二話
昏い地の底に足音が響き渡る。
荒れた地面を靴が踏みしめる音はこの地に住まう異形の存在たちの注意を容易く引き付けてしまうものだ。
彼らは魔物と呼ばれる種族――そんな彼らの注意を引いたのは一人の人間だった。
常人であったのなら絶望的な状況と言えよう。十を超える魔物に一斉に見つかったのであれば、脆弱な人族などあっという間に八つ裂きにされ喰われてしまうからだ。
けれどもその人間は常人ではなかった。
『グギャギャ――ギャァ!?』
「邪魔なんだよ、雑魚共が」
白刃一閃――暗闇を白光が切り裂いた。
薄暗い奈落にあって尚、輝きを損なうことのない白銀の剣が
鮮血が宙を舞い世界を赤く染め上げる――否、瞬く間に白に喰らい尽くされた。
「死ね、さっさと死ね。俺の前を塞ぐなよ」
水晶の如き美しさを誇る剣を振るい怨嗟を吐くのは白髪の少年であった。
華奢な体躯に黒い学生服を纏う彼の名は間宮夜光。〝地球〟から召喚された勇者――ではなく、その召喚に巻き込まれた平凡な高校生である。
『ギャァア――』
彼は元の世界に居たのなら平凡な人生を送れたかもしれない。異世界に召喚などされなければ今現在のような眼をしていなかったかもしれない。
しかし、たらればなど考えたところで無意味であり、現実は非情であった。
「……なんだ、もうお終いか?」
僅かに乱れた息を吐いて、少年は僅かに首を傾げた。
十を超える数で彼に襲い掛かった小鬼たちは、すべて地に倒れている。自らの血液で作られた血だまりに沈み、その表情は恐怖に凍り付いたままで。
小鬼たちは死の間際に悟ったのだ。自分たちがどれほど恐ろしい存在に牙を剝いたのかを、少年の眼を見て理解させられたのだ。
「…………」
物言わぬ死体となった小鬼たちを見下ろす少年の眼――左眼は武骨な眼帯に覆われており確認することはできないが、外界に晒されている右眼は常人のそれではなかった。
――虚無だ。
どこまでも深く、どこまでも昏く、どこまでも黒い――深淵を湛えている。
その奥底では荒々しい感情の塊が蠢いている。憎悪と絶望、憤怒の炎が揺らめいていた。
「行くか……」
しばらく小鬼を眺めていた夜光だったが、何の感慨も抱かなかったのか踵を返して再び歩き出した。
向かう先は上――この奈落とは真逆の光差す地上世界である。
(地上に出たら……まずは地竜に挑むか)
歩きながら今後について想いを馳せる。
その様子を力弱き魔物たちは遠巻きに眺めていた。これは普通であればありえない光景だ。五大種族――魔物を含めれば六大種族――の中で、もっとも脆弱な人族は魔物にとって餌でしかない。
つまり考え事をしながら歩いている夜光など格好の獲物のはず。だというのに魔物たちは襲い掛かる気配がないどころか、彼に見つからないように息を潜めていた。
その理由は明白――夜光が放つ殺気が尋常ではなかったからだ。
B位階の魔物すら超える殺意を彼は全身から放っており、人族よりはるかに優れた生存本能を持つ魔物たちはそれを敏感に感じ取っていた。
あの人族には勝てないと、小鬼のように知性のない魔物以外は理解しており、それ故に襲い掛かるなどという愚行をとらないでいる。
そんな魔物の存在に気づいてはいながらも邪魔をしなければどうでも良いと考える夜光は歩を進め続けた。
(あの時は一方的にやられたけど、今度はそうはいかないぞ)
夜光の目的は復讐――この一点に尽きる。
その対象は
(魔物の脅威?国を救う?はっ、そんなのもうどうだっていい)
奴らに裁きを――復讐の刃で貫くまで足を止める気はない。
留まるところを知らない殺意を抱いた夜光は〝大絶壁〟にある天然の洞窟を通り、上へ上へと向かう。
時折襲い来る魔物を殺し、傷ついて、それでも痛みに耐えていれば愛剣が治してくれる。
時間の感覚などとうに失われていた。全てを失ったあの日から何日経ったのかも覚えていない。
既に夜光の身は食事を取る必要性のない身体へと変化している。故に排泄も存在せず、あるのは倦怠感のみ。眠気はずっと続いている極限状態が押しつぶしていた。
はたからみれば幽鬼のような姿でひたすら闇を突き進む夜光だったが、そんな彼の行く手を塞ぐ者がいた。
『グヒャヒャ!』
耳障りな声を上げる異形の存在。全身が黒く額からは一対の角を生やしており、背中には翼を持っている。
夜光にとって忘れるはずもない存在――B位階の魔物、
その忌々しい敵を前に、夜光は――、
「……ああ、お前が居たな。すっかり忘れていたよ」
嘘を吐きながら笑みを浮かべた。
けれどその眼はまったく笑っていない。復讐対象を前に抑えていた黒い感情が溢れ出ている。
どす黒い憎悪を孕んだ右眼で中級悪魔を睨みつけ、手元に
空の左手で顔の左半分を覆っていた眼帯を外せば、蒼紫の光が暗闇の中に浮いた。
「さあ――復讐の時だ。〝天死〟、
夜光の声に白銀の剣は輝きを増し、妖しげに光る左眼は眼前の敵を捉えた。
瞬間、夜光の意識に浮かび上がったのは敵の殺し方。小鬼程度が相手であればいくつも浮かぶのだが、流石にB位階の魔物なだけあって選択肢は驚くほど少ない。
(いや、俺がその程度の弱者だってことだ。……もっと、もっと強くならないと)
力がいる。今のままでは〝日輪王〟どころか勇にすら及ばないだろう。地竜にだって敵うか怪しいところだ。
(強くならなければいけない。誰よりも強く、誰よりも圧倒的な存在にならなければいけない)
しかし夜光は他の人族みたいに魔法が使えるわけでもなければ、魔物のように世界に漂う魔力で身体を強化できるわけでもない。それは圧倒的な差であり、枷だ。
だが――、
(それがどうした。勝てる勝てないじゃない、勝つんだ)
理屈など知ったことか。気に入らない道理など覆せばいい。
あらゆる法則に唾を吐き、自らの望む結果を自らの手で齎せば良い。
それが絶望の果てに夜光がたどり着いた真理であり、考えだ。
『ギャハハッ!』
甲高い笑い声――癇に障る音を発する中級悪魔の顔が喜悦に歪む。
その表情を見て夜光は悟った。
「そうか、お前――俺の眼を奪った奴か」
中級悪魔はこの奈落では多数生息している。加えてこの広さ、かつて出会った個体と再会するなどかなり低い確率の出来事だ。
しかも中級悪魔は皆同じ容姿。普通ならば個体を特定することなど出来はしないのだが……夜光は確信していた。
こちらを嘲笑うその笑みを、こちらを見下すその双眸を――見違えるはずなどない。
「ははは……なんて幸運なんだ!」
夜光は疼く左眼――かつて眼前の魔物に奪われた箇所を左手で抑えた。無意識に口元は荒々しく歪み、殺意と憎悪が交じり合って空間を圧迫する。
「同じ種を見かけたら片っ端から始末していくつもりだったが……まさか初手でお前に会えるとはな」
一歩、夜光が踏み出せば、彼の覇気に耐え切れずに地面が爆ぜた。
その音に、叩きつけられた濃密な殺意に、中級悪魔が笑みを引っ込める。
そして手にしていた細長い棒を両手で持ち、飛び掛かってきた。
「っ、ハァッ!」
視力が強化された夜光はそれが金属製であることに気づき、次いで自ら中級悪魔に向かっていった。
振り下ろされる金属の棒、迎撃のため掬いあげるようにして夜光が振るった〝天死〟。甲高い金属音が鳴り響き、火花が散る――しかしそれは同格の武器同士であったならの話だ。
『グギャギャ――ッ!?』
かつて足蹴にした弱き人族、故に今回も圧倒的な優位に立っていると思い込んでいた中級悪魔。だからこそ笑い声を上げたわけだが、それも瞬時に驚愕へと塗りつぶされた。
何故ならぶつかり合うと思っていた白銀の剣が、手にしていた金属の棒をあっさり切り飛ばしてしまったからだ。
『ギャァッ!!』
悲鳴が響き、鮮血が吹き上がる。
夜光が振るった〝天死〟の刃は金属の棒を絹を裂くが如く切り飛ばし、その勢いのまま棒を握っていた中級悪魔の右腕をも落とした。
その出来事をまったく想像していなかった中級悪魔は動揺しているが、前もって〝死眼〟で〝視〟ていた夜光は顔色一つ変えない。
それどころか腰を落とし、返す刃で中級悪魔の両足を切り裂いた。
たちまち上がる悲鳴、のたうち回る中級悪魔。
その姿を見下ろして、夜光は氷のように冷たい声を発した。
「理解したか、感じたか?これが見下されるということ、これが絶望を味わうということだ」
『ギャ――』
「なら、死ね。さっさと黙れよ」
忌々しい姿、忌々しい声をこれ以上見たくもないし聞きたくもない。
そう思った夜光は右手を横に振りぬく。すると生々しい音色を奏でて中級悪魔の首は胴体から離れた。
一瞬の攻防を制し、勝利を手にした夜光だったがその顔色は晴れない。
(思った以上に――何も感じないな)
かつて嬲られた相手を殺した。一つの復讐を果たしたのだ。
しかし達成感が得られることもなければ、喜悦が訪れるわけでもなかった。
ただただ――無。そうか、終わったのかという陳腐な感想しか浮かんでこない。
「…………なんでだよ」
復讐を果たせば気持ちが晴れるはずだった。なのに何故――、
(いや、そうか。一人目だから、他にまだまだたくさんいるからか)
夜光はやや強引にそう結論づけ、己を納得させた。そうでもしなければ浮かび上がった考えに耐えられそうになかったのだ。
――復讐は何も生まない
というありきたりで、でも真理かもしれないその考えに。
(そんなのありえない。そんなことはないはずだ!)
そうでなければ自分は――。
夜光は首を振って思考を振り払うと、学生服に仕舞っていた眼帯を取り出し左眼を覆う。
薄らいだ殺意を押さえて絶命した中級悪魔を一瞥し、また地上へ向かって歩き出す。
先ほど浮かんだ考えを振り払うように、その速度は中級悪魔と出会う前よりも早かった。
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