第3話
眩しさで目が覚めた。上半身を起こしてから、歯ブラシもシェーバーも持ってこなかったことに気付いた。
もう一度ベッドに潜り込みたくなったが、どうにか堪えてベッドから這い出る。シャツを着てズボンを履いてドアを開いて、ドアの前で片手を上げた格好で固まるハドソンさんと目が合った。
「プライベートってものがあるから、あまり口を出しちゃいけないとは思うんだけど、朝ご飯くらい食べるかしらと思って。卵、スクランブルエッグでいいわね?」
「すみません」
朝食のすすめを固辞しようとする俺をハドソンさんはなだめすかして説教さえ交えながらダイニングのテーブルまで押しやり、パンやら焼いたベーコンやらの皿をどんどん俺の目の前に置いていく。
「いいのよ、どうせエイブラハムにつかまるくらいだもの、ろくな生活してないんでしょう。朝食の習慣ぐらいここを出ていく前につけることね」
まったくもっておっしゃる通り、まともな生活をしている奴はパブの裏口にゴミと一緒に転がっていたりはしない。我らがオーケストラが健在の折には規則正しい生活をしていたものだが、我ながらものの二週間でよくもここまで落ちぶれたものだと思わずにはいられない。
ハドソンさんは出来たてのスクランブルエッグの乗った皿を俺の前に追加すると、リンゴを抱えたシマリスの描かれたクリーム色のエプロンを外してテーブルの向かいに座った。
特にこちらに気を遣う様子もなく新聞を読み始めるハドソンさんに話しかけることも出来ずに朝食を腹に詰め込んでいく。バターをもらえるかとも聞けなかったのでパンの上にスクランブルエッグを乗せて食べ切り、ようやく会話の糸口がつかめたのはハドソンさんが新聞を畳み、俺がベーコンの最後のひと欠けを飲み込んだときだった。
「あの」
「コショウでもいる?」
「いえ、その。俺は、ここで何をすればいいんですかね?」
「さあ。とりあえずそれ、流しに運んじゃってちょうだいな」
俺は皿をまとめて洗い桶の水に沈めると、敢然として振り返った。ハドソンさんは両手を軽く挙げて首を横に振った。
「本当に知らないのよ。だいいちエイブラハムが何を考えてるかなんて分からないし、あなたみたいにそういうことを訊くようなまともな人が来たの、初めてだから」
「初めて、ってことは前にも来た人が?」
そう言えば昨日ハドソンさんは『今度こそ』と言っていた。
「そうね。今までに6人、1人は3日、2人は1週間でいなくなって、玄関先で2人が帰って、残りの1人は3週間と3日の後にふらっと出かけて、テムズ川の底で見つかった」
「みんなまともじゃなかった?」
「そう。玄関先で帰った2人以外はみんな、ちょっとまずい薬を使ってたみたい、多かれ少なかれちょっと目が変なようなところがあったし…・・・残りの2人はそういえば、片方はあなたと一緒でヴァイオリンケースを持ってたわね。もう1人はどうだったかしら」
「薬物中毒者とヴァイオリニストを集めて、あのジョン・ワトソンだかエイブラハムだかいう彼は一体何がしたいんです?」
ハドソンさんはちらりと壁の時計を見た。9時5分。そう言えば俺の部屋には時計も無かった。元の部屋の時計を外してくる手間を考えてから、笑うべきか驚くべきか分からないような気分になった。
ここで何が起ころうと、俺はここに居つく気になっている。
「そうね、まだ時間もちょっとあるし、私の分かる範囲で話してあげる。ただし9時半までね、私、カルチャーセンターで刺繍を教えてるんだけど、10時半に着くにはそれくらいに家を出ないと」
俺が頷くと、ハドソンさんはポットから2人分の紅茶を注いで、思案げな顔で座りなおす。
「どこから話そうかしら、エイブラハムが怪我するところからかしらね。あの人、昔は船に乗ってたのよ」
「その船が沈んだ?」
「何度でも沈んだわよ、潜水艦だったの。2年前まで、軍医をやっていたんだけどね、兵士の喧嘩の仲裁をしようとして巻き込まれて大怪我、それで退役したのよ。足、今でも引き摺ってるでしょう」
あのにこやかな男に軍隊とはどうしっくりこない響きだったが、それが今の俺と何の関係があるのだろうか。俺がぽかんとした顔で聞いていると、ハドソンさんは尋ねた。
「シャーロック・ホームズのシリーズは読んだことある?」
「いえ、まったく」
「私も付き合いでちょっと読んだ程度なんだけど。ジョン・ワトソンはわかるわよね、ホームズの相棒の。
ワトソンは元軍医で、アフガン戦争で足を怪我して退役するのよ。何か通じるものでも感じたのかしらね。エイブラハムは昔から本が好きで、ホームズもよく読んでたみたいなんだけど、退役してから暫くは足も悪いし、ずっと篭もりきりで本ばかり読んでいたんだけど、ある日突然活き活きした顔で出てきて、『ベアトリクス、ハドソン夫人をやってくれないか?』って。びっくりしたわ。
でももっとびっくりしたのは、薬物中毒の不良少年みたいなのを引っ張ってきてホームズって呼び出したことかしらね」
そりゃあびっくりするだろう。いまもって世間話のような体なのが不思議なくらいだ。
「一応、理由はあるのよ。ホームズは名探偵だけど、探偵なんてそこらに転がってないから他の条件でホームズらしい人を探したみたいね。どうも顔や性格じゃないところで選んでるみたいだけど」
「というと?」
「小説には化学者なみの知識を持ってて、ヴァイオリンとボクシングが得意で、暇になると銃で遊んだりコカインを使ったりするって書いてあったわ。多分薬物依存の患者ばっかり連れてくるのはボクサーやヴァイオリニストより分かりやすいからだと思うわ、挙動がおかしいもの。もしかしたら戸口で帰ったもうひとりの人はボクサーか化学者だったかもね」
『君は、ヴァイオリンが弾けるから』
昨日の言葉がようやく腑に落ちた。いや嘘だ。理由は分かったが納得なんて出来ない。第一そんな理由なら、本当のところヴァイオリンなんてあいつにはどうでもいいんじゃないか。
「あなた、でも、ちょっと顔も似てなくはないんじゃないかしら。面長だし、鷲鼻気味だし」
慰めているつもりかハドソンさんはそう言い足して、俺の憮然とした顔を窺った。
「他に聞きたいこととかあるかしら」
「彼は今どこに?」
「今は大学の頃の知り合いの研究を手伝ってるのよ。今日はそれで朝からオックスフォードの方に」
「あなたと彼は一体どういう関係で?」
「エイブラハムは私の弟よ。私の本名はベアトリクス・デイ、弟はエイブラハム・デイ。ちなみにハドソン夫人っていうのがホームズとワトソンの下宿の大家さんなんですって」
なるほど、あの距離感に何と無く説明がついた気がする。
「いいんですか、弟があんなようで」
「良くはないけど、でも言って聞かないんだからしょうがないじゃない? 慈善事業だと思えばいいのよ。家事は好きだし、ホームズたちの食費やらなにやらはエイブラハムの財布から抜くもの。どうせ年金が出てるしね。ずっと引き篭もっていられるよりは、ごっこ遊びに付き合う方がいいわ」
ハドソンさん、もといベアトリクスさんは立ち上がってカップをポットを片付け始める。
「これからどうするの?」
「生活必需品を揃えようかと思って。色々取りに行くものもありますし」
歯ブラシは新しいものを買うとしても、電気シェーバーは取りに行きたい。
「そう」
「当座、仕事が見つかるまではここでお世話になっても?」
「お皿は割らないこと、夜10時にCDを掛けたりヴァイオリンを弾いたりしないこと。それさえ守ってくれれば、なんなら仕事が見つかっても下宿にしていいわよ。新しい薬物中毒患者が来るよりは、あなたにホームズをやってもらった方がいいわ」
そう言い残して、ハドソンさんは自分の部屋へと上がっていった。俺は暫くぽつねんと何をするでもなくリビングにいたが、やがてのろのろと立ち上がって俺の部屋に戻った。
やっぱり入って最初に目に付くのが仔犬のカーテンとシーツというのはなんともいえない気分になるので、早晩ハドソンさんと話し合おうと決めて、ヴァイオリンケースを開く。
とにかく1回、ジョン・ワトソンだかエイブラハムだか、とにかくあいつには1回ヴァイオリンを聞かせなければ気がすまない。名探偵がどれほどの腕前だか知らないが、プロを捕まえて素人の代用扱いとはいい度胸だ。
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