第4話

 別段変わりがあるようには見えない。事実無くなったものはほんの僅かだ。衣類がいくらか、通帳と財布、ヴァイオリンとその関係のものがいくつか、CDウォークマンとCDが何枚か。クローゼットの中でも見なければ違いなんて分からない。

 自分の、昨日本当に帰るはずだったアパートメントの一室に突っ立ち、手には空のトランクケースをぶら下げてぐるりと周りを見回す。いつか戻ってくるのか、永久に戻ってこないのかも分からないが、さほど思い入れのある部屋でもなくて良かった。

 眺めが良いわけでもないし、ここ2週間はうじうじと部屋で落ち込んでいた記憶ばかりだったから、『酒の勢いで変人と同居』なんていう頭の痛くなるようなきっかけにしろ、こことおさらばするのは悪いことではないかもしれない。


 いつまでも突っ立っていたって仕方ないので、とにかくトランクを広げて詰めるべきものを探しにかかった。まず保険やら税金やらの証書類やアルバム、掛け時計は外すのもつけるのも面倒なので代わりに目覚まし時計、電気シェーバーと歯ブラシとコップ、冷蔵庫の中身は少し考えてから結局諦めることにして、それからベッドサイドの本棚を見て、分かりきっていたことのへの深い溜息をついた。


 ヴァイオリンの楽譜が多すぎる。このトランクに押し込んだら、他のものは1つだって入らない。だから最後に回したのだ。


 楽譜をどさどさ引っ張り出して、棚の上から降ってきた埃にげんなりしながらひとつひとつ検分していく。全部置いていくなんて選択肢はありえないから、持って行くものは選ばなくてはいけない。バルトークの《舞踏組曲》、ロンビの《シャンパン・ギャロップ》、ヨハン・シュトラウスの《ラデツキー行進曲》。エルガーの、《交響曲第一番》。

 いつかもう一度どこかのステージの上に誰かと椅子を並べて、交響曲の一員になる日なんて来るのだろうか? もう二度と来ないのか、このままタクシー運転手か保険販売員にでもなって、あの音の渦も忘れてしまうのか。


 本を焼く国がいずれ滅びるように、楽譜を捨てるあんたもいずれ滅びるよ。隣で男が叫んでいるのが聞こえたような気がした。


 きっとそのうち音楽なんて縁も無いような生活が始まって、忘れてしまうんだろう。それなのにトランクに入る限りに楽譜を詰めこんでいる自分がいる。入りきらないなら何度でも取りに来ればいいとさえ思っている自分がいる。

 一番上にエルガーの《エニグマ変奏曲》、さらにその上にハイドンの《弦楽四重奏曲第77番「皇帝」》を置いて、1人で四重奏が出来なかろうがそんなことは問題じゃないのだと、昨晩も言い聞かせたような台詞を頭の中でひたすらに繰り返し続けながら、無理矢理トランクの蓋を閉めた。



「おかえりなさい」


 少し不安な道筋をどうにか辿って、小ぢんまりとした煉瓦積みの家へと戻ると、もう帰ってきていたハドソンさんが掃除機がけに勤しんでいた。


「大荷物のところ悪いけど、あなたの部屋も掃除させてもらっていいかしら」

「いや大丈夫です、自分でやりますから」

「私はね、ホームズさん、独り者の男の掃除能力を信用してないのよ。もしあなたの部屋からネズミが出てても責任が取れるって言うなら別だけど」


 そうまで言われて食い下がる理由も特にない。プライバシーがどうこうと言うほど居ついた部屋でもないのだ。

 むしろ棚の上から降ってきた埃を思い出して苦笑いをしながら、ハドソンさんを部屋に通して、俺はトランクを抱えたままリビングのテーブルについてぼんやりと、このあたりで失業者のためのジョブセンターはどこにあったかと考えていた。ホームズだかなんだか知らないが、仕事が無くなってしまったことには違いないのだ。

 仕事も無い。技能もそれを学べる若さもない。ついで恋人もいない。ないないづくしだ。


「や、ただいま」


 しばらくぼうっとしていたところに、杖を鳴らしてジョン・ワトソンが帰ってきた。ハドソンさんが綺麗にしたのだろうドアマットの上に薄く靴跡と、杖先の丸の形に泥がついたのを見てしまって、気の毒な気分になる。無論ジョン・ワトソンにではなくハドソンさんにである。


「オックスフォードは雨か」


 ロンドンもそのうち降るかもな、とか杖をついてたら傘を差すのも大変だろ、なんて続けるつもりで言ったのだが、妙に機嫌のいいジョン・ワトソンの「そう、そうなんだよ」という台詞に阻まれた。


「そのトランク、どうしたんだい? 旅行かい」

「部屋から荷物を取ってきたんだ」

「あまり変なものを持ち込むとハドソンさんが嫌がるよ」


 人をなんだと思っているんだ、と言いかけてこいつはシャーロック・ホームズに向けて喋っているのだと思い出した。ホームズというのがどうも俺のぼんやりとしたイメージ以上の変人であるらしいと分かって、なんとなくがっかりしてはいる。もっとクールな雰囲気だと思っていた男が暇だといって銃をぶっ放すような奴と知れたら、大抵の人間はがっかりするだろう。

 ジョン・ワトソンはふと少しその温和な丸顔を引き締めて、右に傾いてはいるものの精一杯胸を張って俺の前に立った。ここから生み出されるものは医者の威厳というやつだろうか。


「君がコカインをやるのは僕も反対なんだからね、覚えておいておくれよ」


 そんなの俺だって反対だし、大体クスリの類はやってないという話は昨日したはずだ。


「やりゃしないさ、そんなの」

「本当に?」

「本当に」

「二度と?」

「神に誓って」


 俺が精一杯の神妙な表情で宣言すると、ジョン・ワトソンは重々しく頷き、「ならいいんだよ」と言って微笑むとリビングの、俺の部屋に繋がるのとは別の茶色の扉――そこにジョン・ワトソンの部屋がある――に戻っていった。

 その背中を神妙な顔を半分崩して見送っていると、素晴らしいタイミングでハドソンさんが俺の肩を叩いた。思わず勢いよく振り返って問い詰める。


「なんです、彼」

「心配してるんじゃないかしら」

「何を?」

「あなたがあまりにも自分のごっこ遊びに協力的だから。いままでまともな人には逃げられてて、居ついてくれたのは中毒患者ばっかりだったから、あなたがそうだったら嫌だと思ったんでしょ」

「そんな奴らを選んでるのは自分なんでしょう」

「確かにその通りなんだけど。でも小説のジョン・ワトソンはホームズがコカインを使うのに反対してたのよ。まあ医者だものね」


 言いながら掃除機を片付けて、ハドソンさんは台所の方へと歩いていく。その背中に尋ねる。


「この辺りでジョブセンターってどこにあるか分かりますか?」

「ジョブセンター?」


 シマリスのエプロンを掛けながらハドソンさんは不思議そうな顔をする。


「確か、地下鉄の駅のところにあったような気がしたけど。でもジョブセンターってヴァイオリニストの仕事も斡旋してくれるのかしら」


 あのヴァイオリンってお仕事じゃないの、と疑問というより確認の体で尋ね返してくるハドソンさんに、なんとも言えなかった。おしまいになったと思っていたのだ。きっと二度とステージになんてあがれっこないと。

 そんなことはないのだろうか。抱えたトランクが、詰め込んだ紙の重さでのしかかってくる。


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