第18話

***




「――で。なんで今日も苔臭いんだ?」

「…………何故でしょうね……」


 今日も今日とて戸部の執務室。


 筆を片手に書類をさばく沙耶の隣に、椅子をひっぱってきた陛下が、沙耶の三つ編みを一房掴んで眉を顰めた。


「帰って湯浴みしてこい。濡れたままだと風邪をひくぞ」

「ご厚意だけ、ありがたく受け取らせていただきます」


 目線は書類から離さないまま、すっぱりと返事をすれば、若干ムッとしたらしい男。不満そうな雰囲気で、沙耶の髪を無造作にもてあそぶ。

 しかしその手は案外優しく、とりあえず引っ張る気配が無いことは分かったので、好きにさせながらも書類をさばくペースは緩めない。


「……明日も苔臭かったら、勅命で湯浴みだな……」

「は、何言ってるんですか。そんな事に勅命を使うなんて、恥ずかしいことはやめてください」

「ならこんな格好で出歩かなければ良いだろう?」

「なんでそんな強気なんですか……」


 そんな事に勅命を使っちゃうなんて、一番恥ずかしいのは本人だと思うのだが……と思いつつも、明日が無事かどうかなんて、私だって知りたい。


(まさか2日連続で、陽陵ひりょう様に水をぶっかけられるなんて……)


 何だか微妙な現場に出くわしたらしく、顔色を変えた女官とすごい形相の陽陵ひりょう様に睨まれ、『盗み聞き』呼ばわりされたのだ。挙句、今度は中庭の池の水を、鯉の餌撒き用の柄杓でぶち撒けられた。

 まぁ、戸部に出勤するために人目を忍んだ場所を歩いていたのも悪いのだろう。確かに、あんな奥まった場所、たまたま遭遇するには作為的すぎる。


(だからって、水をかけなくても良いと思うんだよねぇ……なかなか乾かないからほんと寒いし。……やっぱ、あの子怖い……)


 あんな可愛らしい見た目をしているのに、性格はキレッキレだ。


(典型的な、箱入りわがままお嬢様なのかなー。今までの後宮にはいなかったタイプだわ)


 生まれた時から後宮入りを目指して、徹底的に教育されてきたような人が多いのだ。あんな風に、簡単に手をあげるような癇癪を起こす人は珍しいと思う。……みなさん自分のみやではどうだか知らないけど……。


 そんな子が、今の後宮では『ご寵愛争いに王手』をかけてる寵妃候補なのだから、頭が痛い。


(それもこれも全部、隣で不機嫌そうに人の髪を弄ってる、この男のせいなんですけどね)


 ……なんて、考えていたことが顔に出ていたのか、冷ややかな眼差しで猛然と書類に数字を書いていく沙耶に、男が負けたように話題を変えた。


「いつもながら、恐ろしい速度で計算していくな……。頭の中には、どんなそろばんを仕込んでるんだ?」

「別に……ただ暗算が得意なだけですよ」


 話しながらも、数字を記入する手は止まらない。


 だって桁数は多いが、単純な計算ばかりなのだ。子供の頃からフラッシュ暗算が得意だった沙耶からすると、大したことではない。


 ……その手が、ピタリと止まった。


「…………また赤字とか、工部は舐めてんのか……」


 ポツリと呟いた低い声に、室内が静まり返る。


 あ、スイッチ入った……とは、戸部全員の心の声だろう。



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