第55話


 いよいよ身動きの出来ない体勢に、解かれていく掛け布――。



「――一縷いちるっ!!」


 叫び声に呼応して、一瞬で足元に現れた銀糸。


「グルゥ…………」

「…………獣か」


 威嚇するでもなく、静かに歩み寄ってくる、白銀の毛並みを持つ魔獣。

 知的にも見える落ち着いた一縷の視線は、陛下に注がれ、そして小さく鼻先を下げた。


 まるで陛下を陛下であると認識しているような態度だ。こんな状況で呼べば、牙を剥いてもおかしくないと思っていたのに……。そして陛下も一切顔色を変えず、静かに一縷を見下ろしていることに驚く。

 そういえば最初から、陛下だけは一縷を恐れなかった。


「……私には、一縷がいます。万一の時には、一縷を呼びます」

「優秀な護衛だな。……確かにこれでは、誰も手は出せまい」


 力なく訴えてみた言葉に、陛下は小さく笑って拘束を解いた。


 壁に縫い止める手が無くなり、沙耶はそのままぽすりと地面に座り込む。


 ……安堵に、足の力が抜けたのだ。


「そんなになるまで意地を張るな」


 呆れたように笑う陛下は、もう既に、普段見知った気安い雰囲気だった。

 その変わり身の早さに、ただの脅しだったとわかり、悔しさからじんわりと目頭が熱くなる。


「〜〜〜っ、ほっといてくださいっ。根性と勢いだけでここまで来たんですからっ」

「ははっ、それは認めよう」


 軽く涙目になっていることなんて絶対に見られたくなくて、一縷の毛並みに顔を埋める。しかも陛下は楽しそうに、穏やかな目線を向けてくるのだから、一層意地を張りたくなるものだ。


 沙耶は、体温より暖かい一縷の温もりに癒されてから、気合を込めて立ち上がった。


「――地下の座敷牢とやらを調べます」


 意識して、官吏でいる時と同じテンションで話す。


 今度は、真正面から陛下の視線を受け止めた。


「許そう。……万一にならなくても、危なそうなら獣でも何でも、きちんと呼べ」

「承知いたしました。お許し、有難うございます」




***




「地下はこちらだ」


 沙耶は再び掛け布を外套代わりにして、月光に淡く映る陛下の背中を追っていた。

 どうも陛下は、沙耶を探し出すまでの間に、この屋敷の番兵として紛れ込んで、内部構造を大体把握していたらしい。……どんな皇帝陛下だ。


 そして一縷には再び、離れたところから見守ってくれるようにお願いしている。無茶をする最低条件、とのことだが、それはこちらとしても同じだ。陛下はこの国の唯一無二なのだから。


「……地下への見張り番はいるのでしょうか?」

「さぁな。もしいれば、交代の時間だ、とでも言ってみるか?」

「それはリスクが高すぎる気もしますが……」


 地下に人を閉じ込めているなら、誰かが監視していてもおかしくはない。


 と、懸念していたが、


「……誰もいないようだな」


 前を歩く陛下が足を止め、しばらく目を凝らしてからそう言った。


「あの小さな階段が、地下への入り口ですか?」

「そうだ。この屋敷に地下といえば、ここしかない筈だ」


 それは地面から少し下がった位置にある、半地下のような建物だった。

 周囲を背丈ほどの樹木で隠し、一見すると少し不自然な位置にある丘のよう。ただ、一角に階段が設けられ、それが地面の下へと繋がっているのだ。


「……本当に人の気配はありませんね……」

「入るか?」

「…………はい」


 こういう状況には慣れていない。

 緊張している自覚がある沙耶は、一呼吸置いてから陛下に返事をした。


「では俺が先に行く。階段前で合図をするから、それから来い」


 そう言ってスタスタと大股に歩いて行く陛下。その姿には微塵の迷いも見えない。


(……ふむ。パッと誰かに見られても、完全にこの屋敷の番兵だわ)


 陛下の姿が階段の下に消え、それからすぐに合図があった。


 沙耶は足早に階段へと向かうと、陛下の待つ扉の前に立ち、


「……っ、何ですか……この臭い……っ」


 予想だにしない異臭に、鼻を押さえた。


 ごく普通の簡素な戸板に、簡易的な閂をしただけの、本当にただの倉庫のような建物から、何かが腐ったような、饐えた臭いが漂ってきているのだ。


 明らかに異常な臭いだ。


 扉を開けたくないとまで思える、不気味な悪臭……。


「……開けるか……?」


 この臭いの異様さには、さすがの陛下も顔を顰めている。

 しかし、だからこそ何かがある、と沙耶は確信した。


「開けます」


 意を決し、閂に手を伸ばした。


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