第7話
「新聞読んだかい?」
「いや、まだ」
卵切らしてたの忘れてたわ、と言いながら置かれたトーストとベーコンだけの朝食の皿の上から、向かいに座ったジョン・ワトソンが新聞を手渡してくる。まだ覚めきらない目を擦りながら、新聞の一面に目を通す。
「『50代男性の変死体を発見』これがどうかしたのか?」
「現場、すぐ近くなんだよ。怖いことだね」
「そうだな」
フィクションなら今こそ探偵の出番なのだろうが、ただのごっこ遊びにそんな力もない。担ぎ出されたってどうしようもないのだが。
「2人とも午後は暇よね? 卵を買いに行ってくれないかしら」
ハドソンさんの声が台所から聞こえる。現実に担ぎ出されるのなんてこの程度だし、これで十分だ。
「ホームズ、君がいて助かったよ、片手で杖を持つだろ、もう片手で袋を持つだろ、そうしたらもうドアノブが持てないからね」
スーパーマーケットには自動ドアがあるが家のドアまでそうはいかない。十九世紀にはスーパーマーケットも自動ドアもなかっただろうにこいつの中ではどうなっているんだろうなあと、ジョン・ワトソンに最寄のスーパーを案内される道行きに思っていたが、答えは『無視』の一択だった。
案内まではしてくれるが、自動ドアのこともカートのことも無視して、俺の後を一転静かになってついてくるだけのジョン・ワトソンに何故か急かされているような気分になり、卵だけを買ってジョン・ワトソンが杖をついて歩けるスピードの最高速で店を出た。
ジョン・ワトソンは当然レジのデジタル表示も目に入れないようにしていたので、ハドソンさんが俺に財布を持たせたのは正解だったのだろう。
「なあ、あれ」
少し先に、警察車両が2台止まっている。野次馬が一軒の店の前に張られた黄色いテープの周りに集まっている。覗いてみると、見覚えのある顔に出会った。
「ウォーカー……レストレードさん」
ジョン・ワトソンの手前呼びなおすと、あからさまに慌てた顔で、子供にするように口に人差し指を当てながら長身がこちらに近づいてくる。
「どうしたんですか」
「いえ、なにかパトカーが見えたもので」
「事件ですよ、新聞はご覧になりましたか?」
「ええ、まあ、ただあなたはてっきり違法薬物が専門なのかと」
「どちらかといえば殺人(こっち)が専門ですよ、残念ながら」
まるで世界で日夜起こる人死にに心を痛めているとでも言うような顔でウォーカー氏が嘆じる。
「どうです、捜査は」
ジョン・ワトソンが尋ねると、心持ち厳しい顔を作ってウォーカー氏は首を横に振った。
「お教えできませんよ、まだ名探偵の力を借りるときじゃありませんからね」
「ね、あの事件、どう思う?」
「どう思うって言われても」
家に帰ると、玄関の前で俺達を待ち構えていたらしきケビンに捕まった。ハドソンさんがいないとお茶の一杯も出せないが、ケビンはそんなことはどうでもいいらしく、新聞を勝手にテーブルに広げて1人で盛り上がっている。
「『金融会社勤務の50代男性の変死体発見 外傷はなし、死亡推定時刻は昨夜未明』あんまり詳しいこと書いてないね」
「そりゃ書けないだろ、捜査機密ってやつだ」
「で、どう思うの」
ケビンがホームズ、と俺のことを呼びかけて我慢したのが分かった。その隣ではジョン・ワトソンも俺を見ている。お前ら、これはごっこ遊びじゃないんだぞ、本当に人が死んでるんだ、と言ってやるべきだったのかもしれない。むしろ、どうしてそう言わなかったのか俺には分からない。
「外傷が無いなら毒殺、じゃないのか」
「毒殺か、毒と言っても色々あるけれどね」
「そこは医者の専門じゃないのか」
「詳しい状態がわからなければなんとも言いようがないね」
俺は怒るでも咎めるでもなく、ジョン・ワトソンと議論をしている。ケビンはそれを、頬杖をついて聞いていたが、ジョン・ワトソンの言葉を聞くと、眼鏡の向こうの目をぱっと開いた。
「パパ、じゃなくて、警部の後、ビコウしちゃう?」
「尾行?」
「警部、多分この後聞き込みにいくから。何か分かるかも」
「そもそも何で聞き込みに行くなんて分かるんだ」
「パパ、じゃなくて警部はね、聞き込みに行く日はいっつも青のネクタイするんだよ」
「本当に?」
「ほんとほんと」
俺とジョン・ワトソンは顔を見合わせた。さしもの奴もこの話に乗るかは決めかねているのか、それとも本物のワトソン氏は慎重派なのか。なんとなく分かるのは、俺がこの場での決定権を握らされているという事だ。今までにない沈黙が流れた。
「直接後ろにくっついていって警部と誰かが話してるのを聞くのは無理があるんじゃないか、情報を持っていそうな人のアタリをつけて、あとからその人に話を聞きに行くとか」
「っていうことは?」
「方法は考えるにしても、やってみる価値は、あるかもな」
人が1人死んでいるのだ。遊びなんかではないし、遊びにしたって悪趣味だ。そう言うべきなのかもしれないのに、俺は結局頷いてしまった。
「もし現場に戻ってみて、まだレストレード警部がいるようなら、動き出すのを待って後をつけてみる。もしいなかったらそのときは諦めよう」
殆ど手遅れのような折衷案を付け足すと同時に、ケビンは椅子から飛び降りてドアを開いていた。ジョン・ワトソンは対照的に、残念そうな顔で座ったまま杖を持ち上げた。
「私はどうも足手まといになりそうだからね、ここで待っているよ」
「まかして」
俺ではなくケビンが元気よく請け負って、いつぞやのように俺を手招きする。
「本気でやるのか」
「まあね。ラファエル、いやがるかと思ったけど」
俺だって自分が何をしたいのか分からないんだよ、ケビン。
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