第5話



 渡り廊下で時間を取られつつも、ようやく広い後宮の中庭を突っ切る事が出来た沙耶。


 倉庫に通じる道を歩きつつ、服装の乱れをきっちりと直す。


(頭の布はズレてないわよね。毛先の金髪だけは見えるように、服の外に出して……)


 手早く顔周りを整え、簡素な衣服を改める。


(サラシもオッケー……服の下にもちゃんと官服を着てるし……)


 あとは倉庫で上の衣を脱いで、布の代わりに官帽を被れば、どこにでもいる官吏の出来上がりだ。少し小柄な事に目を瞑れば、この5年、誰にもバレたことの無い完璧な男装である。


 すぐ目の前に倉庫が見えてくると、紗耶は足取りを緩め、目立ちにくい場所で立ち止まった。


 さすがに入室するところを見られてはマズイ。

 少し手前で草花を愛でるフリをしながら、周囲を確認する。


 まぁ誰とも遭遇したことのない場所だし……と気を抜いていると……、


「……陽陵ひりょう様……」


 まさかの、今、後宮で一番話題になっている人物が、倉庫の前の道を歩いて来たのだ。


 陛下と朝までお供した、と噂の少女だ。


 その真偽を面と向かって問い詰めた猛者はいないらしいが、朝方、侍女を引き連れて自分の部屋へと戻る姿を、多くの者が目撃している。

 しかも、若干疲れた様子を見せつつも頰を染め、陛下のご様子や声音、仕草なんかを話題にしていたというのだから、打算的だ。


 感極まった侍女達の浮ついた様子も含めれば、確実にこの陽陵ひりょう様が、この後宮内での寵愛争いに、王手をかけていた。


「……っどなた……!?」


 その陽陵ひりょう様が、あからさまに驚愕の表情で足を止めた。


 亜麻色の髪に紺碧の瞳という、貴族としては薄すぎる配色を持ちながらも、甘く幼い顔立ちによく似合っていて、美少女と呼んで遜色ない。

 煌びやかな絹の衣に、玉のあしらわれた帯を巻き、髪に生花を挿した姿は、九嬪きゅうひんという序列ながらも、四夫人である蘭月様に勝るとも劣らない絢爛な装いだ。


 官服を隠せればそれで良い、と、着飾ることに頓着していない紗耶と並んでしまえば、まるで姫と下女にしか見えない。


(……ってか、私ってば一応、この後宮に5年住んでる古株なんですけど、名前で呼ばれたこと無いな……)


 なんて、どうでもいい自虐が頭をよぎりつつも、さっきの失敗を思い出して慌てて頭を下げる。


「っ失礼いたしました、陽陵ひりょう様」

「…………いえ、良いのですよ。……わたくしも、たまたま此方を散策していただけですから」


 突き放すような物言いだったが、これなら話が早いかも……とホッとしつつ礼を続ける。

 実は、道から逸れた草の中に立っているせいで、伸びた葉がそよそよと素肌の手を擽るのが辛いのだ。


 早く立ち去ってくれんかなーと、もじもじしながら待っていたのだが、


「……ですが、貴女のような下賤の民に、真正面から見つめられるなんて、不愉快にも程があります。どなた様付きの女官かしら?」


 想像通りの勘違いに、笑いそうになるのを堪え、更に深く頭を下げる。


「申し訳ございませんでした……。まさか、陽陵ひりょう様ほどのお方が、こんな後宮の端まで散策に来られるとは思わず……」

「っそれは、わたくしを愚弄しての言葉ですか!?」


(やーん、余計なこと言ったー…………)


 と、気付いた時には、遅かった。


 ヒステリックな陽陵様の声と共に、


 ――バシャッ……!!


 勢いよく、水をかけられたのだ。


「つめたっ……」


 頭を下げていたから、一瞬、何が起きたのかわからなかった。


 しかし、髪からポタポタと滴る水と、なんとも言えない生臭さ……。


 倉庫の脇に放置されていた古桶に、雨水が溜まっていたのを思い出す。


「わたくしは、陛下と朝方までご一緒させて頂いた事もある、くが家の人間ですよ! お前ごとき庶民の色無しが、気安く声を掛けて良い身分では無いのですっ」


 頬を紅潮させて怒りに震える陽陵ひりょう様。


 だけれども……、


(……その時、陛下の隣にいたんですけどね、私……)

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