第2話
こうしてチョコ作りを教えることになった俺は、バレンタインの前日、美緒の家へとやってきた。昔は何度も出入りしていたこの家も、成長するにつれ次第にその回数は減っていた。通されたキッチンを見るのも随分と久しぶりだ。
「材料は揃えているな」
「うん。言われた通り多めに用意しておいた」
美緒はチョコどころか料理の経験自体ほとんどなく、家庭科の授業であった調理実習くらいだ。おかしな所があれば逐一指導するつもりだけれど、失敗した時のことを想定しておいた方が良い。
今回作るのはチョコブラウニー。まずはチョコを刻む所から始めるのだけど。
「包丁の持ち方がおかしい!手元を見る!指を伸ばすな!」
美緒の包丁さばきはスリル満点だった。これは指導を引き受けて正解だった。俺がいなければ、きっと出来上がったチョコからは血の味がしただろう。もちろん大変だったのはそれだけではない。
「チョコを溶かす時は直接火にかけずに湯せんする!」
「分量はきちんと量れ。決して目分量でやろうとするな!」
「混ぜ方がなっていない!」
我ながらきつい言い方をしているという自覚はあった。だけどそうしなければまともに完成させることはできないだろう。それくらい美緒は不器用で大ざっぱで料理には向いていなかった。
さすがに言いすぎたかもしれないと、言った後に反省もした。だけど美緒は文句一つ言わず、黙って俺の言う事を聞き入れていた。普段はちょっとしたことでもすぐに反論してくるのにというのに。
美緒は生地を混ぜる途中、手首が痛くなったみたいで何度か曲げ伸ばしをしていた。慣れないうちはよくあることだ。
「きついなら変わろうか」
ついそんな事を言ってしまった。俺はあくまで教えるだけで、実際に作るのは美緒。そう言う約束で始めたけど、これくらいなら手伝っても良いんじゃないかと思った。だけど美緒は首を横に振った。
「ううん、私がやる。全部一人で作りたい」
そう言って再び生地を混ぜ始める。美緒がこんなにも一生懸命になるだなんて、俺の知る限りでは初めてのことかもしれない。そんなにこれを高瀬先輩に渡したいのか。そう思うと、なんだか胸の奥がモヤモヤしてくる。
「後はオーブンで焼けばいいんだよね?」
美緒の言葉に我に返る。変なことを考えていたせいで、つい目を放していた。
「ああ。余熱はしてあるよな。もう入れて大丈夫だ」
生地をオーブンに入れ、待つこと25分。
「焼けたかな?」
「熱いから気をつけろよ」
ゆっくりと生地を取り出す。これで完成だ。熱とともに甘い香りが漂ってきて俺達の鼻孔をくすぐった。
「これ、ちゃんとできてるよね?」
美緒が恐る恐る俺の方を見る。
「ああ。完成だ」
作っている間はどうなる事かと思っていたけど、何とか完成させることができた。大変だっただけに、普段自分が作る時よりもはるかに達成感があった。
俺でさえそうなのだから、美緒の喜びようはそれ以上で、自分で作った事が信じられないといった様子だ。
「ありがとう樹。これで先輩に渡せるよ」
だけど美緒がそう言った時、胸の中にあったモヤモヤがさらに大きくなった気がした。
高津先輩に渡す。それはとっくに分かっているのに、あらためて聞いて、さっきまでの高揚から一転して、体が冷めていくのを感じた。
「なあ美緒。それ、本当に高瀬先輩に渡す気か」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。しまったと思った時には既に遅く、美緒の耳にもしっかりとそれは届いていた。
「そうだよ。なんで今更そんなこと言うの?」
そう、確かに今更こんな事を言っても仕方が無いだろう。俺も、本当なら言うつもりなんてなく、美緒のやりたいようにさせようと思っていた。
だけど、いざこうして出来上がって、先輩に渡す所を想像すると、どうしても言わずにはいられなかった。
「だって、先輩にはもう彼女いるんだぞ」
そう言った瞬間、美緒の表情がクシャリと歪んだ。やっぱりこれは言うべきじゃなかった。そう思ったけどもう遅い。仕方なく俺は言葉を続けた。
「……美緒だって、知ってるだろ」
俺がそれを聞いたのも美緒からだった。その日の美緒は珍しく沈んでいたのでどうしたんだと聞くと、うっすらと涙を浮かべながら、先輩に付き合っている人がいたんだと話した。
それが一ヶ月ほど前の話だ。美緒はまだ先輩のことを忘れられないでいる。だけど、美緒がこれを先輩に渡したところで、その想いは届かない。それは美緒自身が一番よく知っているはずだ。
「うん。無理だって、ちゃんと分かってる」
美緒は静かにそう言った。
「だったら何で?」
そんなの無駄に傷つくだけじゃないか。
美緒は肩を落とし、小さく顔を伏せた。手は固く握られ、小刻みに震えている。
「私馬鹿だからさ、諦め方がわからないんだ。あれから一ヶ月もたつって言うのに今でも未練があるし」
小さな声でポツポツと語。足元に小さな滴が落ちたことに気づいた。
「直接先輩の口から断られてたら、そしたらきっぱり諦められるかなって思ったんだ」
顔を上げた美緒の目には涙で一杯だった。
その涙を止めてやりたいと思うけど、俺にはどうすることもできない。それが悔しくて思わず拳を握り、そのまま黙って美緒の言葉に耳を傾ける。
「それにね、私が先輩を好きだって気持ちは知ってほしいって思ったんだ。先輩にしてみれば迷惑かもしれないけどね」
美緒は手で涙をぬぐうと、無理やりに笑顔を作った。今まで何度も見てきた、頑固で融通がきかなくて、真っ直ぐな顔だった。
まただ。そんな顔をされると、つい背中を押したくなる。
「迷惑なわけないだろ」
「え?」
俺の言葉に、美緒が驚いた表情をする。
「あんなに頑張って作ったんだ。迷惑だなんて思う訳ないだろ」
それは何の根拠もない言葉だ。先輩が本当はどう思うかなんて俺には分からない。だけど、震えながら、それでも想いを伝えようとする美緒を見ると、そんな言葉をかけてしまう。
「明日、ちゃんと渡してこいよ」
そう言って、美緒の頭を撫でるようにそっと叩いた。
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