第5話


 朝起きて、ハドソンさんやジョン・ワトソンと朝食を食べ、ジョブセンターに行って求職活動を一応することで求職者給付金をもらう資格があることを証明して、帰ってヴァイオリンの練習をする。ハドソンさんがいるならそれとなくシーツとカーテンを変えてもらいたい旨をほのめかしてはかわされる。一度、こっそり知り合いの要る楽団に電話をした。返事は、まだ、ない。


 6日目ともなると、それとなく生活のリズムが出来上がりつつある。ジョン・ワトソンは、始めはどんな奇人かと思ったが、幸いにして本物のワトソン氏がまともな人間なおかげか、初対面ほどのインパクトのある行動は未だ見受けられない。


「何を弾くんだい?」

「エルガーの《愛の挨拶》。本当はこれにピアノがつくんだが」


 ジョン・ワトソンがいてお互い暇なときは、なるべくヴァイオリンを弾く。ジョン・ワトソンとまともな会話をしなくてすむのだ。別に嫌いだとかそう言う訳ではないが、へたに会話をすると面倒なのだ。

 なにせあいつはシャーロック・ホームズのなんたるかを知っていて、言外に俺にその枠にはまることを要求してくるくせに、俺はホームズとは一体どういう男かも知らないし、ましてジョン・ワトソンのことなど「ホームズの助手」ということしか知らないのだから。

 リビングの揺り椅子に収まったジョン・ワトソンは、本日も何か医学的な資料と思われる紙を適当に繰りながらヴァイオリンを用意する俺を見ている。


「君は本当にエルガーが好きなんだね」


 さてホームズがエルガーの事が好きかどうか、そんなことも存じ上げないが別に合わせてやる必要もないと思っている。曲の内容まで指定された覚えはないのだ。昂然と演奏に取り掛かろうとしたところで、ドアベルが鳴った。ジョン・ワトソンが立ち上がってドアを開き、俺の立っている位置からでは姿を窺えない訪問者となにやら二言三言交わしてからこちらを振り向いた。


「ホームズ、君にお客だ」

「俺に?」


 一体誰が俺を訪ねてくると? 俺がいまこの家にいることを知っている知人はいないはずだ。電話には自分の携帯を使っているし、と頭を疑問符だらけにしながら構えかけたヴァイオリンを置いて玄関に出ると、そばかす顔に眼鏡を掛けた小学生くらいの少年が立っていた。

 くるぶしまでずり落ちた白い靴下をしきりに引っ張って、そわそわしていた少年は、俺の顔を見るや、少年はにっかと笑って「ホームズでしょ?」と首を軽く傾げた。覗いた歯には矯正のブリッジが嵌っている。残念ながら、見も知らない顔だ。


「ね、ホームズなんでしょ、違うの?」


 少々ばかし生意気な口調にせっつかれて、控えめに頷くと少年は石段を飛び降りて「ちょっと」と大袈裟な仕草で手招きをする。


「なんだい、僕には内緒の話なのかい」


 つまらなそうな顔でワトソンが俺に尋ねるが、そんなことを言われたって困る。曖昧に首を傾げてからドアを閉めて石段を降りていくや、ぱっと両手を捕まれて、いやに活き活きとした目で見上げられた。


「すっごいや、あなたがホームズ?」

「いったいなんなんだ、ボク」

「僕、ケビン・ウォーカーっての。僕は『ベイカー街遊撃隊』なんだ」

「なんだそれ」


 思ったがままを素直に伝えると、ケビン少年は眼鏡の向こうの両目をぱっくりと開いて、「知らないの?」と何だか小馬鹿にしたような口調で尋ねてくる。


「ホームズは読んだことが無くて」

「なのにホームズやってるんだ」

「進んでなったわけじゃないから」

「ワトソンにさそわれたんでしょ? 僕もだもん。去年かおととし図書館で会ったんだけどね、ドイルの本のコーナーで会ってさ、ホームズの話で盛り上がったんだ」


 ケビンは、このホームズってのはあなたじゃなくて本物のホームズね、と付け加えた。


「その後も何回か図書館で会ったんだけど。この前久しぶりに会ったら『君、ベイカー街遊撃隊をやってくれないか』って。そりゃオーケーに決まってるでしょ、でも聞いたらまだシャーロック・ホームズがいないんだって言うんだもんね」

「俺の前にも何人かいたらしいが」

「その後来たらしいんだけどね。来たら来たで、顔も見てないのに『あの人たちのところには行くな』って父さんがさ。危ない人だからって」


 そりゃあそうだろう、薬物中毒患者とそれを引っ張り込んでごっこ遊びに付き合わせるいい大人のところになんて、俺が父親でも絶対に息子を行かせたりしない。


「じゃあ何で来たんだ?」

「ワトソンとまた図書館で会ってね、『今度こそ本物のホームズが来たよ』って教えてくれたんだ。だから見にきちゃった。父さんもワトソンのごっこ遊びの仲間だからホームズもそのうち会うかもしれないけど、ナイショにしといてね」


 俺は頷きながらも、全然別のことを考えていた。『本物』のホームズ。本物? 何をもって本物と言っているんだろう? 事件も解かない、名探偵のことなど微塵もご存知ないこの俺のどこにホームズらしさを感じているのか。


「でも嬉しいな、これでやっと僕もホームズごっこに混ざれるよ。ホームズがいなけりゃベイカー街遊撃隊には出番がないもんね」

「その遊撃隊、ってのは?」

「なにか事件があったらホームズの代わりに、警察や大人じゃもぐりこめないような所に忍び込んで情報を集めてくる子どもたちだよ。すっごく有能なんだ」

「そりゃすごい」

「ホームズ、僕、何すればいい? どこでも行ってくるよ、僕これやるの楽しみにしてたんだ」

「悪いけど」


 勝手に目を輝かせるケビンに言われない後ろめたさを感じながら冷たい顔を作る。


「俺はそういう事は出来ないし、そういう事をするつもりもないから」


 どうしたって子供の無邪気な表情には敵わないなんて大人は、意外と少ないものである。まさかそんなことを言われるとも思っていなかったと、そうありありと伝えてくる眼にさらに念を押す。


「俺のことホームズって呼ぶのも、出来れば、止めてくれれば」

「じゃあなんて呼べばいいの」


 一拍の沈黙も無かった。口を尖らせ、小生意気に、めげずにケビン少年は尋ねてくる。


「ホームズはホームズ以外の何なの?」

「ヴァイオリニスト」


 言い切ろうとして、かすれた声で後から、もと、だけど、と付け足したのが惨めだった。


「ヴァイオリン弾けるの? ほんとにホームズみたいだね」

「だから」

「名前は?」


 何故か名乗るのが躊躇われた理由は何なのだろうか。口が咄嗟に動かなかった。そいつは今、何の保証も持ってないからかもしれない。分厚い小説のシリーズに裏打ちされた賢さも個性も無い、今はただ思い出と人の名前に寄りかかっている男の名前だからかもしれない。


「名前教えてくんなきゃホームズって呼ぶよ」

「ラファエル、フリーマン」

「ラファエルね」


 生意気にも三倍は歳のいった男を呼び捨てにして、ケビン少年は矯正ブリッジを見せびらかすように笑う。


「僕、夏休みだから、明日また来るからね。ラファエル、明日は遊んでよ」


 もう来るなと言えるはずがなかった。無邪気な笑顔のせいじゃない。

 誰かひとり俺の事をラファエルと呼んでくれるやつがいないと、何かが危ないような気がしたのだ。


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