第65話



 ――そうして。


 来趾らいしにとって怒涛の展開は、一生合間見える可能性もなかった皇帝陛下への拝謁を以って、あっけなく終わりを迎えた。


「そんな……そんな、馬鹿な…………」


 陛下が立ち去り、ぱらぱらと頭が上がる中、叩頭したままの姿勢から身動きもできないらしいのは砂糖商だ。ぶつぶつと、現実逃避のような言葉を呟いている。

 来趾らいし自身も、本当に現実にあったことなのか夢心地であることは確かだ。……だって、言葉を交わしたのだ。あんな、思い返せば冷や汗しか出ないような軽口で。

 州の片田舎で、貴族に雇われる菓子職人見習いだっただけなのだ。それが、こんなことに巡り合うなんて、皇都に出てくるまでは考えもしなかった。


「……まさか……いや……でもあの女、陛下の御髪に…………」


 未だ慟哭の中にいるらしい砂糖商の言葉に、一緒に捕らえられた沙耶さんのことを考える。

 最初は本当に、綺麗な男性だと思っていた。城下には垢抜けた人がいっぱいいるんだなぁ、そんな人が首を突っ込んできて何なんだ? ぐらいにしか認識していなかった。


 ……なのに。


「巷では、今上陛下が皇妃様をお定めにならないと気を揉んでいたけれど、噂なんてアテにならないもんだね……」


 しみじみと呟く声は、隣で一緒に座り込む、使用人らしい格好の女性だった。陛下に拝礼できた興奮のせいか、顔が紅潮している。

 来趾らいしの視線を感じたのか、女がこちらを向いた。


「お前、一緒に連れ去られてきた男だろう? 念のために聞くけど、やましい関係じゃないだろうね……?」

「っ沙耶さんとですか!? まさかそんなっ!!」


 女の突拍子も無い疑惑に、慌てて目の前で手を振って否定する。


 まさか、そんな。

 綺麗な人だと思っていた。そして可愛らしく、でも強い人なのだと。もっと親しくなりたい、と思ったことは事実だったが、今ではもうそんな感情は吹き飛んで、ただただ尊敬に近い感情だった。

 パニックになりそうな事態に、沙耶さん一人だけが冷静に対処してくれたのだ。彼女がいなかったら、今頃全員が魔獣の餌になっていただろう。不敬かもしれないが、彼女は命の恩人なのだ。


 陛下の背中を追うように、去って行った彼女のほっそりとした後ろ姿が思い浮かぶ。


の御髪に触れるのは、専属の結髪師か、もしくは……」


 


 今でもそんな習わしがあるのかは知らない。が、庶民の間では大衆演劇や童話として広く知られていることだ。最初の誓いの口づけと共に。


「もしかしたら、陛下の御心は、既にお定まりなのかもね……」


 女の言葉に、来趾らいしも一人の民として、心の底から頷いたのだった。


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