第63話
腐臭の漂う鋭い牙から涎を垂らす、不気味な4足歩行の獣。それが室内、そして扉の外へと唸り声を上げながら列をなしている。
その最前で、沙耶たちの間に立ちはだかって威嚇するのは、銀の毛並みを逆立てた、
「ひぃいいいいっ! 魔獣が……っ!」
「ぎゃぁぁあっ殺される……っ」
叫ぶ番兵たちが、まろぶように沙耶達の後方へと逃げ込んだ。そして同じように、女と
彼らには、一縷も同様の魔獣として、恐怖の対象なのだろう。
「一縷っ、その箱を人のいない場所へっ!」
素早く指示を投げた沙耶。彼ら魔獣の求めるものが、あの箱の死骸ならば、あれをどこか人里離れた場所へやればそれで良いはず。
すぐに一縷が一声、大きく吠えて威嚇し、一瞬たじろいだ魔獣たちの間をすり抜けて木箱を口に咥えた。
張り詰めた緊張感の中、一縷を囲うように距離を開けて取り巻き始める魔獣たち。一縷が様子を伺うようにゆっくりと前足を出せば、同じだけ動く。そして匂いを嗅ぐように鼻を鳴らしていた。
……やはり、あの木箱に引き寄せられているのだ。
何かを躊躇うようにこちらを振り向く一縷に、行って、という意味を込めて頷けば、瞬時に身を屈め扉の外へと跳躍する銀の獣。
すかさず追従する魔獣たち。
「魔獣どもが出ていくぞ……っ」
「銀色のやつは味方してくれたのか……?」
驚いたような、だが安堵したような囁きが聞こえ、つい……この流れにホッと気を抜いてしまった。
「――沙耶さん危ない……っ!!」
「……ぇ……?」
集団を離れた魔獣の一体が、何を思ったのか沙耶の方に走り込んできたのだ。
「っきゃあぁ……っ!」
最前で立っていた沙耶のすぐ頭上を駆け抜ける獣。
腐臭とともに恐ろしい風圧がぐわっと沙耶の身体を襲い、地面に叩きつけられる。
「っ、沙耶さん……っ!」
「あんたっ……!!」
格子を一部破壊してから足を止めた魔獣は、方向を見失ったかのように首をグルリと巡らせ、そして、倒れる沙耶の目の前で立ち止まった。
何とか頭を上げる沙耶。
その視界に映ったのは、どす黒く汚れた鉤爪だった。
フシュ……ゥ…………。
色が見えそうなほどの腐臭。
ぼたぼたと垂れる粘液は、ヨダレか。
「…………っ」
混乱に心が乱れたのは、一瞬だった。
深く、細く息を吐き出せば、頭の芯が冴え冴えとして、恐怖心が吹き飛んだ。
「……沙耶……さん……」
スラリと立ち上がった沙耶。
外套代わりの布が肩を滑り落ちたが、そんなこと、今は構っている場合じゃない。
目の前の異形を、ひたりと見据える。
血に狂った双眸は淀んで、だらしなく開いた口からは、飛び出た舌が垢に塗れた牙を舐めている。
「……あ、危ないわよ……」
後方から不安そうな声が聞こえたが、沙耶は何故か、微塵も恐れを感じなかった。
絶対に従えられると、何故か確信していたのだ。
グルルルル……グルゥ……。
低い唸り声が、徐々に小さくなる。
静かに見据える沙耶の、表現しがたい威圧感。それを忌避するように、魔獣が小さく頭を下げ、ゆっくりと後ずさり始めたのだ。
――この獣は、地下に充満する死臭に、獲物の行方を見失っただけにすぎない。
「……行きなさい」
淡々と扉を指差す。
言葉が通じるとは思っていなかった。
けれど、それで伝わる気がした。
じりじりと下がっていた獣が、萎縮するように首を竦め、そして、
「……うそ……」
「帰っていく……?」
唐突に身を翻したのだ。
扉をくぐり、バッとどこかへと駆けていく魔獣。
一気に、新鮮な風が吹き込んできた。
「……っ、た、助かった……!」
「死ぬかと思った……」
大きく息を吐き出す音が聞こえて、沙耶も一つ、深呼吸をしてから振り返った。
破壊された格子と散らばった木片。壺も何個か割れていたが、幸いにも砂糖は入っていなかったようだ。
番兵達は腰を抜かしてへたり込み、下働きの女も放心状態だ。
「……沙耶さん……」
「何とか、なりましたね」
壊れた格子の隙間から呆然と見上げてくる
「ついでに牢も破ってくれてラッキーです」
「……は、はい……あの、貴女は……」
なぜか戸惑った様子の
どうしたのかと小首を傾げた沙耶は、言葉の続きを促そうとした、
その時――、
「――なっ、なんで魔獣が出て行ったんだっ!?」
扉から、驚愕した男の声が割り込んできた。
「……砂糖商…… !?」
「どうやって魔獣どもを……くそっ、死骸がねぇじゃねぇか!! あいつら、ここで喰わずに咥えてったのかっ!?」
破られた扉から忌々しそうな表情で入ってきたのは、逃げたはずの砂糖商だった。
額に髪が張り付くほどに汗をかいて、肩をいからせながら呼吸をしている。
「〜〜っくそっ……くそっ、くそっ、くそぉ……っ!!」
「……ぇ、え……?」
恐ろしい形相で声を荒げた砂糖商は、ギッと沙耶を睨み付けると、真っ直ぐに突っかかってきた。
大股に近づいてくる勢いに、思わず後ずさりするが、数歩のところで壁に当たってしまう。
「逃げるな女っ、さっさと書き付けをよこせっ! お前のせいで戻ってくるハメになったんだからな……っ!」
砂糖商の怒声に、ハッと気が付けば手には何も持っていなかった。
(あ、さっき倒れた時に……)
突然の魔獣の暴走で、手から離れてしまっていたのだ。おそらく、この残骸たちの下敷きになっている。
薄い娼妓の衣を露わにした沙耶が、空の両手を上げたことで、その手元に無いことは察したのだろう。砂糖商が憎らしげな顔で周囲を見渡してから、再び沙耶に怒鳴りつけた。
「なんでお前っ、持ってねぇんだっ! どこへやった!? どこに隠した!?」
「……っ……ちょ……」
焦る砂糖商がその太い手を伸ばし、乱暴に沙耶の肩を揺さぶった。ガンガンと、壁に叩きつけるような激しさに、思わず顔を顰める。外套代わりの布を落としたままの肩は剥き出しで、手入れされていない爪が皮膚に食い込んで痛い。
何とか砂糖商の手を振り払おうとするが、その力は強かった。
「くそっ、時間が……っ。っ、さっさと出させっ! 出さねぇなら部屋ごと燃やすぞっ!?」
何をそんなに逼迫しているのか、最終手段のような言葉を口走り、更に強い力で肩を揺らしてくる砂糖商。
「……っ、いた……」
「こうも計算が狂うなんてっ……くそっくそっ!!」
「ちょ、ちょっとちょっと、待ってくださいよっ、落ち着いて……っ」
慌てた
沙耶も、冷静な相手には冷静に相手をする自信があるが、こうも激情に力任せでこられるとどうにもならない。
引き剥がせない男の腕と痛みに、若干の恐怖を感じ始めていた。
「早くしろよっ! 魔獣に喰われなかっただけ有難てぇだろうが!」
「……っ、だから……っ」
「まずはその手を離してくださいっ!」
「うるせぇっお前は黙ってろっ! 喰われそこないがっ!」
「ぃた……っ……」
冷静に会話できる余地のない現状を認めるしかない。
……一縷を呼び戻す?
いや、まだそんな遠くまでは行ってないだろうし、もしかすると呼ぶ声は届かないかもしれない。
どうすれば……と焦る心とは裏腹に、頭に血の上った砂糖商は、苛立ちをぶつけるようにひたすら怒鳴り続けている。
「燃やされてぇのか!? その燭台を木箱の上にぶちまけりゃあ、お前たち全員炙り殺しだぞっ!」
どうすれば……と、思わず、扉を見つめてしまう。
きっと来てくれるはずの、あの人が脳裏に過ぎり……、
「さっさと出せっ、じゃないともう――」
「――もう、どうなるんだ?」
「…………!?」
「その手を離せ」
落ち着いた声は、耳に馴染んだ重低音。
命じることに慣れた言葉には、抗いがたい重みがある。
驚いた砂糖商が硬直し、ぎこちなく振り返る、その前に、
「わ……っ」
「大丈夫か、沙耶」
「は、い……」
強い力で引き寄せたのは、皇帝陛下その人だった。
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