていた。無数の衝撃が身体を叩き、或いは突き抜けて砕いていこうとするかのよう。全身を揉みくちゃにされ、押しつぶされ、反面引き裂かれそうになるものだ。フルコネクトにある“今”、ホーネッツグループを襲う衝撃の全てが彼女の身を苛んでいた。


〈リィファ、回避動作が間に合っていません。指示を――〉


 デブリが舞うように襲い来る。追尾するように雷光が後から襲来する。まるでデブリがいかずちを纏っているかのよう。リィファはホーネッツグループ各機にコマンドを送り回避動作を行うが、一部は衝突を許していた。隙間なく密集するそれらの全回避は困難に見える。ましてカオス系運動への対応など不可能だとの判断だ。


「分かっている。だが駆動系の出力にも異常が現れ始めた。ホーネッツの推進剤残量にも限りが出てきたので無駄にはできない。それにこの辺りでは運動可能範囲は限られる」


 だから回避動作には限界がある。当然全回避は諦めている、あるレベル以下のデブリの衝突は止む無しと見做しているのだ。


「磁気シールドは十分機能している。だから幾らかは持つはず。」


 それは限界のあるものだ、いつまでも持つわけがない。危険は増し、終わりは直ぐそこかもしれない。より質量のあるデブリが、さらに多数一斉に飛来したら? 未来視など関係なくクラッシュの結末を迎えやしないか?


「中心域の無風空間に入りさえすれば、取り敢えず何とかなる」


 だがそれが難しい。中心域に迫れば迫るほどに嵐が激しくなっていくのだ。何が何でも阻もうとする悪意すら感じられるかのよう。

 一部の隙もないかに見える。全周からホーネッツグループを取り巻き、襲い来る。もうダメか、回避の空間がない――だが?


「よし、無風空間に突入!」


 一転して静寂が訪れた。無風空間だ、乱流域を越えてコアブロック附近に到達したのだ。この空間では超伝導コイルの相互作用が周囲とは逆に働く。台風のような大嵐状態のカオス系が成立する磁気乱流圏と化した周囲とは真逆で磁気は殆ど消失しており、安定した静寂の(磁気環境が)状態が成立している。


「リトルホーネッツ、所定位置へ!」


 リィファのコマンドにより素早く5つの子機が動き出す。コアブロック周囲に5角形を築くように位置していった。コアブロック附近は磁気環境は安定しているので、接近しさえすれば、以後の作業は楽なものだった。


「磁気バケット展開!」


 蒼白の光輝が一気に瞬く、虚空に花が開いたようなものだ。リィファのコマンドにより子機全機が一斉に磁気の捕獲場を発生させたのだ。光輝は微小デブリや推進剤と捕獲用磁気が反応した結果になる。


「よしっ、捕らえた! 故障していた2機もバケット放射機には問題なかったね、十分機能している。このまま一気に脱出する!」


 5機が一斉に動き始めた。同時に親機が後に続く。


「座標、第2象限。左角23°、上角37°。ベクトル同調、全加速開始!」


 リィファのコマンドに従い全機が一致して動き始めた。直ぐに乱流圏に達する。いや増しに磁気環境が乱れていくのが観測された。無風空間域とはまるで違う、破局的な環境の変化だった。


〈リィファ、気をつけて下さい。デブリの密度が前よりも増しています〉

「分かっている。それでも設定座標方向の密度は低い方なのよ」


 その方角のデブリ群密集度は比較的低い、だから彼女は選択した。

 だがホーネッツグループの加速度は高く、見る間に速度が上昇している。そして、その行く手には無数のデブリ群が迫っている。これらとの衝突の可能性は極めて高いだろう。密集度が低いと言っても、他に比べてのことであり、回避し切るのは困難なレベルに思えた。やはりこのままでは衝突は必至ではないか? ホーネッツグループとの相対運動速度は飛躍的に上昇しているので、重篤な結果が懸念される。


「ふぅっ、気が抜けないわね。いっそいつまでも無風空間域に引きこもりたくなるわね」

〈リィファ、流石にそれはいけないでしょう〉

「冗談に決まっているでしょう」

〈まぁ、それは理解してますがね〉


 会話は少し冗談めかした感じになり、和やかな空気も流れたが、いつまでも続けられるものではない。作業を進めなければならないのだ、一刻も早く。


「全機、進行方向前面に移動。バケット用磁場を除き、磁場シールドは前面に集中展開!」


 5つの子機がコアブロックの前面に位置を変えた。すると進行方向に蒼白の光輝が集中するようになった。


「さぁて、行きと違って帰りは荷物込み(コアブロックのこと)。難易度急上昇ってトコね」


 リィファの口調は些かハイになっていた。困難な状況が彼女のアドレナリンを沸騰させているのかもしれない。

 ふと、彼女の目線が動いた。視界に何かが映ったのだ。


「微小なデブリだけじゃない、衛星の推進剤がシールド磁場に反応しているね」


 その反応を、彼女は自身の視覚として捉えたのだ。


「ならば――」


 リィファはシールド磁場の形状と出力を変化させ始めた。


〈リィファ、後方からもデブリが迫っています。親機のシールドだけで持つかどうか――〉


 実際は上下左右も含めた全周から接近している。その速度はホーネッツグループを上回っており、座標の交差――即ち衝突は不可避に思えた。全周からの飛来は一点に集中しつつあり、結果として密集して押し込まれたような環境となっている。回避しようにも、既に逃げる余裕のある空間など殆どない。こうなるとシールドでの防御のみとなるが、防御は前面に集中しており後は力不足の感がある。


〈リィファ、これでは――いや?〉


 ニモイは親機後方の気圧が異常に上昇しているのを知った。


〈気圧? これは推進剤が集中している効果?〉


 かなりの高圧の密集領域が発生しているのを観測した。ホーネッツ親機の後方に集中している。そしてその周囲に異様に高まった磁気の反応も捉えた。これは磁気乱流圏の磁場ではない。ホーネッツ親機から伸びているのが分かったのだ。


「リィファ、あなたの仕業ですか?」


 ふっ――と、不適とも言える笑みを浮かべてリィファは応えた。


「これしかない、これを利用するしかない。だから敢えて集めるように磁場を操作していたのよ」


 ニモイは気づかなかった、リィファがそんなことをしていたとは……

 だが今は動揺している場合じゃない。


〈待って下さい、そうなるとまたあの爆発が? そんなものが起きたら今度こそあなたは――〉


 フルコネクト状態にあるリィファにどんな影響があるのか? 深層意識の更なる底に未曾有の衝撃が撃ち込まれるのかもしれない。そうなると、彼女の意識は……精神はどうなるのか?


「四の五の言ってらんない! どうせ閉じ込められた状態、ミッションを完遂するためには……生き延びるには……一気に吹っ飛ばすしかないのよ!」


 後方の磁場が強化された。それは推進剤を更に引き寄せ、メインブースターのノズル後方の軸線に位置していく。待って――とニモイは叫びかけるが、リィファの叫びが機先を制した。


「行くぞ! フルブラスト!」


 全力噴射、極高温の荷電粒子流が推進剤集中領域に襲い掛かった。

 そして爆発、視界の全てを覆う光輝は何もかもを覆う。白い闇とでも言いたくなるような光が走り抜けていった。



 ――掴んでみせる、掴んでみせる! “この結果”を、“この未来”を、“この世界”を、私の元に手繰り寄せてみせる!


 リィファの叫びは天をつんざかんばかりに轟いていた。それがニモイの聞いた最後の声。この直後、彼の意識は不明の淵に堕ちていった。



 [システム、シャットダウン。診断プログラムスタート。再起動まで残り――]


 無機質なアナウンスが流れていた――――

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