友人たちはそのうち辺りへ四散して、公園内はみるみる活気で溢れかえった。彼らがゆくのは「上級」だった。「上級」の櫓はひと際大きく、それが設置せられてあるのは公園のほとんど最奥であった。しかしそれでも材料は木で、金属の硬質な輝きは認められなかった。六メートルほどの櫓の上から、向かい側の公園の端まで淡く汚れた縄が届いている。縄の曲線は普通だ。櫓の出発口から三メートルほど下がったところには、竹で組まれた舞台のような平らな面がある。けれども舞台ではない。なるほど竹の組みは執拗で、それぞれ表面は円いのが隙間なく敷き詰められてあっても、例えば舞を舞うには凹凸が不安定だし、柵もなければ幕もない、まして客席などあるはずもない。客席などなくても客は見物できるし、客がいなくても舞台は存在し得るのではないか、と、考える人もあるだろう。しかし私には違う。舞台には客がつきものだし、もしやいないように見えてもどこかに客席ごと隠れている、そして演者はそれを鋭敏に感じ取るのだ。舞台とは、役者とはそういうものなのだ。ところがその竹の台には、客席が確かになかった。だからあれは舞台ではなく、舞台ではない何かなのである。(けれども、……ではそこに新たに客席が設けられたとしたら……?)見ているうちに上の口から飛び出したのは健太郎くんだった。「上級」の滑りは、下から見ても、「中級」とは明らかに異なっていた。小さい姿の健太郎くんが滑ると、やはり、長いロープが鷹揚にたわんだ。着地のとき、健太郎くんはわざと勢いづけて手を離し、Y字の棒を天高く飛ばした。健太郎くんはタイミングをはかってそれを避け、どうだと言うばかりに櫓のほうを見、そこに私はいなかった。

「上級」の櫓のさらに奥は、斜面が何故か抉られて壕みたいになっていた。私は皆が「上級」に戯れている間、そのほうへ行くことにした。Y字は武器庫にかけてきた。壕に行くには細い橋をひとつ渡った、小川があるのだから。しかし私は小川があったことを覚えていても、橋を渡ったことやそれがどのような橋だったかなど覚えていない。

 壕の奥は冷えた闇だった。私は入口付近でつと立ち止まった。固い土の壁は湿っていて、地面には枯葉が積もっていた。そこにいる時間は、おそらく甚だ短かった。壕に背を向けて小川のへりに蹲り、綺麗な水に手を浸けたりザリガニを探ったりしていると、

「由雄! 鬼ごっこ、やるか」

 友人から声がかかった。「中級」の着地点の辺りまでゆくと、皆がY字を持って集まっていた。鬼事にロープウェイを使ってもよいようであった。全員でをして、一度、鬼は一人で負けたその人に決まりそうだったが、その人の証言により裁判をする暇もなくもう一人の不正が発覚し、再度をすると、結句鬼はオオタくんに決まった。オオタくんは口元で笑いながら屈んで、すぐに顔を手で隠し、一秒ずつ数え始めた。

 健太郎くんを中心に、皆は真っ直ぐに「上級」の櫓のほうへ駆けた。オオタくんは、数え終えて顔を上げると、当然のようにそちらへ走った。私はY字を持ち出して壕だった。櫓から、ある者は綱を滑り、ある者は梯子段で下り、またある者は飛んだ。オオタくんは焦点を定められずにと見こう見、しかし嬉しそうであった。

 彼らが別々の場所へ散ったあと、私は、目前の櫓に上ろうとして何となく浮き立っていた。鬼事の中心はずっと向こうだ。木造の櫓は「中級」より断然高かったけれども、私がそこから滑り降りるまでに、さほどの時間はいらなかった。逆Y字の股をロープにかけ、飛び降りる・飛び出す、というよりは前へ歩いてゆく感じだった。綱のたわみ様が一入よく分かった。中ほどまではかなりの速度だったのが、地面がもうすぐのところまで近付いてくると何故か、自然に止まりそうなほど遅くなっていた。友人たちはどこかで追われ、追っていた。

 じきに私は、鬼が次々と変わっていっていることを悟り、再び「上級」の櫓へ上がった。そこから全体が見渡せた。健太郎くんが誰かを追いかけていたが、なかなか捕まらないので、不貞腐れたように俄かに両足を止めた。顔だけ動かしていた。そうしてこちらの方角を見ると思うと、途端に「上級」へ向けて疾駆し出した。彼と「上級」との間には幾たりかの友人がい、彼らはそれでみっともなく慌てて逃げた。やがて友人たちは、鬼も含めて、全部私の死角に入った。私は不意に、Y字を綱へ引きかけていた。綱の先や、騒がしいけれども見えない櫓の下など、見るべきところが分からず、視線が辺りを行き来した。梯子段を上る足音が近付いてきた。足音は明らかにいくつもあった。そのとき私はもはや大抵綱の先の着地点を見ていた、足音が、私のいる上までやってきた。Y字から片手を離し、上体をねじ曲げて後ろへ振り返った。とそれを私が見ぬ間に、誰か(それは鬼であっただろうか?)の手が私の背中を押した。おそらく本当に私は見ていない。片手だけで握ったY字の木は、束の間も安定を保てずに、真下の竹組の台へ私を墜落させた……

 時を経たせいで、私のその直後の記憶には、判然としたものがあまり少ない。右腕を下にして落ち、その私の周囲にはずいぶん大勢の人が集まっていて、そのまま横たえながら泣き叫んでいた私を、見知らぬ男性が抱えて公園の事務所まで運んでくれたのは明確だ。友人たちのことや鬼のこと、私が手放したY字のことは、何一つ知れない。

 これも木造の事務所には健太郎くんの母がいた。当時人々の意見は、概して救急車に私を運ばせるというものだったのが、その彼女により、救急車ではなく私の母親を呼ぶべきだと裁定が下されたそうだ。その場所には無論健太郎くんもいたことだろう。彼の母親と、私とがいたのだから。

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