第22話
「…………っ!」
頭を上げた瞬間に、目線がくらりとブレた。
「おっと……」
素早く工部侍郎が身体を支えてくれる。
しっかりとした大人の力強さの中に、嗅ぎ慣れない上品な香……。
彼のおかげで倒れ込むことはなかったが、そのまま廊下にしゃがみこんでしまった失態に、舌打ちをしたい気分だった。
「…………っ」
「ほうら。だから言っただろう、送るって」
工部侍郎の勝ち誇った言葉に、嫌味の一つも返せないのが歯痒い。
確かに現状、目の前がボヤけ、吐く息が熱い。一度気付いてしまうと、力の抜けた足も怠く、発熱しているのを自覚するには十分だった。
(えー……こんな時に、風邪引いた……?)
そう言えば髪が濡れているせいか、凄く寒いとは思っていたが、もしかしなくても熱が出る兆候だったのだろうか。
(……えーっ、せっかく後で
「とりあえず医務室に行くかい? それとも帰った方がゆっくり休めるかな?」
「――……いや、でも席にさえ座れたら、書類は読める……」
「ぶはっ……! 君、その状態でまだ仕事する気なの?」
「え、あ……脳内葛藤が口からダダ漏れでした……」
吹き出した工部侍郎の言葉に、ワンテンポ遅れて自分の独り言に気付いた。
ダメだ、本格的に熱に浮かされてる。
変なことを口走る前に、素直に休みをもらった方がいい。それに、
「周りに風邪を移したら迷惑でしたね……。すみません、熱で判断力が鈍っているようです」
「はははっ、いや、別にそんな事が言いたいんじゃなくてね。……うん、本当に面白い子だね。そりゃあ、あのお方が――……」
気にする筈だ……というような言葉が続いた気がするが、しっかりと聞き取れなかったのと、意味がわからなかったので、もう一度聞き返そうとした。
のだが、
「――何をしている」
「陛下……」
突然聞こえた、耳慣れた重低音。
その声に素早く姿勢を正した工部侍郎が、最敬礼で頭を下げた。
すぐに沙耶も、ここが公衆の面前……戸部という密室じゃないことに気付き、同じように頭を下げようとしたのだが、身体に上手く力が入らない。
「……っ、御前に無作法、失礼いたします……」
「良い。体調が悪いのか?」
周りの目を考え、普段の気安さなど微塵もない、皇帝陛下として言葉を掛ける陛下。
しかし、そんな態度に物寂しさを感じることはなく、何故か逆に、傍に来てくれたことへの安心感が優っていた。
(……何なんだろうね。波長が合う、とでも言うのか、凄い近い存在のように感じるんだよね。こういう瞬間……)
それに不思議と、辛かった呼吸が落ち着いてきた気がするのだ。
ひとつ深呼吸をして、しゃがみこんでいた姿勢から立ち上がり、頭を深く下げて礼をする。
「……申し訳ありませんでした。体調を崩していたようで、立ち眩みが……」
「そうか。工部侍郎、戸部尚書に『戸部侍郎は体調不良のため暫く休む』と伝えてきてくれ。私からの指示だと言ってくれて構わない」
「はっ、かしこまりました」
「そこの女官。医務室に伝令を。急病人が行くから、ベッドを空けておけ、と」
「は、はいっ! 至急お伝えいたしますっ」
沙耶の返事を聞くなり、テキパキと周囲に指示を出していく陛下。
結局、周りに迷惑を掛けている事実に、自己嫌悪に陥りそうだ。
「ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。少し休めば回復すると思いますので……」
そう謝罪しつつも、きっと陛下は風邪を引いたマヌケ具合に呆れているんだろう。そんなことを思いながら顔を上げたのだが、見えた表情は想像と全く違うものだった。
「――医務室に行って、少しマシになったらもう帰れ。帰れそうになかったら、そのまま泊まればいい。後で人が入れないように命じておく」
声を潜める陛下は、酷く心配そうに眉間に皺を刻んでいた。
その予想外の表情に、一瞬ドキリとした沙耶だったが、何とか絞り出すように礼を伝える。
「あ、有難うございます……」
「……だから言っただろう、髪を濡らしたままにしておくな、と。――熱が下がっても、明日は出仕しなくてよい」
最後の言葉だけは、周囲に聞こえるようにしっかりと伝えた陛下。こう言われてしまえば、明日は絶対に休まないといけないだろう。
未だ伺うように見つめてくる視線に、もう大丈夫だから、と頷いた沙耶は、気にするように立ち去っていく背中を見送った。
一分の隙もない、皇帝陛下の後ろ姿を眺めながら、
(そりゃあ2日連続、濡れた髪のままでいたら、身体も冷えるか……)
しかも苔臭いしね……と自重気味に嗤った沙耶。
そして大きく息を吐くと、ゆっくりと医務室へ歩いて行ったのだった……。
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