第20話
「……お呼びでしょうか、工部侍郎」
「うん、私じゃなくて、彼からのご指名だ。……君も、戸部の『氷華』と言ったら分かるだろう?」
そう言って沙耶を指した工部侍郎。
言われた通り名は好きじゃないが、何故かその名前で認知されてしまっているらしく、今更仕方ないと諦めの境地だ。
この男にしても、最初は怪訝そうな顔をしていたが、すぐに合点がいったように頷いた。
「あ、戸部侍郎ですね。はい、存じております……が、あの、何か……」
ありましたか……? と尋ねる声は消え入りそうに小さい。そんな弱気で、中央政府の官吏が務まるのかと口に出しそうになったが、飲み込んで決裁書類と会計報告書を差し出した。
「この件のご担当であっていますか?」
「え……あ、はい、あの……はい、私です……が――」
これが戸部なら、返事は簡潔に、と叱りつけているところだ。
仕事においてまだるっこしい会話が嫌いな沙耶は、相手の無意味な言葉を最後まで聞いてあげる気など一切なく、事務的に資料の問題箇所を指差した。
「会計報告に記載の経費が、決裁の通った額より、大幅に超過しています。どなたの承認があってのことですか?」
「え……え。そうなんですか……?」
あれ、おかしいな……と呟く男は、挙動不審に書類を見比べている。
「こんなに差異があるのに、よくまぁ何の説明資料もなく、追加決裁も上げず、会計報告書を回してくださいましたね」
「おやおや、これは本当に酷い。決裁の意味がまるで無いねぇ」
あからさまな嫌味も意に介さず、まるで他人事のように覗き込んでくる工部侍郎に若干苛立ちつつ、手拭いで額を拭く男に、問題点を指摘していく。
「この州とこの州では人足の単価に1.14倍の差があり、この日以前とこの日以降でも違います。会計としての数字は変動していませんが、こっちの資料を見ると動員数が異なることが明記されており――」
自分の抑揚を抑えた話し方は相手に威圧感を与えるらしいが、ここぞとばかりに冷淡な口調を緩めない。
「――これだけの差額を、ここに反映するどころか逆に余剰として計上しています。最終的にはこれだけの額が超過し、記載ミスとしても非常に作為的に見えます。――反論は?」
ところどころその場で計算をしつつ、具体的な数字を教えてやれば、固まったまま押し黙る担当者。と一緒に、工部侍郎も感心したような息を吐いた。
「ほう……それだけの計算をそらんじるなんて、さすがは戸部侍郎。見た目だけで、戸部尚書の寵童だなんだと騒がれたのを、実力で払拭しただけあるよねぇ」
「……大貴族の出自ながら、官吏登用試験をパスして工部に入られるような方に言われましても……」
「あはははは。僕のはただの暇つぶしだけどねぇ」
「その割には、工部侍郎から回された案件に、問題があった事はありませんが?」
貴方がちゃんと見ていればすぐに分かった筈でしょう、という非難の視線を送ったのだが、ふんわりと笑った男はまったく意に介さず、
「自分の仕事を中途半端にするのはどうも気持ち悪くてね。どうせやるなら徹底的に。……というわけで、君。この報告書にはちゃんと納得する説明が欲しいな」
「……あ、あの、す、すみませんでしたっ……えっと、州の担当から出された報告をそのまま転記したつもりだったんですが……」
「転記だけで、こんな見事に隠蔽したような報告書に仕上がるものかねぇ?」
あくまでも緩い雰囲気のまま、担当者の言葉を待つ工部侍郎。しかしそこには、杜撰な弁明を許す気は無いよ、という明確な意思が伝わってきて安堵する。
沙耶の目的としては達した。
承認できない会計報告を、然るべく人間を巻き込んで却下出来たのだ。あとは工部の中で好きにしてくれ。
書類を全て工部侍郎に渡した沙耶は、要件はそれだけですので、と礼をした。最後まで宜しく頼みます、という気持ちを込めて。
そして、そのまま2人を残して立ち去ろうとしたのだが、
「そこまで送ろう。……君は席で、関連資料を全て揃えておきたまえ」
何故か一緒に立ち上がった工部侍郎に背中を促された。
「え。あー……有難うございます」
送ると言われても……とは思ったが、好意を無下に断る方が面倒だ、と思った沙耶は、素直に工部侍郎と共に、執務室を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます