第29話

***




 沙耶が執務室を出て行ってすぐ。


 戸部侍郎の席を陣取る、存在感のあり過ぎる客人は、貰った紙袋を手で弄びながら口元が綻んでいた。

 高く結った黒髪に、常は冷徹さすら見せる黒い瞳。この世で最上の貴色を纏う皇帝陛下の、唯一無防備になる姿に、不遜ながら兄貴分のような気持ちになった戸部尚書・佐伯さえき踏青とうせいは、持っていた筆を置いて小さく笑った。


「良かったですねぇ、陛下」

「……む……勝手に城下に行かせるな」

「それは無理ですよ。うちの侍郎は優秀なんで」


 そうサラリと言うと、渋面になる若き主君。どうせ恥ずかしさからの、おざなりな文句だから丁度いい。

 恐ろしく忙しい筈なのに、仕事の一環とはいえ、殆ど毎日、時間を捻出してはやってくるのだ。それだけ大事にしているひと時なのだということは理解しているが、事情を知っている身としては、揶揄いたくなってしまうのだから仕方ない。

 ただの乳兄弟という、皇族でも何でもない踏青に、こんな態度を許している陛下の、度量の広さと情の篤さは疑うべくもない。反面、統治者としては冷然と数字に厳しく、情け容赦ない判断を下すこともあるのだから、得難い側面とも言える。


 普段であれば雑談程度の時間を過ごすだけなのだが、お茶をするとなると、やはりそれなりにゆっくりして頂きたい。


 処理の終えた書類の山をまとめながら、チラリと三席へ視線をやれば、


「――戸部尚書。時期予算の分配について検討したいので、全員を資料室に連れて行って宜しいでしょうか」


 意図を汲んだ三席の男が、素早くお伺いを立ててきた。


「助かるよ。あ、それって沙耶の担当分は?」

「戸部侍郎はとっくに仕上がっており、我々の分をお待ち頂いている状況です。最終的には戸部侍郎の確認を持って、提出させて頂きます」

「そうか、なら宜しくね。後で沙耶も向かわせるよ」

「有り難うございます、失礼します」


 キビキビと礼をして、室内の部下達を連れて出て行く三席。それを見送りながら、うちの侍郎は仕事が早いなぁ、と改めて思う。最近は熱を出したり、陛下からの厄介ごとを調べたり、時間を取られていただろうに……。


「沙耶ってば、いつの間に予算取りの草案まで仕上げていたのやら……」


 思わず呟けば、部屋に唯一残った美丈夫が、その柳眉を片方持ち上げた。


「……どういう意味だ?」

「あぁ、いえいえ、ただ感心しただけですよ。沙耶には結構な量の仕事を振ってるんですけどね、その中で時間を割いて、あの七面倒な草案までさっさと仕上げてくれるなんて……やっぱり適材ですねぇ」

「…………一応は俺の妃だが……?」

「失礼しました。風邪を引いた沙耶を、影からこっそり見守ってしまうぐらいですもんね」


 にこりと笑みを向ければ、更にムッと押し黙る陛下。緻密な刺繍の入った官服で乱暴に足を組むと、頬杖を突いて息を吐く。


「さっきの話を聞いていたか? 沙耶のやつ、病み上がりに酒を飲んで、悪い酔いしたらしい」

「まぁま、たまには飲みたい時だってあるでしょうよ」

「病み上がりだぞ!? ……ただでさえ後宮では、少し前に酒乱で降格した者がいたというのに」

「おや、それは間の悪い。にしても、陛下の後宮で、懲罰者が出るなんて、珍しいことですね。そんなにその姫の酒乱は酷かったのですか?」


 基本的に後宮にはノータッチの陛下だ。式典や祭事では、一番、位の高い妃を同伴者に選んでいるが、それも内侍省を通して適任者を選出して貰っているに過ぎない。寵愛争いの酷かった前皇帝の時代には、愛欲が絡んで様々な懲罰や、規律が生まれたものだが……。


「他の宮の者から苦情が殺到するぐらいには煩かったそうだ。騒ぎを聞きつけて踏み入った女官達からも、弁解の余地なし、と。であれば、俺が擁護する謂れもないしな」

「おや、お冷たい。沙耶を迎える前、出戻ったら殺されてしまいます、と妃達に泣きつかれて後宮の解散を踏み留まった、お優しい陛下とは正反対ですね」

「今では踏み留まっておいて良かったと思っているさ」

「沙耶を受け入れても目立ちませんでしたからね。……ですが、」


 そう言って、『日輪の君』を見つめる。


「もし今度、せめて一度でもお情けをくれないと生きていけない、と懇願されたら如何致しますか?」


 黒い、全てを映し返すかのような双眸が、ゆるりと細められた。


「ならば死ね、と言うしかないな」


 無慈悲なまでの、冷淡な言葉。

 いささかも心を動かす価値はない。そう言わんばかりの静かな表情に、踏青は安堵した。


 この方こそが、この璃寛皇国りかんこうこくの皇帝陛下なのだ。


 ……たとえ比翼を得られなくとも、陛下の治世は揺るぎない。



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