08.身体というものがあってよかった


 その日はバイトが休みだった。

 図書館に行った帰り、シノ君に距離を置こうと言ったものの、その後の作戦は何もなかった。

 シノ君への恋情は1ミリも変わっていない。むしろ日に日に強くなっている。

 こんな状態でよくも距離を置こうなどと言えたものだ。

 このままで終わらせたくはない。でも恋に蝕まれている今の頭ではなんの作戦も浮かんではこない。

 自己嫌悪で最悪の気分だった。奴に話を聞いてもらおうという気分にすらなれなかった。

 そんなことをぐるぐると考えながら、何をするでもなく寝そべって虚無の時間を過ごしていた。


「シノ君いま何してるのかなあ…」

 会いたい。会って話がしたい。話をして何を考えてるのか知りたい。


「…なんであんなこと言っちゃったのかな…」

 ベッドの上で死体のごとく伸びていたら、携帯が鳴った。

 誰だよ。恋煩いで忙しいんだよこっちは。

 と思いながら携帯を持ち上げ液晶を見ると、シノ君からだった。

「えっ、うそ」

 飛び起きてシノ君から送られてきた言葉を確認する。「今どこにいるの」。

「…どういうこと?」

 理解が追いつかないまま、家にいる旨を返信した。

 送信した瞬間に既読がついた。

 シノ君の次の言葉を待った。10分くらい、じっと液晶を見つめた。返事は一向に来なかった。

「…待って本当にどういうこと?」

 居てもたってもいられず通話ボタンを押した。これにも出ない。

 理性の働かない頭で考えこんでは通話ボタンを押す、を何セットか繰り返した。

 我に返った時には発信履歴で画面がいっぱいになっていた。


 やばい、こんなことしたら嫌われる。


 画面を伏せて見ないようにした。

 しばらく茫然としながら「今どこにいるの」の言葉の意味を考えた。

 良い予想から悪い予想まで全部並べ立てた。並べ立てたところで意味がなかった。

 気持ちを落ち着けるために煙草を立て続けに2本吸った。

 そんなことをしばらく続けていると、やがて家の呼び鈴が鳴った。


 シノ君だ。


 扉を開けると本当にシノ君がいた。頬と鼻を赤くして、死んじゃうんじゃないかというくらい息をきらしていた。

「…どうしたの?」

 シノ君はわたしの問いに答えず、息を落ち着けるとわたしを睨みつけるように見上げたかと思うと、唇を重ねてきた。

 わたしの真似事をしている、と感じるようなやり方だった。

 なぜこんなことをするのかわからなかったが、なにやら必死だということと、距離を縮めようとしてくれていることだけはわかった。

 顔を離すと、シノ君は泣きそうなような怒ったような顔でわたしを見上げていた。


「下手くそ」

 つい笑ってしまった。

 こんなに必死なのもこんなに感情を露わにしているのも初めて見た。

 両手で彼女の顔を包み込んだ。つめたい。

 唇で唇に触れる。これもつめたい。

 舌で舌に触れる。やっぱりつめたい。

 人間ってこんなに冷えきって大丈夫なものなのだろうか、と心配になって体を抱えた。シノ君は見た目以上に華奢だった。


「体冷たい」

「冬だから」

「心臓の音早すぎない?」

「走ってきた」

「そうなんだ」

「今会わないといけないと思った」

「どうして?」

「確かめたかった」

「何を?」


 シノ君はそっとわたしの体を引き離した。

 右腕を後ろに引くと、

「いでっ」

 みぞおちを殴られた。そこそこの力強さだった。

「言ってくれなきゃわかんないよ。こちとらぼっちなんだよ!?」

「え、ご、ごめん」

 突然の暴力と怒りの言葉を受けて反射的に謝った。


「あの時、なんで付き合ってみようかなんて言ったの」

「好きだったからだよ」

「いつから?」

「いつの間にか。気付いてからけっこう経つから覚えてない」

「なんで言ってくれなかったの」

「言ったよ。ていうか送ったよ」

「あれだけじゃわかんないよ」

「ごめん」

「じゃあ映画を観に行ったあの日、あの後どういう気持ちでいたの」

「やばかった。ショックと罪悪感で死にそうになった」

 シノ君の質問責めはなかなか終わらなかった。

 わたしは今までのことを洗いざらい曝け出した。

 恥ずかしくないわけがなかったし、その中にはシノ君を傷つけるものもあったはずだ。

 でもシノ君が知りたがっているならもう隠してはいけないと思った。


「平気なふりとかしないでよ。私は気付けないから、知らない間に傷つける」


 その言葉でシノ君の泣きそうな顔が本当に涙を流していることに気付いた。

 この子が人に対して不器用だということを忘れてしまっていた。愛し返してほしいあまりに道を誤ってしまっていた。

 距離をとろう、と宣告する前にやるべきことがまだまだあったじゃないか。その引き金をこの子に引かせてしまったことを恥じた。

 わたしのせいで泣き続ける目の前の好きな子に、わたし自身の言葉はどんなものも寄り添えないと感じた。

 静かにもう一度抱き寄せて「ごめん」とだけ言った。


 身体というものがあって良かったな、と思った。

 わたしはこの子のことが好きだ。

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