10.涅槃に尋ねて知る


 金曜日の夜、家で勉強をしながらその子の帰宅を待っていた。

 お茶を淹れようと立ち上がる際に時計を見た。時刻は21時を過ぎようとしている。

 今日は飲み会があると言っていた。お開きにはまだ早い時間だ。

 高校生まではあんなに泣き虫で鈍くさかったのに、社会に出るとひなたは驚くほどしっかり者になった。

 ひなたは高校を卒業してアパレル店員として働いている。毎日楽しそうに仕事であった出来事を話してくれるし、一度店へ様子を見に行った時も楽しそうに仕事をしていた。

 私がその子のことを考えていると、それに応えるかのようにして玄関のドアが開かれた。


「ただいま~」

「おかえり。早かったね」

「うん!今日行ったお店、お酒も料理もおいしかったー。今度一緒に行こうよ」

 小さい頃から変わらない、こっちまで綻んでしまうような笑顔を浮かべるその頬は紅潮していた。そこそこ飲んだのだろう。

 たどたどしい足取りでベッドがある方へ向かったかと思うと、落ちるようにしてそのまま倒れ込んだ。

「ちゃんと化粧おとしてお風呂入りなよ」

「ねる~」

 ひなたは私の言うことをきかず枕に顔を埋めた。

 お酒を飲んでいるせいか、社会に馴染むために作られた仮面が外れて、昔のような子供らしさが顔を出していた。

 傍らに座り込んで指の背で首筋を撫でると、体を仰向けにして私を見上げた。

「千春ちゃんは今日は何してたの?」

「いつも通りだよ。勉強してた」

「千春ちゃんはえらいね〜」

 上機嫌でそう言うと、ひなたは重そうな体を起こして抱きついてきた。ほのかにお酒の匂いがする。この機嫌からしても楽しい飲み会だったのだろう。

 抱き返すとブラウスの裾から覗いた素肌に手が触れた。火照った頬とは対照的に、ひんやりとしていた。

「くすぐったい」

「お風呂入りなってば」

「一緒に入ってくれるんなら入る」

「いいよ。酔ってて転んで頭ぶつけないか心配だし」

「やったー」

 ひなたはおぼつかない足取りで着替えや諸々を棚から取り出して脱衣所へと姿を消した。


 私はまだひなたに気持ちを伝えていない。

 変化を望めば壊れてしまうのではという恐怖は年を重ねるごとに強くなっていた。

 いまだに、友達としてはどこまでのことが許されるのか、境界線を見極めながら過ごしている。

 20才を迎えても私達は少女のままだった。


 * * *


 20才の夏も終わりかけた頃のある日、宮城と予定を合わせて食事に赴いた。

 別々の大学を選んで入学したが、たまにこうして食事をしつつ近況を話し合っている。

 お互いみだりに話せない恋愛事情を抱えていることが私達の交友を続けさせる理由なのだと思う。

 その場にはひなたもいることがほとんどなのだが、その日はひなたが仕事だったので2人だった。


「それにしても、鍵山丸くなったよな」

「そんなに尖ってた?私」

「うん。めちゃくちゃ怖かったよ、昔の鍵山」

 言われてみれば高校時代はよく宮城を罵倒したりしていたような気がする。

 思春期と義務教育の延長から抜け出して、自分のやりたいことに集中できるようになって余裕ができてきたのかもしれない。


「歌子さんとは順調?」

「順調というか…もう隣にいるのが当たり前になったからなあ」

「なんか老夫婦みたい」

「それは自分でもそう思う」

 宮城は携帯を触りながら笑った。

 あんなに狼狽して、何もわからないと言って戸惑っていた彼女の面影はもうなかった。歌子さんとはよほど波長が合うのだろう。

 今の落ち着いた佇まいを見ると、歌子さんが宮城を好きだと言う理由も理解できる気がした。


「鍵山こそ大森とはどうなのさ」

 以前は宮城の相談を受ける立場だったのが、今は私が相談する立場になっているのだな、と不思議な気持ちになった。

 宮城に問われて、自分の胸に尋ねてみた。


「相変わらず一緒にはいるけど…どこか踏み切れてない感じがする」

 宮城は頬杖をついて私の顔を見つめた。

 言いたいことがあるが、どう言葉にするかを思案している様子に見えた。


「大森は鍵山に何されても受け止めると思うけどなあ…」

「どうしてそう思うの?」

 そう問うと、今度は昔のことを思い出すようにしてやや上の空間に視線を投げた。

「だって昔言ってたよ。鍵山と一緒に住みたいから、進路は就職にするんだって。あの言葉で大森は鍵山を人生の軸においてるんだなって思った」


 知らなかった。

 大学に行かず就職をするので、稼ぎが出るから一緒に住もうという話だと思い込んでいた。

 そういえば、ひなたになぜ就職を選んだのかをちゃんと訊いていない。ひなたは勉強があまり好きではないからと、勝手に納得していた。

 密な関係ゆえの無知はあると気付かされた。

 彼女の人生の選択に私が関係していたとは。


「そのぐらいなんだから、もうちょっとやそっとで関係が壊れることはないんじゃないかな」

「…確かにそうだね」

「ていうか、知らなかったんだ」

「うん」


 しばらく2人で黙り込んで、ふと興味本意である質問をしてみようかと思い付いた。

「こんなこと訊いていいかわからないんだけど。歌子さんと恋人らしいことしてるの?」

「え…」

 宮城は露骨に顔をしかめた。その時点で私は回答を察してしまった。

 やはり突飛な質問だったな、と謝ろうとした寸前、宮城が沈黙を破った。


「まあまあしてる…というか、歌子がそういうこと好きだから」


 その言葉で、初めて歌子さんに会った時のことを思い出した。 

 触れることは伝える手段だと、あの人は言っていた。

 ずっと昔にアドバイスをもらったのに、私はそのアドバイスを活かすことができていなかった。


 もしかしたら、私はこれ以上くすぶっていてはいけないのではないだろうか。


 * * *


 家に帰り、いつものようにテキストを広げて勉強をしていた。

 仕事から帰ってきたひなたは私の隣に座って雑誌を読んでいる。

 今日、宮城から伝えられた事実で火のついた決心が勉強の邪魔をしていた。


「ひなた」

「ん?」

 名前を呼ぶとひなたは雑誌を読む手を止めて振り返った。

 私の顔色を見て、私が何か特別なことを告げようとしていることを察したのか、雑誌を閉じて佇まいを改め、傾聴する姿勢になった。

 どういう顔をして言ったらいいかわからなかった。

 俯きながら言う。


「私、ひなたのこと好きなんだ」

「うん。知ってる」

 ひなたの顔を見やった。首をかしげて神妙な微笑みを浮かべている。

 15年近く一緒にいて、初めて見る表情だった。

 その表情は"好き"の言葉の意味を理解していることを示しているような気がした。

 自分がどういう顔をしているのかわからない。「知ってる」という言葉に対してどんな言葉を繋げていいかもわからなかった。

 それを悟ってか悟らずか、ひなたは言葉を続けた。

「あたしも千春ちゃん好き。どうしていまさらそんなこと言うの?」

 ひなたは笑いながら言った。その口調は軽くて、まるで私の抱えている悩みを笑い飛ばすようだった。


「私達、友達だから。どこまでが許されてどこからがいけないのかわからなくて、ずっと悩んでた」

 私がそう言うと、ひなたはもう一度口を結んで微笑んだ。

 私の手を取って繋がれた親指を撫でられた。

 それはいつも私が、踏み切れないけれどどうにか知ってもらいたいという時にする、精一杯の親愛の合図だった。


「恋人とか友達とか、無理やりそういう範疇に収まろうとしなくても、いいんじゃないかな」

 ひなたは静かに言った。

 その言葉で、知らないうちにひなたの面持ちが随分と大人びたものに変わっていることに気付いた。

「"千春ちゃんとあたし"っていう関係でいようよ。千春ちゃんがしたいことはきっとあたしも好きなことだし、そこまでひっくるめて千春ちゃんが好き」

 大人びた顔が、子供の頃から何度も見てきた、私を大好きだと言う時のあの笑顔に変わった。


 ひなたは昔から不意に核心を突く。

 その瞳は偏見なく物事を映し、映された事実を自分の認識で歪めたり削り取ることをしない。

 そんな彼女なのだから、社会に出て様々な人と関わりを持つようになって、人並み外れた悟りを得ているのではないかと思わされた。


 縋るような気持ちでひなたの額に額をつけた。

 ひなたが目を閉じたのを確認して、私も瞳を閉じた。


 私達はもう少女ではない。

 私はやっと、私が求めるものの輪郭を確かめることができるようになった。

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邂逅を触れて聞く 水飴 @mizuamelt

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