第50話
「……っ……」
お屋形様が娼妓に与える露出の多い衣は、女からすれば下品だ。
というのに、目の前の女は、その控えめな美貌と相まって逆に衣が映え、絶妙なバランスの美しさに目を奪われてしまった。薄暗い室内の中では、白く滑らかな肌が輝いて見え、頭上を覆うレースは目元に気品すら感じる影を落としていた。
(これは……まずい……)
お屋形様の寝所に上がれば、間違いなくお気に入りになるだろう。そう思わせるだけの雰囲気があった。
それは勿論、隣に立っていた姐さまも感じたようで、
「…………おまえ……名前は?」
「ぇ、あ、沙耶、です」
「……生意気な目」
「へ…………っ……!」
突然の来訪者に困惑した様子で、所在なさげに立ち上がった虜囚……沙耶のコメカミを、姐さまが突然、扇で打った。
バシッという音ともに、沙耶が顔を背けてたたらを踏む。
「伏せなさい、無礼な」
「……っー……申し訳ございません……」
痛みと驚きで呆然とした表情をした沙耶だったが、すぐに丁寧に頭を下げた。目を合わせるな、という姐さまの意図が通じたのだろう。
貴人に対し、許しもなく対等に目線を合わせてはいけない、という絶対的な身分制度だ。
「あまり賢い子じゃ無さそうだけど……ちょうど良いかしらねぇ。旦那様は
冷え冷えとした声音で沙耶を嘲る姐さま。どうやら完全に敵とみなしたらしい。
服装に合わせて結い直したのか、朱色の絹紐を編み込んだ沙耶の三つ編みを、姐さまは邪魔そうに扇で打ち払った。
「おまえみたいな卑しい人間が着飾るなんて、無粋だこと」
誰が聞いても、嫉妬からくる暴言だとわかる、短慮な発言だ。一応は主人と仰ぐお一人、あまり小物じみた発言は控えて頂きたいのだが……。
「身分はきちんと弁えなさい。何と言っても旦那様は、本日とうとう皇帝陛下主催の宴にお呼ばれしたのです。それほど覚えの目出度い御方様に、おまえのような卑しい者が――」
一方的に言われ続けても、最初の打ち据えられた時以外、全く動じた様子を見せない沙耶。ただひたすらに完璧な姿勢で礼を続け、姐さまの言葉を受け止めている姿には感心する。こんな場所に連れて来られた挙句に罵倒されるなんて、理不尽にも程があるだろうに……。
「……つまらない子」
その反抗する様子の無さには、さすがの姐さまも気が削がれたのか、最後にもう一度念押しのごとく、沙耶の下げた頭を扇でパシンと叩いてから、踵を返した。
「帰ります」
「あ、はい、姐さま。……お前は、呼ばれるまで大人しくしておくこと」
慌てて姐さまの後を追いながら、未だ静かに頭を下げている沙耶に言い含めて部屋を出る。戸を閉める前、置き去りにしていたタライと手拭い、そして取り上げた沙耶の衣を廊下に出すのは忘れない。後で手の空いている女たちを呼んで片付けさせよう。
それから滑りの悪い戸をしっかりと閉じ、心張り棒を添えようとして……、
「それは不要よ。……忘れたことになさい」
「えっ……!? ですが……」
悪態でも吐きそうな表情で振り返った姐さまの、小さく顰めた言葉に驚いた。
心張り棒をしないなんて……そんなのすぐに逃げられてしまう、という言外の危惧に、姐さまは冷たく笑った。
「わたくし達は、旦那様をお迎えする為の準備に勤しんでいて、少し注意が欠けてしまったのです。まぁ本日は急遽お戻りになられない事にはなりましたが、そういう予定の変化に柔軟に対応出来るよう、常に気を配っているのですからね。……そういう事にしましょう?」
密談でも交わすような声音で、意味深な笑みを浮かべる姐さま。
「わたくし達は、つい、心張り棒を忘れてしまった。……それで万一逃げたとしても、それは娼妓が悪いのです。だって自分の立場を理解して、旦那様にお仕えする気があるのなら、逃げることありませんでしょ?」
「……はぁ……いえ、しかし――」
お屋形様の重用する商人が連れてきたので……と訴えたかったが、どちらの身分が上かといえば、一応は女主人である姐さまだ。姐さまの指示に意見できるような立場でもないし、商人を引き合いに出せば火に油だ。
「身元の分からない卑しい身分の人間を、旦那様の大事なお屋敷に留めておく方が問題ではありません? ましてやそんな女に、尊い旦那様のお相手はさせるなんて……怖気が走るわ」
「……そ、うですね、はい」
「じゃあ捨て置きましょう、ねぇ」
顔を歪めて笑う姐さま。
ただの下働きとしては、深々と礼をして、従う以外に余地はなかった。
「……だってあの女、腹立たしいほどの黒い目だったわ。……あんな娼妓、いてたまりますか……」
吐き捨てるように呟いた言葉だけを残して、大股に歩いていく姐さまの背中を見送る。
(黒い目……?)
そう言われれば、あまりちゃんと目を合わせていなかったから気にしていなかったが、沙耶は暗い色の瞳をしていた。それが茶色や焦げ茶色なら、庶民でもよくある色合いなのだが……、
(姐さまがそこまで言うぐらい、黒い色なんだったら、そりゃ嫉妬するか……)
姐さまの生家は、地方ではそれなりの家柄だったと聞く。お屋形様の奥方様よりも、家格としては高かったとか。だけど、姐さまが金髪碧眼であるのに対して、奥方様は亜麻色の髪に紺碧の瞳という、若干濃い色合いをしていたのだ。それが分かれ道になったらしい。
(お屋形様は砂糖を元手に、大貴族へ連なりたいと考えておられる。そりゃあ少しでも貴い色合いの相手を選ぶさ……)
もし姐さまが黒い瞳をお持ちだったら、『奥方様』と呼ばれていた未来があったかもしれない……。
と、そこまで考えて首を振る。詮無いことだ。
そんな不毛なことよりも、今は目の前の仕事を片付けなければならない。
廊下に置かれたタライにはまだ湯……いやもう完全に常温になった水がたっぷり入っている。手の空いてる3人ぐらいに声を掛けて、桶を持ってきてもらおうか……。
ひとまず先に、手拭いと取り上げた衣だけでも洗い場に持って行こうと、床から拾い上げ……、
「……ん……?」
衣の端に絡まるように、一本の長い髪の毛を見つけたのだ。おそらく虜囚が髪を手入れした時に抜け落ちたものだろう。
それは別に良い。髪なんて毎日抜けるものだ。
しかし目を見張ったのは、白に近い金髪だと思ったその髪の、もう半分が貴色……つまり、黒色だったのだ。
「……
神にも等しい『瑞兆』の証である、黒い髪。現在では『日輪の君』である皇帝陛下だけが、その色を身に纏っていらっしゃるはず。
なのに……、
「これ、根元の方が黒い……?」
毛先は白とも言えるほどに色が無く、傷みきっているにも関わらず、根元は黒々と、艶やかに光っていた。万一、何かで汚れたとか、不遜ながら黒を詐称しようなんて事であれば、根元までこんなに美しい黒い髪に出来るはずがない。
(……そういえば、あの虜囚は頭部を布で覆っていた……)
奇跡に触れたような高揚に、心の臓が痛いほどに脈打った。と同時に、背筋を冷たいものが走る。
「……まさか……だって、そんな……」
あんな格好を強いた上に、罵倒し、監禁している。
もし……もしも、もしも本当に……『 』だったら……?
「……あ、ありえない……こんな場所に、いるわけないもの……」
私は、何も知らない。
何も言われてないんだから、と思考を振り払って洗い場へ小走りする。
未だ胸は大きく鼓動を刻み、どうしたら良いかわからない衝動に冷や汗が出る。
そして、洗い場に誰もいないことを確認してから――、
手に持ったままの一本の黒い髪を、丁寧に畳んで、自らの手拭いの間に挟んだ。
……決して、失くさないように。
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