十六話

 その頃、死んだと思われている夜光は〝大絶壁〟の最下層――奈落にあるガイアの小屋、そこに隣接して造られていた風呂に浸かっていた。


「ふぅ――……」


 寒々しい空気から一転、風呂は温かく疲労が溜まった身体を癒してくれる。

 ほっと一息ついた夜光は午後に行われた訓練を振り返った。


「いつもより厳しかったな……」


 昼に何故か失礼なことを考えているのを見抜かれた夜光は、午後の訓練で容赦なくガイアにしごかれた。

 いつもなら夜光のペースに合わせてくれるのだが、今回は容赦なく魔法を連発してきたのだ。

 それに対処すべく夜光は全力を振り絞ることになった。〝死眼〟を使い、極限の集中力を以って飛んでくる魔法を時には躱し、時には〝天死〟で切ることによって。


「それにしても驚いたな。まさか魔法を切れる剣があるなんて……」


 神器や神剣について書かれている書物にも、魔法が切れるとは書かれていなかった。故に驚いた夜光であったが、そもそも高速で飛来してくる無数の魔法をタイミングよく切れる自らの反射神経や動体視力の方が異常であると気づいていない。

 

「ある程度いろんな魔法に対処できるようにはなったけれど……まだまだ課題は多い」


 夜光は魔法が使えない。この世界の常識である魔法には魔法を以って対処するということができないのだ。だからこそ体捌きで回避を行ったり、剣で迎撃する必要がある。しかしそれはお世辞にも上出来とは言い難い状況だった。


「いくら〝天死〟の力で直ぐに怪我が治るとはいっても、痛みは消えないわけだし」


 負った傷は確かに〝天死〟の加護によって即座に治癒される。けれどもその時受けた痛みが緩和するわけではない。苦痛は判断力を削ぎ、身体の動きを鈍らせる。隙が生まれてしまうのだ。

 それに失った血だけは直ぐには戻らないという欠点もあった。血を流しすぎれば人は死ぬ。それは夜光も例外ではない。


「凄い力ではあるけど、万能ってわけじゃない。だから俺自身がもっと強くならなくちゃいけないんだ」


 故に強くなるために協力してくれているガイアには感謝の念が尽きない。命を救ってくれただけでもありがたいというのに、その上毎日訓練に協力してくれ、こうして衣食住も与えてもらっている。

 至れり尽くせり――だからこそ夜光は疑問を抱かざるを得ない。


「どうしてガイアはこんなに良くしてくれるのだろうか……?」


 見ず知らずの相手にここまで尽くしてくれる。無力であった夜光にとってはありがたい話だったが、与える側には何の利益もないように思える。


「ガイア、か……」


 ふと、夜光は恩人の事を思い浮かべた。

 その時だった。


(――ん?)


 夜光の耳朶にひたひたという足音が触れたことで、彼は思考の海から顔を上げた。

 誰かが近づいてきていることは足音から考えて明白。問題はそれが誰なのかという点にある。

 この奈落には夜光とガイア、後は魔物しか存在しない。ガイアは女性であるから男性の入浴中に入っては来ないだろう。となれば答えは一つしかないわけで。


「――〝天死〟ニュクス


 夜光が静かに呟けば手元の空間がひび割れて白銀の剣がゆっくりと現出する。

 柄を握りしめた夜光は相手にまだ気づいていないふりをすべく殺気を押さえ、だがいつでも飛び掛かれるように中腰になった。


(何故だ、ここには魔物は入ってこないはずなのに……)


 これまでガイアの住居であるこの小屋の周囲に魔物が現れたことはない。故に夜光は魔物は小屋には近づけないと妄信していたわけだが、よく考えればそれは何の保証もなかった。

 

(くそっ、油断してた。ガイアは無事なのか……?)


 かなり高度な魔法の使い手であるガイアが手も足も出なかったとは考えにくい。それに考え事をしていたとはいえ、これまで聞こえてきたのは近くを流れる川のせせらぎと風の音だけだった。もし魔物とガイアが交戦したのであれば何かしら物音が聞こえてくるはず。となれば魔物はガイアと接触せずに夜光の元へ一番に向かってきた可能性が最も高い。

 と、ここまで考えた夜光の視界に遂に接近してくる影が映り込んだ。風呂の湯気で姿形がよく見えないが――、

 

(随分と小さいな。小鬼か?)


 小鬼ほどの雑魚――魔力総量の少ない存在なのであればガイアの魔力探知にかからなかったのも頷ける。海に一滴の血を垂らしても誰も気づけないように、強大すぎる魔力を持つ存在は逆に僅かな魔力を感知できないのだ。


(まあ、そもそも魔力を持たない俺だと誰も感知できないわけだけど)


 夜光は自虐めいた思いを抱きながら、近づいてくる存在との相対距離を測る。

 そして一定の距離――斬撃の届く範囲まで近づいた瞬間、


「オオオッ!」


 相手を委縮させる意味合いも込めた気迫を放ちながら床を蹴って飛び掛かった。


「っ――」


 突然の出来事に相手は驚いたのか動きを止めた。その隙を見逃す今の夜光ではなく、彼は左手で相手を押し倒すと右手に握っていた〝天死〟を掌で器用に回して逆手に、勢いよく振り下ろそうとして――ようやく気付いた。


「…………ガイ、ア?」

「……発情しすぎ、この変態」


 呆然とする夜光の眼下から罵倒を繰り出してきたのは一糸まとわぬ少女――ガイアであった。

 白銀の長髪が湯舟に広がり、白磁の如き柔肌は朱に染まっている。湯から出ている顔は常なる無表情――ではなく、どこか不満げであった。ジトッと夜光を見据えている紅の眼はやはり紅玉ルビーの如く美しい。

 あまりにも想定外、あまりにも想像外の光景に夜光が硬直していると、ガイアはその蕾のような唇を震わせた。


「……いつまで触ってるの、このド変態」

「え……?あっ」


 そこでようやく夜光は気付いた。押し倒す際に使った左手が今、何処にあるのかということに。


(む、胸――ッ!?お、終わった……)


 夜光の左手は控えめなガイアの胸をわしづかみにしていた。掌から伝わってくる柔らかな感覚が夜光に逃れえぬ現実を突きつけ、彼は自らが社会的に死んだことを悟る。


(……いや、社会ってなんだよ。ってまてよ、こっちの世界でもこれは犯罪じゃないのか?)


 人生において初の出来事に夜光の思考はよくわからない方向へと向かっていく。ある種の現実逃避でもあった。

 しかし眼下の少女は夜光を見逃してはくれなかった。


「退かないのなら――退かしてあげる」

「ぐあぁ!?」


 その言葉自体に魔力が込められていたらしく、夜光は思い切り吹き飛ばされて風呂の端に激突した。

 その際に飲んでしまったお湯に咳き込む夜光。彼の霞む視界にやはり生まれたままの姿を晒しているガイアが映り込んだ。


(痛い……けど謝らなきゃ)


 夜光が冷静であれば風呂に入っていると知っていながら断りもなく侵入してきたガイアの方に非があると思っただろう。

 けれども明らかに冷静さを欠いていた彼がそれに気づくことはなく、口は謝罪の言葉を出すべく動いていた。


「ガイアごめん!!俺は――ッ!?」

「ん――」


 刹那、世界が止まったように夜光は感じた。

 何も聞こえない、何も感じない――否、眼前の少女だけを感じ取れる。

 裸の身体に触れる他者の熱、唇を覆う柔らかでどこか甘い感触。

 甘美な時間、思わずこのまま続けばいいのにと願ってしまうが、ガイアは直ぐに夜光から離れてしまった。


「が、ガイア……?一体何を……」

「…………」


 夜光は吹き飛ばされた衝撃で風呂の床に尻餅をついた状態だった。だからこそ彼より小柄なガイアが立っていることで彼女の全身を拝めるのだろう、とこの時夜光は考えた。

 ――すべてが見えている。ガイアという美しくも可愛らしい少女の全てが夜光の視界に映り込んでいた。

 

「……ヤコーからはダメ。でも――」

「あ――」


 屈みこむように、あるいは倒れこむようにして身を寄せてきたガイアが夜光の耳元で囁く。



 ――わたしからなら、いいの。



 そして彼女はゆっくりと夜光の上に乗ってくる。衝撃的な展開、眼前に広がる甘美で艶やかな光景に夜光の理性が消えかかる。

 それは男としての性なのか、それともガイアという個人への想い故なのか――もう夜光には判別がつかなかった。

 このまま誘惑に身をゆだねても良いのではないだろうか。そもそも彼女の方からなのだ。であれば何の憂いも――、


(――いや、ある!!)


 溶けかかっていた理性が強烈な想いを訴えかけてきたことで、夜光は我に返った。

 それは己がガイアのことを好いているのかという疑問と、恩人への厚い感謝の念だった。

 だから夜光はもう一度唇を奪おうとしてくるガイアの頬に手を当ててしっかりとした視線を向ける。

 それで彼の意図を悟ったのか、ガイアは動きを止めてくれた。


「ガイア、お前は恩人だ。命を救ってくれて、何も持たなかった俺に全てを与えてくれた」


〝天死〟や〝死眼〟という力、魔物や魔法への対処といった知恵、こみ上げてくる憎悪や殺意を押さえる勇気。他にも服から食事といった生きる上で欠かせないものを貰った。


「それだけじゃない。ガイアは俺を


 裏切り、絶望、憤怒といった負の感情に支配されたままだったのなら、夜光はきっと獣に堕していただろう。感情のままに全てを憎み、壊し、その果てに野垂れ死んでいたはずだ。


「そうならなかったのはお前が俺を癒してくれたからだ。お前が俺を真の意味で救ってくれたんだ」


 何気ない会話、何気ないやり取りがどれほど救いとなったことだろう。与えてくれた本人は意識していないだろうが、与えられた側は百の慰めよりも尊いと感じていた。


「嬉しかったんだ。もちろん怒りや憎しみは残ったままだけど……ガイアのおかげで温かい感情モノも俺の中に生まれたんだ」


 ガイアの気遣いや献身は黒く染まった夜光の心に白を齎してくれた。彼女の優しさはまるで白夜の如く、昼も夜も関係なく夜光を照らしてくれた。包み込んでくれた。


「お前は俺にとっての〝光〟なんだ」


 だからこそ彼女との関係を大事にしたいと夜光は思っている。


「いずれこの奈落から出る時が来たとしても――ガイア、お前と共に居たいと思っている」


 気づけばそんな言葉を発していた。心が、感情が訴えるままに口は想いを言葉に代えていく。


「だからこそ、流されるようにしてはいけないと思うんだ」


 最後にそう締めくくれば、これまで黙って聞いていたガイアが口を開いた。


「…………ヤコーは優しい。卑怯、そんなことを言われたら、わたしは――」

「――――」


 夜光は眼を見開いた。何故ならガイアが涙を流していたからである。

 常日頃無表情であり、時折理解できる僅かな変化もずっと暮らしてきたからこそわかることだ。

 しかし今、彼女は誰の眼にも明らかなほど感情を露わにしていた。


「……わたしはヤコーを利用しているのに、それだけだったはずなのに――」



 ――どうしてこんなにも胸が苦しいの?



「っ――」


 夜光は答えられなかった。言葉が出てこなかったのである。

 その代わりに身体を動かしてそっとガイアを抱きしめた。


「……ガイアが言っていることは俺にはわからない。けどさ、たとえ利用しているだけだったとしても、お前が俺を何とも想っていなかったとしても」


 己がガイアに抱いていた感情に、遂に気が付いた夜光は両手で彼女の肩を優しくつかんでほほ笑んだ。


「俺は――お前の事が好きだ。それだけはどんなことを打ち明けられたって変わらない」

「――っ、卑怯……本当にヤコーは……そんなこと言われたら、わたしだって抑えられない」


 その言葉は夜光にとって万の言葉に優る一言であった。

 何故なら自分と彼女の想いが同じであるという証だから。


 それ以上、言葉は要らなかった。

 幾億の言葉でも伝えきれない想いを伝えるべく、二人は互いの意志で唇を重ねあうのだった。

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