④
その日のうちに右前腕の手術が決まり、私は例の病室に入った。健太郎くんの母からの電話で仕事を切り上げた母が駆けつけ、怒ったか心配したか知れない顔で回された三つ目の病院の中、折れて二重になった一本の骨を、医師たちが両側から引っ張って元に戻そうとしても、そのひどさと私の叫喚のために叶わず、そうするよりなくなったのである。
手術はその翌日だった。別の病院へ移された。元々身体の弱かった私である、私の母と医師の間で、様々の慎重な決定が、おそらく取り交わされた。手術の前になって、若い医師が私のベッドまでやってきた。あたかも私は、看護婦に美人がいるというのは嘘なのだと思っていた。医師が持つのは注射器だった。手術は全身麻酔の予定だったが、実際はそれを一気にかけるのではなく、いくつかの段階に分けて巡らせてゆくらしかった。医師は朗らかな調子で私の腕に注射針を刺し入れた。そうしてその辺りを強く揉むが、やおら表情を曇らせると、
「あれ、あれ、……おかしいな」
それから二度、別な場所に針が刺されたが、私は泣き出し、一向微睡まなかった。
ややあって私は移動式の台に乗せられ、手術室へ向かっていた。看護婦はあるいは医師の押していたほかに、母と父、兄がいた。恐怖より不安のほうが勝っていた。勉強中に片手で鉛筆を折りたくなるのに似ていた。他方どこかには、全身麻酔の手術を受けるので自分を英雄らしく思っている自分もいた。
室へ入ると、透明のマスク様の器具に口元を覆われ、その繋がった管から霧状のものが出てき、術衣が何人もい、私は眠った。
結局先ほどの甘い考えは、数時間あるいは数十時間ののちに打ち破られた。手術が終わり、手術室の外(実はそれも定かではない)で待っていた家族に囲まれているとき、ちょうど私の麻酔が切れたのだ。たちまち襲うのは激甚の痛みだった。身体の全部の神経が、重い鉄球で内部から砕かれようとしていた、本当にそう思った。このとき私は、ただ痛いばかりで何も知らないのだったが、後になって思ってみると、これは皮を裂かれ、血まみれの腕なる分断の骨を元の位置に直し、皮膚を繋ぎ留めた上で外から二本の針金を深く突き刺して覚束ないのを固定した、その痛みなのだった。
痛みが止んだ頃に、小学校の受持の先生が見舞いに来た。それから私は、私があの公園に行ったのはその日が初めてではないのだと、母より聞かされた。
「……まだ由雄が、二歳か三歳のとき、その公園ができて……。家族、みんなで。そうしたら、ローカルのテレビ局が来てて、由雄、ちょっと映ったのよ。川で、遊んでるところ……」
家族が帰り、落ち着いてくると、次第に周りのことにまで気がゆき始めた。夜だった。病室は八時に電灯を消す。六台あるベッドのうち、三台はそれぞれカーテンに覆われており、私を含めた残りの三台は完全に開け放っていた。ちょうど対の位置にいる同い年ほどの少年は、肘窩から細い管を出していた。隣のベッドは幼児で、カーテンより前に、鉄柵に囲繞せられているのだった。
その活発な少年とはすぐに打ち解けた。手術翌日の何もない昼、私は少年の臥せている横にい、柵のベッドを左手に見ていた。そうして自然な風で、少年へ腕の管のわけを訊ねると、
「ああ、これ。これは、これはね、修行だよ」
「修行……?」
私には彼が何を言うのか分からなかった。どう思えばよいのかも分からなかった。
「そう、修行なんだ。修行で、こうなった」
そしておもむろに蒲団を押し退け、長ズボンの裾をまくり上げると、
「これも、修行。これも修行。これも。修行、修行、修行、修行、修行、修行、…………」
下腿部に無数にある、赤や紫の傷を順々に指さして言った。少年の面は、それでも活発そのものであった。私の目は途中までその指を追っていたが、やがて向くのは幼児のベッドのほうだった。私はそれからもそちらをチラチラと気にしながら、次に自分が無茶してかなりの高さから墜落したこと、落ちた下に隙間なく組まれていた竹と竹の間に腕が挟まったこと、もう少しで救急車に乗るところだったことなどを話した。――
果たしてそれが発したのはその日の夜のことだ。消灯したコンクリートの廊下が冷えたように青白く、病室の中からだとそれだけだった。三つのカーテンは閉まっていた。私は厠に立った。どうしてだか、夜の病室で私がそれをするに、さほどの勇気はいらなかった。
廊下へ出ると案外なことに、そこには多様な色や音があった。人の影はないのにも拘らず。廊下の右手の先には橙色の灯りがぼんやり滲んで、反対側からは患者が車椅子を懇願する声が薄く漏れ出ていた。しかしやはり人の姿はない、私もそこへゆかない。その嗄れた声の主がどのような顔で、どれほどの症状なのか、私は想像だにできなかった。右腕が吊包帯に吊られているので、微量の尿が私のズボンや左手に飛んだ。
病室へ戻ったところで、少年は肘窩を押さえて身悶えしていた。私にはその彼と目が合うと予感されたけれど、一向合うことがないのが現実だった。……それを私が、平気で通り過ぎようとすると、
「あああ。ああああ――」
少年が突然呻き出し、それへ応じるように、しかし覚えずに、私は足を止めた。
「ああああ。痛い、痛いい。血が。血が逆流するう。あああ――」
この搾り出したごとき叫びを聞くと、私は寒心しないではいられないのだった。少年の味わう阿鼻地獄が、私へも一時に降りかかってくるようであった。彼は枕元のナース・コールの釦を、狂ったように何度も押していた。私は何かを悟った体で蹌踉とわがベッドへ立ち帰った。すぐに蒲団へ潜ると、反対の窓側を向いて目を瞑ったが、駆けつけた看護婦に必死で血の逆流することの怖さ・凄まじさを説く少年の声が鳴って消えず、やがて睡眠剤を投与せられたので少年が鎮まってからも、私のほうは眠れずに、先刻の少年の叫声が、ただワンワンと頭骨で反響していた……
私の入院は結局四日ほどだった。少年は私が退院するより前に病室からいなくなったが、詳しいことは知らない。
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