第2話

「紹介するよ、大家さんのハドソン夫人だ」

「はじめまして、ベアトリクス・デイよ」


 こぢんまりとした煉瓦積みの家、石段に足を突っ掛けながら上ったその玄関。女性は俺とジョン・ワトソンを夜中だというのに文句も言わず出迎えた。

 綿地のたっぷりとしたスカートに小さなケーキとうさぎがちまちまと踊っているのが、上手だが濃い化粧やきつくパーマのかかった髪と噛み合わない女性だった。二通りの名乗りに戸惑いながら握手の手を差し出す。


「ラファエル・フリーマンです。お世話になります」

「夫人、こちらはシャーロック・ホームズ氏」

「そう、だと思った」


 怪訝な顔をしているのは、どうも俺だけだった。社交辞令の域を出ない微笑みを見せて、女性は俺の手を握ったままジョン・ワトソンに視線を送った。


「今度こそまともな人でしょうね? この人にまでうちのお皿をダメにされたら困るのよ」

「神に誓って、今度こそまともな人だよ」

「ならいいんだけど。ホームズさん、あなた気をつけてね、これ以上お皿を割られたらもうフライパンから直に食べてもらうしかないわ」

「気をつけます。ええと、ベアトリクス・デイ=ハドソンさん? 俺はラファエルです」


 細めに整えた眉を軽く上げて俺の手を離した女性に訂正すると、女性は上げた眉をキープしたまま首を横に振った。


「でもエイブラハムの『名探偵』になったんでしょう? なら少なくともこのひとにはラファエルでもレジナルドでもなくシャーロック・ホームズなのよ。私がベアトリクスじゃなくてハドソン夫人なようにね」

「エイブラハム?」

「あなたの横に立ってる、あなたにジョン・ワトソンって名乗った人よ」


 俺が思わず横を振り向くと、ジョン・ワトソン改めエイブラハムは何も聞こえていないような顔で気さくな紹介者の笑みをキープしていた。俺が再びハドソンさんを見た表情があまりに疑問に満ちていたのだろう、彼女は立ち話もなんだからと俺たちを招き入れて俺に問う。


「あなた、なんでこの人についてきたの? 言っちゃあなんだけど、どうかしてるとかって思わなかった?」


 微塵も思いやしなかった。今になってようやく少しだけ何かがまずいような気もしているが、それでもここでごめんなさい俺はやっぱりおいとましますと言う気にはさっぱりならなかった。


「ハドソンさん、どうかしてる、っていうのはひどいなあ、私はルームメイトを探していただけだよ」

「ワトソンさん、あなたには聞いてないし、大体ルームメイトって言ったって、あなたそもそも家賃なんて払ってないじゃない」


 俺はこの2人の関係性を掴みかねていた。ただの大家と下宿人とは言えないようなものが感じられるが、恋人とか夫婦というのも違うような気がする。

 ジョン・ワトソンは杖を鳴らしながら、俺を追い抜かすと、玄関を入ってすぐのリビングの奥にある白い扉を杖の先でこつこつと叩いて見せた。


「君の部屋だよ」


 部屋には、仔犬とクローバーといういささか少女趣味的な柄のシーツがかかったベットと、同じ柄の閉じたカーテン、抽斗一つ分がなぜかぽっかりと空いたタンス、年季の入った書き物机と椅子が置いてあった。

 何と無くベッドの仔犬の顔の上に荷物を置くのがためらわれて、床に持ってきたトランクとヴァイオリンケースをそのまま置く。


「可愛いシーツでしょう」


 ハドソンさんが心持ち自慢気に言う。彼女のスカートとは、確かに相通じるものを感じる。


「荷物はそれだけ?」


 俺が持ってきたのは片手で持てるトランクとヴァイオリンケースだけで、確かに引っ越しには身軽すぎる。


「彼が、生活に要りようなものは大体あるというので。何ならまだ取りに戻れますし」


 今のところジョン・ワトソンの言葉は本当のようだった。シーツとカーテンの趣味はおいおいハドソンさんと相談するとしても特に不足があるわけでもない。


「お茶を淹れてくるわね」


 ハドソンさんが席を外すと、ジョン・ワトソンはちらりと扉の方を振り返って小声で言った。


「君、今のうちに言っておくけど、ハドソンさんの許可なしに台所に入らないことだよ。お茶の一杯でも勝手に淹れたらとんでもない騒ぎになる。台所は彼女のお城なんだ」

「あんたとハドソンさんって、一体どういう関係なんだ?」

「言っただろ、彼女は大家さんだよ」


 話にならない。ハドソンさんに聞いた方がいくらか早そうだと見切りをつけて、荷ほどきにかかる。持ち出したものは本当に最小限だ。控えめな量の衣類、通帳と財布、ヴァイオリンの手入れに要るものに、年代もののCDウォークマンとCDが何枚か。ジョン・ワトソンはそのラインナップを眇めた。


「クラシックかい」

「好きなんだ」

「いいことだ。僕はこういうのにはどうも疎くてね」


 いいかい? とことわりを入れてジョン・ワトソンはCDの一枚を手に取った。髭を蓄えた男の肖像が描かれた一枚だ。


「エドワード・エルガー」

「知ってるか?」

「流石に名前くらいはね」


 ジョン・ワトソンは軽く《威風堂々》のメロディーをハミングした。まるきり何も知らないというわけでもないらしい。エルガー作品集を俺に返して、「君の気に入りはどれだい」と尋ねてくる。俺は少し迷って、収録曲中の一曲を指差した。《独創主題による変奏曲》、またの名を《エニグマ変奏曲》。


「謎(エニグマ)? 変わった名前だね」

「この曲には謎があるんだよ。ひとつに、この曲の各変奏にはそれぞれ人物名らしきイニシャルが与えられている。これはエルガーの友人たちを表しているとして粗方解明済みだ」

「へえ」


 知ってるやつの中じゃあ有名極まりない話だが、素直に静聴していただけるなら気分もいいというものだ。


「そしてもう一つ、エルガー自身が、この変奏曲には主題――楽曲を作る上で中心となる旋律――とはまた別に、作中で現れることのない謎の主題が用いられている、と言っているんだが、これについては今まで多くの研究家が山ほど仮説を立ててきたのにも関わらず、誰一人真相にたどり着けた者はいない」

「なんだかロマンチックだね」


 ジョン・ワトソンが微笑むと、丸顔の口角が上がってより一層顔が丸くなったような気がする。


「名探偵の君にぴったりだ」


 そうだ、こいつはシャーロック・ホームズとして俺をここに連れてきたのだ。けして一人のヴァイオリニストとしてではなく。でも名探偵だなんて言われて、それは一体何を意味しているんだ?

 急に部屋中の壁がのしかかってくるような頭の痛みを覚えた。まだ酔いが残っているのか、もしくは、今この瞬間やっと酔いが醒めたのかもしれない。


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