09.邂逅を触れて聞く
歌子の住むアパートに辿り着いた頃には全身が悲鳴を上げていた。
激しく息継ぎする喉は冷え切って冷たい空気を吸い過ぎた肺はきりきりと痛んだ。
道中2回ほど転んだが痛みを感じなかった。
息を整えようとしたもののなかなか整わないので待たずにインターホンを鳴らした。
ばたばたという音がして勢いよくドアが開かれた。
「…どうしたの?」
灯りが逆光になってよく見えないが、面くらった顔をしているとわかる。
頭に酸素が行き渡っていないせいか、言いたいことがありすぎるせいか、あるいはどちらもか、何から始めたらいいかわからなかった。
自分自身にも、歌子に対しても怒りがこみ上げていた。
考えているうちに段々と息が落ち着いてきた。
歌子の顔を見上げた瞬間、仕返しをしてやろうと思いついた。
セーターの襟を掴んで唇を塞いだ。
歌子は抵抗しなかった。ただただ立ち尽くしている。私の戯れに付き合っている風にも思えた。
これでは仕返しでもなんでもない。
諦めて顔を離した。
歌子はしばらく唖然とした顔で私を見下ろしていた。
「下手くそ」
そう言って笑い、私の頬を両手で包んだ。全身冷え切ってしまって感覚がないが優しい手つきだということはわかった。
そのまま口が塞がれた。その感覚を改めて確認する。
"教えてやる"という傲慢でもない。いやらしさも感じない。体の芯から冷えていたからか、ひどく優しいものに思えた。
そのまま歌子の腕が私の体を抱きとめて、首筋に暖かい息がかかった。
「体冷たい」と心配そうに歌子が言った。
そりゃ冬だし。
「心臓の音早すぎない?」と笑いながら言った。
全力疾走してきたんだよ。
「そうなんだ」と歌子は相槌を打った。
なんでこんなに走ったのか訊いてほしかったが、満足そうな相槌だったので自分から、今すぐ会いたかったと伝えた。
「どうして?」と訊かれた。
知りたかったし確かめたかったからだ。
「何を?」と訊かれて、改めてここまでしてここに来た目的を思い出した。
まずは一発殴った。歌子は「いでっ」と呻いて半笑いだった。何笑ってんだよ。
「言ってくれなきゃわかんないよ。こちとらぼっちなんだよ!?」
「え、ご、ごめん」
あの日、そもそも何で付き合ってみようかなんて言ったのか、という質問を皮切りに、知りたいことがどんどん溢れ出した。
どんなことを思っていたのか、どんな意味だったのか、今まであった出来事の答え合わせをした。
歌子は想像以上に普通の女の人だった。
私のすることに一喜一憂して、落ち込んではやけ酒をし、気持ちを落ち着けるために煙草を吸っていたと知った。
それを知って私は随分と歌子に酷いことをしてきたことに気付かされた。
やがて喋りながら泣いてしまっていた。
鍵山が叱ってくれなかったら気付けなかった。
歌子は器用に生きるのが上手なのだと思う。
それだけに平気なふりや強がりが上手すぎて、私よりも深い孤独を抱えているように見えた。
歌子は恥ずかしそうにしながらすべての質問に答え続けてくれた。
止まらない涙を垂れ流していたら歌子はもう一度私を抱き寄せて「ごめん」と言った。申し訳なさそうな、困っているような声色だった。
かすかに煙草の匂いがした。私の突然の連絡に戸惑って、気持ちを落ち着けるために煙草を吸っている姿を思い描いた。
扉が開かれる時のばたばたとした音を思い出して、どんな気持ちで扉を開けたのか知りたくなった。
歌子はいつも、私に何を考えているか、何を思っているかを問う。その気持ちがようやくわかった。
触れる手つきで本当に私のことが好きなのだなということだけは確かに信じられた。
恋とは五感を使い果たして落ちるものだということを知った。
やっと、歌子に会えた。
* * *
あれから、暇な時は歌子の家に行くようになった。
1人の時間が好きなのはお互い同じようで、各々本を読んだり携帯をいじったりしながら気が向いた時にだけお喋りをしている。
落ち着いた頃に、そもそもどうしてあんなにすれ違ったんだろう?ということを話し合った。
私は鍵山と大森のことが羨ましかった。
私が必要としていない恋愛と友情の、そのどちらでもない絆を持っていて、私も幼い頃からこういった友人がいたらこの性根も少しは変わっていたのだろうかなどと考えていた。
あの時に嫌でもないのに突き放してしまったのは、求めていたものと違うという違和感や、歌子からもたらされるものを享受することに対する恐怖などがあったらしい。
そもそも初っ端からあんなやり方はないだろう、と伝えたところ歌子は「それもそうか」と笑っていた。
そして、歌子は心が弱っているタイミングで私が2人に投げる羨望のまなざしを見て、心が折れたのだそうだ。
話を聞けば聞くほど歌子はあまり打たれ強くはなく、持って生まれた器用さや狡猾さをうまく使いこなせていない人なのだなと感じた。
1番最初に歌子の部屋に連行された時にも思ったことなのだが、歌子の家は驚くほど物がない。
聞くところによると、いわゆる無趣味な人間で、唯一の趣味が徘徊というちょっと変わった人だった。
ただ、"徘徊"の中にはドライブも含まれている。
ドライブについていくと、すれ違う車を見ては「いいねえ、ああいう車乗ってみたいわ」などと言っているし、今の歌子が乗っている没個性の軽自動車も、こまめに洗車やメンテナンスをして可愛がっている。
車が好きなんじゃないか、と伝えたところ「ああ、言われてみればそうかも」と言っていた。
私と歌子は性根が似ているのだと思う。
自分のしたいことや、好きなものや嫌いなものに気付くのが苦手なのだ。
歌子も同じことに気付いたらしく、将来やりたいことがない私に過去の自分を重ねたのか、しきりに私の将来を気にするようになった。
「シノ君は本が好きだから本に関わる仕事がいいんじゃない?」
「本に関わる仕事かあ」
「千春ちゃんは司書目指してるよね」
「好きな本に偏りあるから司書は向いてないと思う」
「小説家とか」
「いやいや。読みはするけど書きたいと思ったこと全然ない」
「書店員は?」
「接客はもういいかなって感じ」
「編集部の中の人とか」
「…それはちょっと興味あるかも」
就きたい仕事のために調べ物を始めると、それに感化されたのかどうなのかわからないが、歌子は就職活動を始めた。
就職ともなると髪が白金ではあまりにも派手すぎるので、髪を茶色に染め直し、会った時にはスーツ姿の歌子を見ることが多くなった。
不真面目な人間だと思っていたのに、人はこうも変わるものなのだなと驚いた。
そして、髪色は今のほうが似合っていると思う。
私の大学受験と歌子の就活、どちらも落ち着いたら一緒に住まないかとも言われた。
随分と話が早いなと思いつつも、こういうものなのかなと受け入れている自分がいる。
1人では知れなかったことをお互い教えあいながら、たまに喧嘩もしつつ仲良くやっている。
先のことはわからないが、これからも歌子と多くの時間を共有していく気がしている。
どこが好きなのかなんて問うのは野暮な気がするし、自分もあまり問われたくはない。
でも、私はこの人のことが好きだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます