第6話



「頭を冷やしなさい」


 そう言って、苔の生えた柄杓を投げつけた陽陵様は、足早に歩き去って行った……。去り際にふわりと漂ってきたのは、甘いアルコールの香り。


 お前が頭を冷やせよ……なんて罵倒は、ポーカーフェイスで飲み込んだ沙耶だったが、水の滴る自分の惨状にはゲンナリだった。


(どーすんのよ、コレ。中に着といた官服まで濡れてるし……)


 もう、ほんっとうに面倒な世界だ。


 なんだってこう、後宮のお姫様達は自尊心が高いのか。

 そりゃ周囲の女達を蹴落としてナンボの閉鎖空間なのだから、陰湿にもなるんだろうけど、それにしても煩わしい。

 私みたいに外で息抜きが出来ればなぁ……って、そもそも普通は、後宮を抜け出すような、大罪の危険は犯さないか……。

 脱走がバレたら家族も責任を問われるし、それにここにいるのは殆どが名家の貴族令嬢だ。一族のためにも、後宮内での地位を掴まなければならないのだから、暇つぶしに抜け出して官吏になった沙耶とは、根本が違うのだ。


 ……とはいえ。


 もし、あのまま日本に居てたら、私は何をしていたんだろう。

 奨学金で何とか掴んだ大学生活をエンジョイし、きっと今頃どこかの会社に勤めていたんだろう。そして誰か好きな人ができて、もしかしたら結婚だって……。


 なーんて想像してみるも、全く現実味が湧いてこない。

 むしろ、違和感しかないのだから不思議なものだ。


 多少の不自由はあれど、今じゃもうこの生活以外、考えられない。


 やりがいのある仕事と、喧嘩仲間のような陛下。憎まれ口を叩き合いながらも、有意義で刺激的な毎日……。


(…………そういえば、元の世界に帰りたいって、思わなくなってるなー……)


 不意に気付いてしまった事実に、少しの衝撃を受けて固まる沙耶。

 確かに、沙耶には肉親なんていなかったが……それでも十分愛着を持って生活をしていた筈なのだ。


 それもこれも全て、あの時、頷いたからなのだろうか。あの川縁で、今よりもっとずぶ濡れで……と回想に浸りかけた時、


「……グルゥ……」


 耳に馴染んだ獣の唸り声に、パッと顔を上げた。


一縷いちる!」


 濡れねずみで立ち尽くしていた沙耶の前に、銀色の毛並みを持つ大型の獣が近づいてきたのだ。


 犬にも、狼にも似た、凛々しい顔貌。殆ど音の聞こえない足取りで、静かに沙耶の目の前に立つと、その鋭い牙で咥えていた何かを渡した。


 麻布に包まれたこれは……、


「ぅわっ、着替えっ!? ありがとぉお、いちるぅうう」


 沙耶が濡れたことを察しての、官服一式だったのだ。ベッドの下に隠してあるのを、わざわざ引っ張り出して駆け付けてくれたらしい。


 思わぬフォローの手(?)に、感極まって抱きつく沙耶。


 暖かくて触り心地の良い毛並みが、最高に癒される。


「やーん、もふもふー」


 当の一縷も、そんな沙耶の行動には慣れたものなのか、微動だにせず好きにさせていた。

 むしろ、やれやれ……とでも言いたげな、呆れた雰囲気が伝わってきて、更に強く毛並みの中に顔を埋める。


 この世界で、沙耶のことをいつも助けてくれる、大事な存在だ。


 が、彼は犬や狼の類なんかではない。

 『魔獣』と呼ばれる、人々に脅威をもたらす種族だ。


 しかし沙耶にとっては、この世界で唯一とも言える、全幅の信頼を寄せる相手である。魔獣の実態なんて知らないが、一縷は沙耶の伝えたい言葉を理解しているし、人に危害を加えたりするところなんて見たことがない。


 だから後宮の自室にも一緒に住んでいるし、周りには『珍しい品種の犬』だと認識してもらっている。


 まぁ……流石に犬としては大型すぎて悪目立ちしてしまい、『獣臭い庶民』だと嘲られたりもするが、気にもならない事なのだ。



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