第64話
さっき別れた時のまま、簡素な身なりで、髪を隠した姿ではあったが、周囲を圧倒するオーラは抑えきれていない。まるで睥睨するかのような無感動な瞳が室内を見渡し、それだけで状況を悟ったらしい。一つ吐息を零して、突然の登場に驚く沙耶を見下ろした。
「無茶をする前に獣を呼ぶ、という啖呵は?」
眉を寄せた陛下が、引き寄せた沙耶の腕を離し、それからむき出しの肩を撫でた。
その労わるような仕草につられて視線を落とせば、強く掴まれていた箇所に赤い爪の痕が残っているのが見える。
(うわ……そりゃ痛いわけだ……)
しかも結構ホラーな感じの見た目じゃん……なんて、どうでもいい感想を抱きつつ、冷静に現状を報告する。
「申し訳ありません。
「ふん……集まった魔獣どもが郊外に駆けて行ったのは、そういう理由か……」
その言葉にホッとする。全ての魔獣がちゃんと一縷に付いて行ってくれたのか、それだけが気掛かりだったのだ。
しかしそんな沙耶とは真逆に、焦燥の声を上げたのは砂糖商だ。
「な、なんだよお前は……!?」
突然現れた男に怯みながらも、精一杯の虚勢をはっているらしい。驚きに首を竦めたそのままでは、迫力なんてまるで無いのが滑稽だ。
そして当然の如く歯牙にもかけない陛下は、男の言葉を完全に無視して自分の上着を脱いだかと思うと、それを沙耶の肩に掛けた。隠すようにぎゅっと前を閉じられると、陛下の体温に包まれた感じがして、不本意ながらも安堵してしまう。
「外套はどうした」
「えーっと……さっきコケた時に脱げちゃいまして。その辺に落ちてるかと……」
「迂闊な……」
呆れ果てたような陛下からは、若干の怒気が見えている気がする。
いや、今拾おうと思ってたんですよ……なんて。心の中だけで弁明していると、
「えと……沙耶さんの旦那さん、ですよね……?」
ぽかんと見つめていた
それに眉を吊り上げたのは砂糖商だ。
「旦那だぁ!? 部外者は引っ込んでろっ! こっちはなぁ――」
突っかかるように距離を詰めて来る男を、煩わし気に一瞥した陛下。
「――州兵、捕らえておけ」
後方に向かって、簡潔に命じた。
「は…………?」
その意味を解す前に、砂糖商は地に伏していたのだろう。
瞬時に、武装した数名の兵士がなだれ込み、瞬く間に砂糖商は取り押さえられた。
へたり込んだままの番兵や、使用人の女、
室内は、たった一言で、完全に制圧されたのだ。
「……な……な……」
呆然と、陛下を見上げるしかない砂糖商。
この男は一体誰なんだ、とその混乱した顔が訴えている。
「っ……な、なにすんだっ! 俺はっ、俺はなぁ、この
未だに自分の優勢を信じているとでもいうのか、地に伏しながらも悪あがきを口にする砂糖商。確かに、この場にいるのがただの州兵だけならば、有力貴族に重用されている人間を捕縛するなど、不遜にもほどがある。罪を記した令状がないと、動くことなんてできなかっただろう。
それは砂糖商も気が付いたのか、
「っ、俺が何したってんだっ!? 証拠でもあるのかよっ、州兵ごときが俺を捕まえようなんてなぁ……っ」
唾を飛ばす勢いで、精一杯周囲を恫喝している。
「お屋形様に訴えりゃあ、お前らのクビなんて簡単に飛ばせるんだからなっ!」
必死で言葉を重ねる砂糖商。しかし、州兵たちは微かな動揺も見せない。
なぜなら、目の前に至上の存在がいるからだ。
この皇国で唯一の、至高。
「誰の許可があってこんな馬鹿な真似を――」
「――馬鹿な真似、ねぇ……。そもそもお前は、沙耶を攫った時点で俺に斬り捨てられても仕方ないんだが?」
この国を統べる男が、冷徹に見下ろす。
「な……っ、そんな私刑、皇帝陛下がお許しになるわけ……っ」
「そうかな? 妃に傷をつけられて、私が黙っているとでも?」
凄みのある視線が、砂糖商を射抜いた。
「……き……妃…………?」
「――陛下っ。ご報告申し上げます!」
唐突に、外から走ってきた兵士の一人が、陛下の前に叩頭した。
「屋敷内の掌握が完了しました。陸の当主も屋敷へ戻る途中だったようで、馬車のままこちらの指揮下におります」
「人的被害は?」
「双方ともにありません」
緊張に上ずった声で報告する兵士と、慣れた様子で淡々と受け取る陛下。
……そのやりとりを前に、驚愕の眼差しで口を閉じることも出来ない砂糖商。
「な……なん……いや……そんな……まさか……」
血の気の引いた顔は、真っ青を通り越して蒼白だ。
言葉を下す価値もないと言わんばかりに、褪めた眼差しの陛下を仰ぎ見て、直視することすら不敬であることも頭から抜け去っているらしい。
まぁ、陛下と至近距離で対峙できる人間なんて限られているから、ありえない、と現実を否定したくなる気持ちも理解はできるが……、立場を表明してしまった以上、陛下に対しての不遜な態度は、臣下として看過できない。
「陛下、御髪の布に何か……」
駄目押しとばかりに、声をかける。
凛とした沙耶の声は室内に澄み渡り、一瞬でこの場に貴人がいるということをしらしめただろう。自分がその役割を成せると知った上で、効果的な言動を選んでいるのだから。
「……ぁあ、来るまでに何匹か魔獣を斬り捨ててきたからな」
さらりとした発言だったが、それは本来なら驚異的なものだ。魔獣とは、一匹であっても数人の兵士が統制をとって狩るのだ。何匹かを斬り捨てる、なんて大言、精鋭の近衛クラス以上の兵士か、それ以上の……。
陛下は、沙耶の指摘に布の端を掴むと、顔をしかめ、素早く結び目を解いた。
布の落ちるしゅるりという音。
と共に、ばさりと広がったのは、純黒の髪……。
「……禁、色…………」
「……瑞兆……陛下……っ」
もう言葉は不要だった。
子供でも知っている何よりも尊い色に、砂糖商も、へたり込んでいた番兵たちも、それらに剣を向けていた州兵たちも、すべからく姿勢を正して
一様に、陛下を中心として広がる光景は、あまりにも壮観だった。
「…………沙耶」
ここが落としどころか、と目線で問いかける陛下に小さく頷く。あとは然るべき場所で事の次第をきちんと聴取すれば良いだろう。この場が抑えられている限り、埋もれた書き付けも確実に回収できるから言い逃れは出来まい。
沙耶の応じに同じく頷いて返した陛下。これでようやく一つの懸念事項が片付いたのだ、と感慨にふける……間もなく。
唐突にひょいと差し出されたのは、
(……髪紐かい…………っ!!!)
解いてしまった黒髪を鬱陶しそうにかき上げた陛下は、綺麗に編み込まれた一本の組紐を手にしていた。威厳のある姿勢は崩していないが、絶対に内心、邪魔な髪をどうにかしてくれ……と困っているに違いない。
思わず普段通り、自分で結ってくださいよ、なんて軽口が出てきそうになり、何とか口を噤む。こんな大事な局面で、妃に拒否される情けない姿なんて見せたら、叩頭している民達が可哀想すぎるだろう。
絶対に断れない状況でわざと頼んだな……とジト目で見つめるも、相手は何やら楽しそうに背中を向ける。
「…………三つ編みでも?」
小さくボソッと嫌がらせを呟いたのは、せめてもの反撃だ。けれど沙耶が本当にするわけないと確信しているのか、陛下は喉の奥で小さく笑っただけなのが何だか悔しい。
どんな手入れをしたらこんなに手触りが良くなるんだ……、と羨ましいぐらいのサラサラな髪を、手早く一つに結んだ。いつものように頭頂部で高く結ぶには、櫛がないから無理だったが、背中に流れる一本の黒髪は、見慣れた陛下の姿だ。
出来ましたよ、と声を掛けるまでもなく振り返った陛下と視線が交わる。
帰るぞ。
口に出さずとも伝わった言葉は、何者にも代えられない信頼の証に感じられて、少しだけ、胸が熱くなった。
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