三話
季節は夏――故に夜であっても暖かな気配は残っているものだ。
けれどもシャルロットが居る天幕内にはそのような気配は薄く、あるのは鋭い緊張感だけだった。
「……それで、このような夜更けに一体何の用でしょうか、お兄さま」
とシャルロットが碧眼を対面に向ければ、机を挟んで反対側に座る銀髪銀眼の美青年が苦笑を浮かべた。
「そんなに警戒することないじゃないか。ボクがキミを傷つけるわけないだろう。仮にそんなことをしてしまえばボクは生きてこの陣地から出ていけなくなるしね」
「それは……そうですけど」
実の兄にあたるルイ第二王子の言に、シャルロットは嘆息した。
確かにルイの言葉は正しい。いくら〝魔器〟を有し〝堕天〟しているとはいえ、彼は一度夜光に敗北している。その夜光が同じ陣地内にいる以上、ルイが無茶をするはずもない。仮に夜光の眼を逃れたとしてもクロードを始めとする歴戦の武将たちがいる。彼らの眼を全てかいくぐることなど出来はしないだろう。
それはシャルロットもよく分かっている。だからルイが二人きりで話したいと言ってきた時も、護衛は不要だと皆の反対を押し切った。
その結果が今の状況なわけだが、正直に言ってルイが何を考えているのか、シャルロットは判断しかねていた。
(ルイお兄さまは一体何を企んでいるのか……)
よもや兄妹水入らずの歓談――などということはないだろう。ルイは常に微笑みを崩さない飄々とした人物であるが、北方を掌握していることといい、あのお堅いダヴー将軍を寝返らせて自陣営に加えたりしていたことといい、危険人物であることは確かだ。それほど知略に優れている兄が、単なる世間話をしに来たはずもない。
警戒を示し続けるシャルロットに、ルイは肩をすくめて見せた。
「まあ、ヤコウくんがいなければボクはキミを処断していただろうし……それを考慮すれば仕方のないことかな」
「…………」
やはり危険な人物だとシャルロットは思う。実の兄ではあるが、ルイは笑って人を断頭台に送るような人物だ。そこに善悪はなく、あるのは利害だけ。彼にとって他人とは自分の目的に利益をもたらす存在か、害を生じさせる存在か――大まかに二分されるのだ。
(本当に王族というのは……どうしてこう……)
シャルロットは内心で深いため息をついた。
エルミナ王家においてシャルロットと仲が良い人物は驚くほど少ない。
兄王子二人は論外、今は亡きアレクシア第一王女もシャルロットには冷淡であった。
仲が良いと断言できるのは、父である国王と、幼い頃に死別した母である王妃くらいなものだ。
(セリアお姉さまもわたしに優しくしてくださるけれど……ほとんど会えないですし)
生まれつき病を患っていて一年のほとんどを寝て過ごしている一つ上の姉――セリア第二王女とは仲が良く、彼女が目覚めている時にはよく紅茶を飲みながら歓談したものだ。
と、ここでふとその姉の様子が気になってしまう。
(そういえばセリアお姉さまはご無事でしょうか)
セリア第二王女は王城の端にある尖塔――その最上階で療養している。尖塔から出たことなど数えるほどしかない彼女を、オーギュスト第一王子たちがどうこうするとは思えないが……。
(セリアお姉さまは派閥を持たず、特に変わった〝力〟を持っているわけでもない)
一応、王位継承権は有しているが、病に侵された身であり、尖塔からほとんど外に出られない彼女を支持する派閥はない。加えて固有魔法などの特異な〝力〟も所持していないとなれば居てもいなくても同じようなもの。玉座に就いた後ならわからないが、少なくとも現状ではセリア第二王女には手を出さないだろう。
今始末してしまえば敵対派閥に非難の材料を与えるだけで何の利点もないからだ。
(でも気になりますね。王都を奪還した後にでも会いに行ってみましょうか)
シャルロットがそのように考えていると、ルイが口を動かした。
「今日はそのヤコウくんのことで話があるのさ」
「……ヤコーさま、ですか?」
突然最も信頼する騎士の名を出されたことで、シャルロットは警戒心を強める。
しかし、ルイはそれに気づいているのかいないのか、微笑みを崩さず続けてくる。
「シャル、キミは彼についてどこまで知っているんだい?」
「どこまで、と言いますと……?」
「相変わらずとぼけるのが苦手みたいだね。その様子じゃほとんど何も知らないといったところだろう?」
「……どうでしょうね」
シャルロットは強張った笑みを浮かべてみせるが、幼少期から彼女のことを知っているルイにはそれが図星を突かれたのを誤魔化す反応だとバレてしまう。
ルイはここにきてようやく笑みを消して、真剣な眼差しを妹に向けた。
「シャル、キミは昔から他者の心情を慮って優先しがちだ。それは美点ではあるが、同時に欠点でもあるとボクは思っている」
「それは……」
唐突に態度を変えた兄に戸惑うシャルロット。
そんな彼女の様子に気付きながらもルイは言葉を続けた。
「相手の立場や思想、思惑や過去――それらに気安く触れるのは失礼だし、何より相手が嫌な思いをするだろう。そう思うからキミは他者の内に深く足を踏み入れない――」
「……そうですけ――」
「――だけじゃない。そうだろう?」
「っ……!?」
こちらの内面に深く切り込む発言に、シャルロットは思わず息を呑んだ。
そんな妹の様子に構わずルイは鋭い声を発した。
「シャル、キミは恐れているんだ。相手に訊ねて拒絶される可能性を、拒絶されずに親しくなったとしてもその相手を失う可能性をね」
前者はこれまで親しい者が少なかったが故の弊害であり、後者は過去に
「その恐怖はボクにもわかる。元より人は大なり小なりそういったことを考えてしまう生き物だからね」
シャルロットの考えに理解を示しながらも、けれど、とルイは告げた。
「それでは何時まで経っても望んだ相手と絆を結ぶことはできない。それはキミ自身、とっくに理解しているだろう?」
「…………」
図星だった。けれどもこれまで意図して眼を向けてこなかった部分でもある。
自覚しながらも眼を背けていた欠点を突かれたシャルロットは黙してしまう。だが、この場合沈黙は肯定となってしまう。
ルイは机の上で両手を結ぶと殊更深刻な声音を発した。
「今まではそれでも良かっただろう。君と親しくする相手は同じ王族くらいなものだったからね。けれど……キミは彼を、ヤコウくんを〝守護騎士〟に選んだんだ。その称号がどれほど重い意味を持つか、母上によく懐いていたキミなら痛いほど知っているはずだ」
「……知って、います」
「ならボクの言いたいこともわかるはずだ。暗黙の掟を破ってまで彼を選んだんだ。キミは彼と真剣に向き合うべきだ。手遅れになる前に」
その言葉にハッと顔を上げたシャルロットに、ルイは真面目な表情を向ける。
「この先に待っている戦いは、これまでのものと比べて圧倒的に危険が多いものになるだろう。何せ勝利した方が次代の王なんだからね。敵は持てる力全てをつぎ込んでくる。全力でこちらを殺しにかかってくるわけだ」
まさしく勝てば官軍負ければ賊軍だ。どのような手段を使ってでも、勝利を手にした側が正義となり、敗北に塗れた側が悪となる。
正真正銘、これまでのどの戦いよりも過酷で、苛烈なものになるだろう。
「そんな地獄じゃあ、必ず勝てるなんて保証はどこにもない。必ず生き残れるという保証もね。今、伝えるべきことを伝えなければ、この先永遠にその機会が訪れなくなるなんてことも十分にあり得るんだ」
だから、とルイは言葉を区切ってから言った。
「伝えたいことがあるのなら、聞きたいことがあるのなら、知ってほしいことがあるのなら、知りたいことがあるのなら……今言うべきなのさ」
「……でもわたしには、そんな資格は……」
俯くシャルロットの胸の内では罪悪感が渦巻いていた。
夜光のことを大切に思ったのは、出会ってからしばらくしてからのことだ。それまでは彼の武力や強靭な精神力を頼りに――利用するために近づいただけだった。
そのように考えていた自分が、今更彼にどの面下げて想いを告げようというのか。
これまでずっと悩んできた事ではあるが、人によっては一笑にふすものだろう。
けれども彼女の兄は欠片も笑わずに真摯に向き合ってくれた。
「……確かに資格――過去も大事だろう。けどね、ボクは変えられない過去よりも変えられる
過去は変えられない。それは不変の真理であり、世界の理だ。
その過去を鑑み、この先の言動に活かすのなら意味はあるが、どれほど後悔したところで意味はない。
時の流れは一方通行、過去から現在へ、現在から未来へ――連綿と続いている。
「今を何よりも優先するんだ、シャル。過去を振り返るのはいいけれど、過去に囚われて現在の行動を制限されるのは駄目だ。それでは誰も幸せになれない」
「わたしの幸せなんて……」
「は、自分すら幸せにできない者が、王として民を幸せにできるわけないだろう。……もしもキミがそんな腑抜けなんだとしたら――」
ルイは立ち上がって〝悪喰〟を召喚すると、その切っ先をシャルロットに向けた。
「ボクやヤコウくんの眼が節穴だったということだ。その時は当初の計画通り、ボクはキミを殺した後、オーギュストらも始末して玉座につく」
「――――っ!?」
そう語るルイの銀眼は真剣な光を宿していた。決して嘘偽りではないことがその瞳から伝わってくる。彼は本気で言っているのだと、シャルロットは理解した。
ここまで真摯に向き合ってくれることに感謝しながらも、同時に疑問も浮かんでくる。
「ルイお兄さまはどうしてここまでして下さるのですか?」
「決まっているだろう。ボクがこの国を愛しているからさ」
即答だった。何の迷いもない、徹頭徹尾そう思っているが故の答え。
その覚悟と決意の重さにシャルロットは圧倒されてしまう。自分にも戦う理由があり、覚悟や決意もある。しかし輝くまでの一途な想いを見せつけられて、果たして自分の想いは兄に勝るものなのかと委縮してしまったのだ。
けれどもそれは直後霧散することになった。
「ここまで言っても足踏みするというのなら、ボクがキミから全てを奪って代わりに望みを叶えてあげようか?オーギュストたちを処断し、国を安定させ、国力を蓄えて来る外敵との戦いに備える。ヤコウくんも今の腑抜けたキミよりもボクの方が良いっていうはずさ。そうなれば彼はボクの〝守護騎士〟になってくれるかもね」
「…………ッッ!!」
嘲笑の色濃いその発言に、シャルロットの中で怒りが沸き上がった。
それは瞬く間に委縮していた己を飲み込み、膨張していく。
――気づけば、シャルロットは立ち上がって〝悪喰〟の刃を掴んでいた。
「ふざけないでくださいっ!」
「…………!」
激高したシャルロットの姿にルイは言葉を失った。これほどまでに妹が敵意を向けてきたことなどなかったからだ。それに――驚くことに彼女は〝魔器〟の刃を素手でつかんでいる。なんの加護も持たないシャルロットの柔肌は、ルイが少しでも剣を動かすだけで切り裂けるだろう。それどころか指すら簡単に落ちてしまうはずだ。
だというのに、彼女は〝悪喰〟を握りしめている。滴る鮮血も意に介さず、烈々たる怒気を宿した碧眼をルイに向けてきていた。
「わたしは誓ったのです。亡きお母さまにこの国を護って見せると、お父さまを救って見せると!今まで付き従ってくれた者たちの忠義に報いると!」
それに!!、と殺意すら込めた視線でルイを射抜いたシャルロットは叫んだ。
「ヤコーさまを一番に想っているのはこのわたしですっ!お兄さまなんかよりも何倍も、何十倍も――もっともっと、ヤコーさまを好いているのはわたしなんです!!お兄さまだけじゃない、誰にもヤコーさまはあげませんっ!」
思いのたけを言い切ったシャルロットは荒々しく息継ぎをする。その姿に圧倒されたルイはしばし茫然としていたが、やがて肩を震わせると〝悪喰〟を腰に喚び戻した。
パッと一瞬で鞘に戻った〝魔器〟に、シャルロットは驚きながらも傷ついた掌を眺める。それから必死に笑い声をこらえる兄の様子に気付いて、自分が今何を言ったのかを理解して赤面した。
「あ、あのっ!お、お兄さま、今のはですね――」
「――ふ、くく……はははははっ!駄目だ、もうこらえきれない」
慌てて釈明しようとするシャルロットを遮る形で笑い声をあげたルイは、ひとしきり笑うと彼女に近づいて〝魔人〟の膨大な魔力を用いて掌の傷を治してやる。
「そうか、そうか……シャル、キミはそれほどまでに彼のことが好きなんだね。いやあ、心配して損したよ」
「は、い……?」
聞き間違いかな、とシャルロットは呆けた声を上げるも、ルイは気にした様子もなく降参だと言わんばかりに両手を上げた。
「ヤコウくんもシャルも、どうにも煮え切らない態度だったから、不安だったんだよね。でもこれでハッキリとした」
話の流れについていけないシャルロットを置いて、ルイは満足げな笑みを浮かべると天幕の出口へと向かう。
一体何がしたかったのか、わからないシャルロットはその背に向かって声を投げた。
「お兄さま!あなたは何がしたいのですかっ!?」
「さっき言っただろう。伝えたいことを、伝えたい人に告げてほしいだけさ」
振り返らずに片手をひらひらと振りながら、ルイは天幕を出ていく。
「――後悔だけはしてほしくないのさ、可愛い妹にはね」
茫然と立ち尽くすシャルロットにそんな台詞を置き土産にして、ルイは足取り軽くその場を去るのだった。
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