十一話

 暗い、昏い地の底――〝大絶壁〟と呼ばれる奈落の果て。

 あまりにも深すぎて陽の光が一切届かぬ暗闇の中は微かな音だけが響き渡っている。

 不毛の大地を流れる川のせせらぎである。

 

 その川は〝大絶壁〟の底を流れるものであり、常日頃は魔物の水源となっていた。

 そんな川の途中には現在、この場にあって異質と言える存在が下半身を浸していた。

 

「……うぐっ……!」


 うめき声を上げながら目を開けたその存在は――夜光であった。

 意識を取り戻した彼がまず初めに感じたのは頬を撫でる冷たい微風、次いで下半身を絶え間なく襲う刺すような冷気である。


「ここは……がぁ!?」


 無意識の反応で身体を起こそうとした夜光だったが、直後全身をありえない痛みが襲ったことで悲鳴を上げてしまう。


(い、痛い!なんだ、なんなんだこれは……っ!?)


 想像を絶する痛み――例えるなら昔骨折した時の痛みを何倍にも膨れ上がらせ、あげくその部位に沸騰した薬缶をずっと押し当てられているような、そんな感覚に夜光は襲われていた。


「あがっ、く、そが……っ!」


 身体を動かすのは苦痛――されど、どうやら水に浸かっているらしい下半身は傷口に染みて痛みが倍増している。せめて下半身を水から上げなければ。

 そう考えた夜光は歯を食いしばり、うめき声を上げて苦痛を誤魔化しながら必死に腕を動かす。匍匐前進するように地を這って進み、なんとか下半身を水から引き上げることに成功した。


「はぁはぁ……」


 耐え切れない痛みに夜光は息を荒げて仰向けに転がる。下半身を水から上げたことで若干ではあるが苦痛が緩和されたことで思考に余裕が生まれた彼は自分の身に何が起きたのかを考え、即座に悟った。


(確か……地竜に襲われて)


 崖から落ちそうになったところを勇が手を掴んで助けてくれて――でも彼は裏切ってその手を離した。

 結果、夜光は〝大絶壁〟へと落下した。今度こそ死を覚悟した夜光だったが、運よく――本当に運がよく絶壁の途中から流れ落ちていた滝に突っ込み、そのまま底を流れていた川に落ちたのだ。


(本当に運がよかった……)


 滝で落下速度を緩和できていなければ今現在のように生きてはいられなかっただろう。見るも無残な死体になっていたに違いない。


(それにしても勇の奴……ふざけやがって)


 嫉妬からの殺意――おそらく勇は夜光が死んだと思っているだろう。後悔しているのか、狂喜しているのか――おそらく後者だろうと夜光は結論づけた。


(このままだと陽和ちゃんが危ないな)


 夜光を――人を一人殺したのだ。もう後には引けないと考えているに違いない。そのような人物が好意を抱く相手を手に入れるためにどうするか――考えるまでもなかった。


(早く陽和ちゃんの元に行かなければ……でもどうすれば)


 体中が苦痛を訴えている。指先一つ動かすだけでも至難の業、絶え間ない痛みが夜光を襲っていた。こんな状態では歩くこともままならない。


(どうすればいい……一体どうすれば――ッ!?)


 動けないという現実に絶望した時だった。

 カツン――と小石を蹴るような音が聞こえてきて夜光は身を強張らせた。

 ここは〝大絶壁〟の最下層、人がいるはずもない。ならば何者が近づいてきているのかなど明白である。

 

 暗闇に慣れた夜光の視界に映り込んだのは――異形の姿を持つ者であった。

 全身が黒一色で、唯一違う色合いの瞳は血のように朱い深紅。髪は生えておらず、額からは一対の角が生えている。何よりも特徴的なのはその背から羽の無い漆黒の翼を生やしているという点だろう。

 この異形の存在を知覚した夜光は痛みに鈍る頭を必死に動かして――すぐさま正体を看破するに至った。


(こいつまさか――中級悪魔デーモンか!?)


 位階Bの魔物――すなわちあの地竜と同等の存在。

 だとすれば状況は最悪と言っていいだろう。地竜の時はまだ身体が動かせたから致命傷を避けることもできたが、全身を痛打し至る所に出来た傷口から血を流している現状ではそれすら叶わない。

 体は動かない、剣もない、味方も居ない。魔法はおろか身体強化できる魔力すらもとより持ちえない身は脆弱の一言。

 

(頼む、気づかないでくれ……っ)


 しかし現実とは無常である。血に飢えている魔物の嗅覚は夜光から流れ出る美味しそうな臭いを敏感に感じ取っていた。


『グギャギャギャ!』


 嬉しそうに――心底からあふれ出る喜悦を表しながら中級悪魔が夜光に近づいた。そして獲物が弱っていること、抵抗はおろか逃走すらできない状態であると理解して更に嗤った。

 次いで中級悪魔は片足で夜光を踏みつけた。


「ごふっ――あがっ!?」


 目玉が飛び出そうになるくらい目を見開いた夜光は吐血した。腹に穴が空いたのではないかと錯覚してしまうほどの苦痛、夜光は声にならない悲鳴を上げ続けた。


「あ――が――やめ――」

『ギャハハハハハッ!!』


 何が楽しいのか、中級悪魔は嗤いながら何度も何度も夜光を踏みつける。

 そのたびに夜光の身体が跳ね、口からは鮮血が飛び出た。今の夜光はさながら陸に打ち上げられのたうち回る魚だ。


(イタイ、イタイ、イタイ――ッ!!)


 少しでも痛みを和らげるために大声を上げようとするも、口から出てくるのは夥しい量の血のみ。

 助けてくれと願っても、許してくれと希っても希望は訪れず絶望が深まるだけ。


 そんな瀕死の虫のような有様の夜光に、さらなる反応が見たいと思ったのか、中級悪魔が右手を上げた。

 一体何をする気なのか、夜光が赤く染まる視界で必死に見やれば――中級悪魔の手に細長い棒が握られていることに気づく。

 次の瞬間――、


「あ――ガアァアァァァァッ!?」


 左眼が暗闇に染まり、尋常ではない痛みが襲ってきたことで夜光は絶叫した。

 その獣のような咆哮に中級悪魔は喜悦を弾けさせて、夜光の左眼に突き刺した棒を動かす。執拗に蠢かし、もっと悲鳴を聞きたいという欲望を隠さずに。


「アァアアアアアアアアアアアアアアアア――――!!」


 悲鳴、絶叫が奈落の底に響き渡る。ここが地上ならば誰かが様子を見に来てもおかしくないほどの大音量。しかしここは希望など欠片もない暗闇の果てである。

 故に夜光の声など誰にも届かず、中級悪魔を悦ばせるだけであった。


 やがて中級悪魔は突き刺していた棒を引き抜き、夜光の様子を伺った。

 血だまりに倒れ、口から鮮血と泡を噴き出し、棒を突き刺して破壊した左眼は見るも無残な状態になり果てていた。

 残る右眼からは光が失われ、頬には血涙が伝っている。時折身体を痙攣させ、口からは意味のない言葉が漏れていた。


(なんで……どうして俺がこんな目にあわなくちゃいけないんだよ)


 全てが失われた虚無から顔を出したのは疑問。そしてそれは次に怒りへと転化する。


(エルミナ王国の所為だ)


 勝手にこの世界へと召喚――否、拉致したエルミナ王国が憎い。


(勇の所為だ)


 陽和を手に入れるために手を放し、この奈落へと落とした勇が憎い。


(こいつの所為だ)


 今、目の前で嗤いながら痛めつけてくる中級悪魔が憎い。


(ふざけるな、許さない、許すものか!)


 怒りは憎しみを呼び、憎しみは殺意を招く。

 己を貶めた者全てを鏖にしなければならない。何もかもを破壊しなければ気が済まない。


(殺す、ころす、コロシテヤル――!)


 いつしか夜光の思考は殺意に満たされていた。殺さなければという思いに駆られ、それ以外は邪魔だと切って捨てた。

 交わした約束も、自らに立てた誓いも、守らなければと思った彼女陽和の顔さえも――赤く、紅く染め上げて。

 

 そんな怒りに支配された夜光の視界に中級悪魔の姿が映り込む。悪魔は夜光を嘲笑しながら鋭利な棒の先端を彼の心臓に向けた。もう遊び飽きたから殺して食べようと考えたのだろう。


(ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな――)


「ふざけるなァァアアアッッ!!」

『グギャ!?』


 刹那、夜光は獣と化した。電光石火の勢いで中級悪魔に飛び掛かると組み伏せ――その首を噛み千切った、、、、、、

 

『ギ、ガ、ェ……』


 首から鮮血を噴き出した中級悪魔は信じられないと目を見開き――力なく腕を下した。

 窮鼠猫を嚙む――絶対的な強者が弱者の牙に倒れた瞬間であった。


「は、はは――ざまあみろ――……」


 しかしその動作は死に体の夜光にとって致命的だった。

 彼はその言葉を最後に中級悪魔の上に倒れこむ。あふれ出た血の量はもはや助からないと悟るに足る量で。


(ああ――……ここまでか……)


 徐々に狭まる視界、闇に堕ちていく意識。

 その中で夜光は確かに声を聞いた。


「見つけた――わたしの後継者」

 

 最後に夜光が目にしたのは白光で、耳にしたのは清廉な少女の声だった。

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