第16話

***



 こそり。こそり。


 夜の後宮の中庭を、人目を忍んで歩く人影がひとつ……。


 簡素な衣に、頭から布を被った姿で、足早に先を急ぐのは、職務を終えて自室へと戻る沙耶だ。

 隠しておいた衣で官服を隠し、官帽を脱いで、普段の地味な妃の姿に戻っている。


 街灯のない周囲は、月明かりだけが頼りの夜道。沙耶にとっては毎日通う慣れた道とはいえ、仕事終わりの帰路としては物悲しい。


(今日は城下にも出たし、ゆっくりお風呂に浸かってから寝たいなぁ)


 朝には苔の生えた水をかけられたし……。なんてことを振り返りながら歩く中庭には、点在するみやの灯りが漏れて見える。

 基本的に後宮の主人が寝静まった後も、女官たちは誰かが起きて火の番をしているから、真っ暗になることはないのだが、ある一つのみやだけは、その灯りがいっそう煌々こうこうとしていた。


(へぇ……珍しい人が夜中まで起きてる……)


 日没の関係で、けっこう早寝早起きの人が多い後宮で、夜半過ぎまで起きている人は珍しい。しかもあれは、蘭月様と同じく四夫人が1人、垂氷たるひ様の宮だ。位は高いが控えめで大人しく、見た目と同じく品行方正なお嬢様、という印象の人。普段はこんな時間まで遊ぶようなお方じゃないから、余計に目立つ。


 沙耶は、漏れ出る灯りで見つかったら面倒だ、となるべくその宮からは距離を取って歩くことにした。


 が、しかし、


 ――キャハハハハッ……フフフ……。


 けっこう離れているにも関わらず、楽しそうな笑い声が聞こえてくきたのだ。よく見ると、窓越しに動く人影も見えている。


(え……宴会……?)


 そんな筈ないと思っていても、そうとしか思えないような騒ぎだ。どう考えても、後宮の妃が深酒をしただけの状況ではない。

 近くの宮の妃や女官たちから苦情が入ってもおかしくない程、甲高い笑い声は中庭に響き渡っている。


(……まぁ……たまにはこういう日もある……のかな……?)


 とでも思っておくしかない。


 ただ、後宮は皇帝陛下のもの。当の本人は見向きもしていないが、いずれ夜を過ごすかもしれない場所なのだ。中に住まう人間は、節度を保つ義務がある。

 例えば後宮には酒についての制限があり、前後不覚になるほどの量は飲めないように制度されているのだ。


 だからこそ、夜中にこれだけ騒がしくするのは、妃としての資質を問われかねない事案。


(大ごとにならなきゃいいけど……)


 脱走などという重罪を棚に上げて、人のことだけは心配する沙耶。

 位が低いというのに、何故か与えられた後宮の隅の小さなみやに辿り着くと、女官も誰もいない一人の空間で、ようやくホッと一息ついたのだった。


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