第53話
***
「……行ったか」
「…………はぁ」
低く、よく響く男の声に、気の抜けた返事をした沙耶は、覆い被さっていた身体が引いたことで、ようやくホッと息をついた。
男は沙耶の腰を跨ぐように棒立ちになったまま、端正な面差しを周囲に向けている。美しい月夜を背景にしたその姿は思わず見惚れるほどで、沙耶は仰向けのまま、ぼんやりとその陰影が生み出す芸術を眺めていた。
と。
その視線が、つぅと下げられた。
「……コラ。突然襲われたんだから、もっと抵抗しろ」
「なんで襲った張本人張本人が不機嫌なんですか」
不満も露わな双眸は、見慣れた漆黒。
「どちらかというと、私の方が文句を言いたいのですが。なぜこのような場所に? ……陛下」
先ほどの男達と同じ、鼠色の簡素な
戸部で何度も嗅いだ、皇帝陛下、その人の香。
普段の執務服にも薫きしめられている香りが、沙耶を包んだのだから。
そんな、沙耶を襲った張本人である陛下は、苦虫を噛み潰したように顔を顰めて、沙耶を跨いでいた足を退けると、大きく溜息をついた。
「……お前がやらかすからだろう……」
「え、決裁書類でもミスってました?」
「違うわ! 今の状況だ!」
見当違いだったらしい。
「なんだ、追い掛けてきてまで始末が必要な事態なのかと……というか、どうして私がここにいると……?」
「工部侍郎に聞いてな。……
「あぁ。
工部侍郎も、まさか早朝の会話を陛下に伝えたら、陛下本人が後を追うなんて思いもしなかっただろう。
沙耶も、溜息を吐きたい心境で立ち上がると、掛け布についた砂埃を払った。ベッド用の大きな布地だったお陰で、少し着崩れただけで済んだのが幸いだ。ゴワゴワだから身体の線も出てないし、有能。
そんな沙耶の様子を見ていた陛下が、それみろ、と言わんばかりに片方の口角を上げた。
「俺が来て、助かっただろう?」
「……助けるにしても他にやりようはなかったんですかね……」
私のファーストキス……衝撃的すぎてなんの感想も浮かんでこないっすわ。……とは言えないが、訴えたいことは伝わったのだろう。少し不味そうな顔をした。
「ふんっ、あんな近くまで来ていたんだぞ? おざなりなフリだけじゃあ騙せない事ぐらい、わかるだろう。……別に初めてでも無いんだし」
「…………」
「……っと……」
失言に気付いたように口元に手を当てる陛下に、言い返せない沙耶。
(戸部侍郎ともあろう者なら、女の1人や2人、手を出してないわけないよな、って事かしらー?)
これで実は初めてだと文句を言うのは、さすがに情けなさすぎる。戸部侍郎としての沽券にかかわる……気がする。
というわけで、聞かなかった事にして流すことにした。
「……あー……そういえば。陛下は本日、宴に出られていると聞いたのですが……?」
「あ、あぁ、それな。うむ、最初だけ出た」
「…………?」
最初だけ?
陛下が主催したのに?
不思議そうに首を傾げる沙耶に、少し言い淀む陛下。
「……
そう一気に言って、こちらを伺うような陛下。
「そ、うだったんですか……」
てっきり、お酒を飲みたかっただけなのかと……なんて口が裂けても言えない。咄嗟に機転を利かせて、沙耶を攫った雇い主の可能性がある貴族達を、まとめて足止めしてくれたのだ。
陛下の判断力・行動力にはホント驚かされるが、そうまでして助けてくれようとしたのか、と思うと胸が熱くなる。……ご本人が登場するというのは、後からもっとしっかり文句を言いたいが。
「有難うございます。お手を煩わせてしまい、申し訳ございません」
「そう思うなら帰るぞ」
用は済んだ、とばかりに踵を返す陛下。
その聞き慣れた指示に思わず従いそうになって、慌てて真っ直ぐ伸びる背中を呼び止めた。
「っお待ちください。今、
そう、さっきの男達の会話だ。
お屋形様が魔獣を呼んだ、と言っていなかったか?
それがもし本当なら、大きな獣害の元凶はこの家の主ということになる。由々しき事態だ。
官吏としてだけじゃなく、いち個人としても無視できない問題だ。
なのに、
「……何かあるなら俺がこの家を捜索させよう。お前は帰れ」
無情な言葉に息が詰まる。
「っ……何故です? いえ、しっかりと証拠が固まっているなら良いのです。後の御処置はお任せいたします。しかし、今はまだ何の確証も無いのです。確認できたのは、皇都以外へ砂糖の供給を止めている、という事ぐらいで……。ここで無闇に警戒されて、大きな何かを逃す方が問題と考えます」
「…………」
陛下が何を危惧しているのかはわからないが、沙耶の言い分にも利があるとは思ってくれているようだ。難しい表情でこちらを見つめてくる視線には、その陛下たる所以である思慮深い威厳を感じる。
「……私は戸部侍郎です。その任にふさわしいだけの裁量を任されております。ここまでの大事にしてしまった手前、どうか、最後まで全うさせてください」
「…………お前は……」
何かを言いかけて口ごもる陛下。
こういう、煮え切らない態度は珍しい。
「私と一緒に捕まってしまった者もいるんです。せめて、助けてあげたいのです」
「…………ならん」
「っ何故です、か――――」
その硬質すぎる拒絶に、思わず悲鳴のような声をあげて陛下へと駆け寄……ろうとして。
足元が、絡まった。
「……っ……!!」
外套代わりに巻きつけていた、掛け布の端を踏んだのだ。
走り始めた勢いのまま、前傾した身体は止まらず、とっとっと……と布を踏み付けながら、目の前の陛下へ突進していき――。
「ひぁっ……!!」
「おっと…………」
傾いだ身体が力強い腕に抱きとめられた。
と共に、ひんやりとした風が沙耶の肌にダイレクトに吹き付ける。
「…………ぁ……」
「……な……」
地面にふわりと落ちていく、掛け布。
そして露わになったウエストには、陛下の暖かい腕がしっかりと回されていた。
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