第6話

 この家に住んでいて学んだこと、ジョン・ワトソンがリビングに来たらテレビを消すこと。

 俺がハドソンさん――俺はいまだに彼女の呼び方を決めあぐねている、ジョン・ワトソンがいないところでだけ本名で呼ぶのも妙なような気がしたのだ――に聞いたところによると、元からテレビよりも本の方が好きで、テレビをうるさがることもあったらしいが、ケビンが言うところの「ホームズごっこ」を始めてからそれが顕著になったという。

 俺もニュースをつけていたら無言で電源を切られたものだから危うく喧嘩になるところだった。


「そりゃ、テレビがあったらおかしいもん」


 宣言どおりにやってきて、驚くやらおかしいやら変にひりつくような、複雑な顔で出迎えた俺をよそにハドソンさんお手製のクッキーと紅茶を振舞われているケビンは、なにげない俺の発言をやっぱりどこか小馬鹿にしたような生意気な口調で断じた。

 今はテレビがついていて、キッズチャンネルのアニメを流している。ケビンのお気に入りらしい。


「ホームズとワトソンは十九セーキのひとだから、テレビなんてあるわけないじゃん」

「十九世紀なのか」

「そう」

「詳しいんだな」

初歩的なことだよ、ワトソン君Elementary, my dear Watson。シャーロキアン、ホームズ好きなら常識だよ」

「そんなに詳しいんだ、俺じゃなくてお前がホームズをやったらいいよ」


 その決め台詞は俺にも聞いたことがある。実に楽しげにホームズの口真似をするケビンにぱちぱちと拍手を送って、心の底からそう言った。


「ホームズはほんとはこんなこと言ってないんだけどね。舞台化されたときのセリフなんだよ」

「初耳だな」

「ラファエルは何にも知らないじゃん」

「物知りな坊やなのね」


 ハドソンさんがケビンに紅茶のおかわりを注いでやりながら言う。


「やっと遊びに来てくれて嬉しいわ、昨日の前にも一度来てくれたでしょう?」

「気付いてたの?」

「もちろんよ、キッチンの窓から覗いてたでしょう」


 気付かれていたのが恥ずかしいのかぱっと顔を赤くして、ケビンはごめんなさい、と口走る。


「ホームズが来てないかなと思って」

「本当に楽しみにしてたのね」


 お客が嬉しいのか機嫌よさげなハドソンさんの言葉に被さるように、極めて紳士的にドアの開く音がした。

 ハドソンさんが手馴れたようにテレビの電源を切るのと、ジョン・ワトソンがリビングに姿を見せるのとは殆ど同時だった。


「やあホームズ、また小さなお客さんだね。ということは何かあったのかい?」

「まあ、色々」


 何かと言われても何も無いのだからこんな曖昧な返事しかできないのだが、どうもジョン・ワトソンにその辺りを汲み取ってなあなあにしようという気が無いらしい。俺が返事に窮していると、正しく天の救いといったタイミングでドアベルが鳴った。

 俺が立ち上がろうとするより先に、ドアに近いところにいたジョン・ワトソンがドアを開けた。


「今日はお客の多い日だね――これはこれは、レストレード警部じゃありませんか」


 普段はそのにこやかな丸顔どおりの穏やかな話し方をするジョン・ワトソンが、言葉こそ丁寧とはいえ不意にやや険のある声を上げたので驚いた。戸口には1人の男が立っている。ケビンの顔が今度はさっと青くなった。


「どうした」

「パパだ」


 俺は無言で俺の部屋のドアを指し、ケビンは足音を立てない最高速の走り方で白いドアに滑り込んでいく。頭の回転が速い奴で助かった。ケビンの父親はまだ戸口にいる。


「どうも、お久しぶり。ホームズはいるかい?」

「そこに」


 不意に杖で示されて、俺はぎくりと縮こまる。レストレードと呼ばれた男はこっちを向いて、一瞬どこか同情的とも言えるような笑顔を作ると、すぐにまじめくさった顔になって言った。


「彼と内密に話がしたいんだが」


 ふん、とジョン・ワトソンは鼻を鳴らして自分の部屋に杖の音を高く鳴らして入っていった。

 扉が閉まるのを見届けてから、ほっとしたように表情を崩して、男はリビングに入ってくる。


「突然申し訳ありません。はじめまして、ロンドン警視庁スコットランドヤードのエディ・ウォーカーといいます」

「ラファエル・フリーマンです。お話とは?」


 先ほどの様子とはうって変わって腰の低いというか、気の小さそうな態度に戸惑いながらも尋ねる。警察が来るとは、まさか突然いなくなったから捜索願でも出ているのかと思ったがことはそう深刻でもないらしい。

 剣呑な顔をしてしまう俺に、ウォーカー氏は眉を下げて手を振ってみせる。背こそ高いが威圧感に欠ける顔立ちと相まって、どこかコミカルでもあった。


「深刻なお話じゃないんですよ、ただ新しい方が来たそうなので一応、様子を」

「はあ、様子といいますと」

「こちらのお宅で、なんといいますか、生活に問題のある方をしばしば保護してらっしゃるようですから、定期的に伺っているんですよ」


 俺が事情を知らないと思っているのかウォーカー氏は濁した表現を使っているが、早い話が俺の前の4人のホームズもとい薬物中毒患者どもの話をしているらしい。


「あの人のごっこ遊びに付き合ってるんですか?」

「まあ、致し方なくというか、もともとそちらのご縁で知り合ったというか、息子がずいぶん遊んでいただいているようで」


 困ったように笑って、ウォーカー氏は不意に眉根を寄せると鼻から大きく息を吸った。


「ケビン!」


 その気弱そうな雰囲気からはちょっと想像しがたいような大声で、ウォーカー氏は息子の名前を叫ぶ。白いドアがそろそろと開いて、むくれた顔のケビンが顔を出した。


「何で分かったのさ」

「エイブラハムさんから新しい人が来たって聞いたんだから、お前も聞いてるんだろうと思ったんだよ、ほら帰るぞ」

「また来てもいいでしょ? ラファエル、危ない人じゃないよ」


 ケビンが父親の上着の裾を引いてせがむと、ウォーカー氏はちらりと俺の顔を窺った。


「お父さんさえよければ、うちは歓迎しますよ」


 それまで黙って話を聞いていたハドソンさんが、俺の後ろからそう告げる。俺が何かを言う前に、ハドソンさんは茶色の扉に向かって叫んだ。


「ワトソンさん、これからも小さなお客さんが来ても構わないわね?」

「ホームズさえいいって言うんなら僕は構わないけれど」


 ドアを少し開けて、文脈をつかめないのか首を傾げながらジョン・ワトソンは答える。全員の目が俺に集まる。


「俺は、しがない居候ですから。それにまずはお父さんの話を聞かないと」


 ウォーカー氏は詰めていた眉の間をほぐして、溜息をひとつついた。


「ケビン、失礼をしないようにするんだぞ。それと、お菓子をごちそうになったらお礼をいうこと」

「ありがと、パパ」


 ケビンはまた例の矯正ブリッジを見せびらかすあの笑みを見せた。


「ね、ラファエル、パパすごかったでしょ、パパ、演技上手なんだよ、大学生の頃はシェイクスピアとかやってたんだってさ」

「役者さんか」

「元、ですよ」


 ウォーカー氏が笑う。

 その言葉と、昨日の自分の掠れた声が重なって聞こえた。


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