戦陣訓
「砲撃やめェ!」
初射から30分足らず。
普通ならここから三日三晩は砲撃を続けて敵陣の完全な壊滅を狙うのが最新式のドクトリンであるのだが、皇國部隊は砲撃を中断した。
「……なんのつもりだ?陣地はまだ壊滅していないはず、だが」
首をかしげる英国の観戦武官たち。
彼らもまたこの極東の泥沼に価値観を打ち砕かれた将校であり、そして塹壕戦という最新のドクトリンを理解しはじめたばかりだった。
「見ろ、あれ」
「装甲車を動かす…?敵が壊滅していないにも関わらず??」
敵陣に黒煙が立ちのぼる中、装甲車が姿を表した。
「突撃開始!」
突撃ラッパとともに、発動機が響き渡る。
4個機甲聯隊を基軸とした装甲部隊が突破を開始。
「あのままだと迎撃を受けて終わりでは――」
ブワッ――…パァン!
次の瞬間、強烈な空振が英国軍人たちに襲いかかった。
「「!?」」
慌てて前線を見れば、ロシア陣地の奥深くで一斉に爆炎が立って沈んだ。
すぐ上に浮かぶ巨大な黒い影。なけなしの海軍用貫通弾を使った、砲撃陣地や敵指揮所への精密集中爆撃だということは、彼らが知る由もないことだが。
塹壕線に迫る機甲部隊。
まさかすぐ突撃に移るとは思っていなかったロシア軍が大慌てで機銃を回し、弾幕を張ろうと試みた。
結果、散発的だが少なくない機銃による迎撃が来る。
「日本軍は馬鹿か?」
「塹壕に正面から突っ込んでどうするつもりだ」
ぽつぽつとはいえど十分に熾烈な機銃の雨。
それを受けた装甲車の群団は、ぽろり、ぽろりと小隊ごとに離散していく。
「ほら、いわんこっちゃない」
「強固な機銃防御に対策無しで突撃とは…。自暴自棄にでもなったか」
彼らの言葉が終わらぬうちに、
猛々と突っ込んでいく装甲車の車列に生じたかに見えた綻びが、まるで花のように開いていく。
「…?」
それから花弁は、ひとひら、ふたひらと舞うように――陣地の脇を抜ける。
「なっ、なんだ」
「どうなってんだありゃ…!」
鈍重な弾幕を展開する陣地を避けて、まだ準備が整っていない陣地を、わずかな隙間を狙って、小隊単位で突破を掛けていく。
「そんな…、小隊単位で分散だと」
初射から30分経たずという攻勢。
ロシア軍は十分な準備時間を与えられないまま指揮所を破壊され、まだ弾幕を張りきれなかった陣地から順に落とされていく。
「まさか、新戦術?!」
「ばっバカなことを言うな、極東の三等国だぞ…!」
これまで一斉かつ旅団規模だった攻撃が、小隊ごとに行われていく。
塹壕ラインの隙間を縫って染み透る装甲部隊。続けて、そこを突破口になだれ込むのは兵員輸送車に飛び乗った焼撃兵や機関銃部隊。
「なぜ…非白人国家が、ここまで。」
その様は、まさに。
「「浸透…!」」
・・・・・・
・・・・
・・
「緊急電報、西部戦線からです!」
「読み上げろ」
「5月16日13時40分現在を以て、長春を制圧!
敵の指揮統制は崩壊し、敵は無制限に後退中とのこと」
「……東部戦線正面に動きは?」
「設営されていた野砲が次々と掩体壕から出され、輸送準備が始まってます」
「七三高地か?」
「はい、七三高地の砲台です。」
「っし、よくやったぁ!」
僕が拳を振り上げると同時に、伊地知が頷く。
「あとは任せろ」
「…もう大丈夫ですか?」
「舐めるな。これでも貴官より軍歴は長い」
僕は静かに東部総司令の徽章を伊地知へ渡す。
彼は厳かに徽章をつけると、電話機を全軍に繋ぐ。
「現刻を以て、指揮権は代行より返却された。
伊地知幸介陸軍中将――私が、東部防衛総隊の総司令を拝命する」
5月の初めに転属を承諾してから半月。
伊地知は、東部戦線へ到着するまで12日間、僕や旗手の晩生内がまとめた報告書や資料を読み漁って東部戦線の現状の理解を進め、実際到着してからの3日間は、寝る間を惜しんで東部戦線を一部隊ごと見て回った。
指揮の腕は確かだ。
安心して任せられよう。
「では……征って参ります。」
「ああ。行って来い」
司令室から去り、壕内を上がる。
総長地下壕から一歩踏み出した。
外気に触れるのは何週間ぶりだろうか。
「中央即応集団、召集完了しております」
肩を叩かれて振り返ると、そこには別海大尉以下、晩生内、雨煙別、そして『桜花』の大半が揃っていた。
大半、というのは――
「事前に伝えといた指令は?」
「既に通達してあるよぉー?」
「有能じゃんありがたい」
晩生内に感謝を示してから、彼女に代わって前へ立つ。
「西部戦線からの戦果報告だ」
電報片手にそう切り出した。
「西部戦線の攻勢開始とともに満州の敵重砲はほぼ全滅に近い損害を受けた。
……とはいうものの、どうやら重砲の9割がたを
皇帝命令21号のもと、全ての物資が最優先でウラジオストクへ回されて、後方の西部戦線がガラ空きになっていたようだ。なおそれすらも現場判断が多く、帝国極東軍は書類上の定数で戦況を把握していたそうだから、敵ながら笑えない。
「これに伴い、正面のロシア軍…特に七三高地の堡塁が大慌てで動き出した。東清鉄道を西へ向けて、貴重な重砲を全てハルビンへ送り返すのだそうだ」
危機的な状況にある西部戦線。ハルビンを失陥しては、東清鉄道が分断され、沿海州とモスクワを繋ぐ現状唯一の補給線が止まってしまう。
ロシア軍もなりふり構わずもう必死だ。
「さて諸君。敵重砲があの忌々しい掩体壕から出て、輸送待ちのあいだ間抜けな横っ腹を晒していると来た。ならどうするかね?」
「撃滅であります!!!」
やけに威勢のいい返事が響き渡り、どうしたものかと声の主を見てみれば。
「……!」
瞳をキラキラと輝かせた東條がいた。
つい先日までの反抗が嘘のように消え失せている。
(えぇ…、なんだあいつ)
その爛々とした輝きようは、見ていて気味が悪くらいだ。
気を取り直して少し咳払い。
「んっ、んん。…そのとおりだ。
一号作戦『大陸再打通』、その第1段階は、七三高地への強行着陸であり、無防備を晒す敵砲兵の電撃的な掃討、そこからの半島分断と逆包囲である。」
第1段階のコードネームは "
ウラジオストク半島を付け根から分断することで逆包囲し、敵補給線を完全に途絶せしめるこの作戦を、かの仁川上陸作戦に擬えたものだ。
「これには、この『桜花』機甲大隊から2個中隊、特殊歩兵大隊から1個中隊を抽出し、装甲車と兵員輸送車の混成総計84輌を強襲着陸させる。」
発想としては空挺戦車と似たようなものであり、来るなら海からだと思いこんでいる敵には想定外も甚だしい一手だろう。
けれど当然退路はなく、失敗すればその時点で玉砕だ。
「揚陸には
ただ敵はウラジヴォストーク攻防戦を通じて対空砲を随分消耗してしまっている。正面ならまだしも、掩体壕で空襲をいなせるように設計されていた七三高地にわざわざ対空陣地を展開しているとは考えにくいが。
「強行揚陸による敵重砲の殲滅と七三高地占領後、そこを橋頭堡にしてすぐに海上から第1空挺団以外の全『桜花』戦力と歩兵2個師団を送り込む。」
送り込む兵力はこの時点で2万。こいつで付け根を分断するわけだ。
「逆包囲の完了次第、第1空挺団はルースキー島の基地から発進してウスリースクへ降下。帝国極東軍司令部を引っ捕らえろ。」
作戦第2段階、極東ロシア全域の指揮系統の撃滅。
コードネームは "
「降下した第1空挺団の救出のため、我々は西へ反転してウスリースクへ向かう。」
そこからはもう言わずともわかるだろう。
本作戦で最も無謀と言われる最終段階、"大陸再打通" だ。
「事前指令どおりに準備を開始せよ。」
「「「ハッ!」」」
そう敬礼して散っていく『桜花』の戦士たちも、随分少なくなってしまった。
指揮を執ってきた者としての申し訳なさとか、謝念とか、いろんな感情が入り混じりながらその背中のひとつひとつを眺める。
ふと、つかつかと僕へ歩み寄る影を認める。
「総長閣下!」
「げ」
東條だ。
すると彼は突然僕の前で正座し、揃えた膝の前に軍刀を置く。
「あの折は、礼を失するばかりか、出過ぎた真似を致しました。
腹を捌いて赦されるとは思っておりませんが、どうかこの私を…!」
そう言いながら、本当に軍刀を抜いて切先を腹に当てるので、慌てて制する。
「ちょちょっと待て。何やってんだ東條お前、普通に怖えよ…」
「しかしながらあのとき働いた無礼は」
滴る鮮血。
既に刃は浅く皮膚を切り込んでおり、本気で切腹に及んでいたことが伺えた。
「貴官が切腹シーンとか僕に何の利益があるんだ、勘弁してくれ」
「では指を落としましょう」
「怖い怖い怖い怖い」
一寸たりとも動くなと厳命して留まらせる。
「いいか、僕は別に貴官が苦しむ姿を見て快感を覚えるような性癖の持ち主でもなければリスカで大興奮するようなメンヘラでもないんだぞ」
「りすか…?めん、へら?」
あーそうだ通じないんだよなこの時代。
「自傷はほんとに誰も得しないからやめろってことだ」
「し、しかし!皇國軍人たる者、ケジメを」
「そのケジメってのがおかしい」
「生きて虜囚の辱めを受けず。 海軍艦長さえ軍艦と運命をともにするのです!皇國陸軍将校たらんとせば、失態の責任を、死を以て償――」
「あのな」
額を抑えながら眉をひそめる。
「軍艦と運命を共に、だぁ?」
「……?」
「"生きて虜囚の辱めを受けず"? 冗談じゃない」
東條の顎を少し持ち上げて、さっと横顔の脇へ。
「自惚れるなよ、東條英機。」
耳元で鋭く言う。
「お前の死ごときが、何の足しになる。」
「?!」
「あー安心しろ。死ぬなよ!なんてお優しいセリフを吐いてやるつもりなんざない」
首相として、将来この国の正念場に立つことになるこの男へ、忠告するように。
「辱めを受けてでも生き延びろ。皇國と陛下への贖罪のために」
「え……」
「軍艦が沈めば次その戦訓を皇國の為に活かせ。虜囚となれば敵情を掻き集めて諜報に手を出せ。それが出来なくても、たらふく食って敵の補給を少しでも圧迫しろ」
「!」
「敗けたとしても復興の足しになれ。一日でも早く、一尺でも長く、道路を直せ。
喜べ東條。死より、生き残った年月だけ皇國に貢献できるんだよ」
「生き残るだけ、貢献…?」
東條が目を見開く。
死へ逃げるな、と笑ってみせた。
「泥水啜ってでも、生き恥晒してでも、陛下とこの国に尽くせ。
それが軍人風情にできる精々の償いだろう」
「償い……!」
東條は跳ね上がるように僕へと向き直る。
「仰るとおりであります!
"生きて虜囚の辱めを受けず"には、続きがあるんです…。」
「……え?」
「『戦陣訓』本訓、第二節8項「名を惜しむ」
"恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励してその期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。"
――私めの視野が全く狭すぎたのであります。
死に逃げることこそ罪過であり、生き恥と罵られども這い蹲って、なお現世にしがみつき、皇國に身を捧げてこそ、晴れて汚名は返上され得る。」
僕は思わず息を呑む。
「『戦陣訓』、だと…?」
おかしい。
"生きて虜囚の辱めを受けず"――この一節で有名な『戦陣訓』は、1941年、他でもない東条英機が総理大臣という立場から出した陸海軍将兵への訓令である。
まだ士官学校を出て間もない新兵である東條本人が、なぜそれを。
「先輩の銀時計組と、武人に必要たる訓戒を考案してみたのです」
銀時計組。陸軍学校は卒業時、成績優秀者の上から5名が陛下から直接銀時計を賜る。彼ら皇國屈指の秀才たちを指して俗に言うのが、銀時計組。
「訓戒、だと」
「はっ。大半は先輩がたの編纂なのですが」
なるほど。史実に記されてはいないが、『戦陣訓』はそこから出たのかもしれない。
歴史のトリビアだな。
彼は11位の成績で銀時計組ではないものの、先輩の、それも銀時計組から認められる程度には人格も才能もあるということだろうか。
「…待て。東條、お前もしや『戦陣訓』全部暗記してるのか?」
「当然です。軍人勅諭からも引用している以上、一言一句忘れはなりませんから」
当然軍人勅諭だって全て覚えています、と彼は続ける。
僕は顔をこわばらせる。
軍人勅諭の暗唱――昭和陸軍のあまりに非効率な詰め込み教育を、ずばり端的に言い表した実態だ。
しかし、東條の口から続く言葉は違った。
「ただ、これからは軍人勅諭も忘れるかもしれません。
他のことを覚えたほうが、皇國と陛下、そして
そう言い切ると、深々と頭を下げて、それから実に晴れやかな顔で立ち去る東條。
「なんなんだ、あいつ…。」
なぜ彼の中では、僕が皇國と陛下と一緒に並べられてるんだろうか。
掌一回転だけじゃ足りないくらいの態度の変遷に困惑して、近くで控えていた石原莞爾に問う。
「なんか変なものでも食ったのか?あいつ」
「…あいつ、心酔したらしいですよ」
なぜ。
そう聞くと、石原は全く別の問いを寄越す。
「本気で言ったのですか、あの言葉は。」
「?」
「"泥水啜ってでも、生き恥晒してでも、陛下とこの国に尽くせ。生き延びる限り、皇國と陛下への贖罪を続けることができるから。" ……あなたの言葉ですよ。」
僕は、何も考えることなく即答する。
「なわけないだろう」
「『小ルーマニアの楽園より、大ルーマニアの泥沼でこそ死にたいものだ』
……ルーマニアの元帥、イオン・アントネスクの言葉か。」
少しばかり回想。
閑院宮の声だったか。
「貴官の演説であのフレーズが出たとき、余は一瞬で感づいたぞ?」
「フレーズ、とは?」
「とぼけおって。"愛し故郷の焼け跡より"…の一節だ」
思わず空を仰ぐ。
新たな黒歴史爆誕の予感がした。
「元の名言をオマージュするなら、本来こうではないか?
――『敗戦国の楽園より、大日本の泥沼でこそ死にたいものだ。』」
「…、あははっ」
思わず声が出てしまう。
「敗戦国の楽園」か。
ありありと東京タワーや新幹線、摩天楼が思い浮かんでしまうあたり、僕と宮様が決定的に違う部分なのだろう。
「僕はそうは思いませんけどね」
「?」
「大日本の泥沼より、僕は敗戦国の楽園で死にたいです。」
何の躊躇もなくそう笑った。
だって、そこが故郷なのだから。
明治に来て、なにか変わるかと思ったけれど。
結局、僕は平成人を抜け出せなかったのかもしれないな。
だから僕は、息を呑んで固まる石原へと向き直る。
「東條にはアレが一番効く。先の演説もそうだ、士気高揚が目的でそれ以上も以下もない。覚えておけ。大衆を煽り動かすのに必要なのは演技であり、『劇場』だ。」
我ながら枢密みたいなことを言ってるなぁとは自覚しつつ。
石原はひとしきり黙りこくったかと思えば、口角を上げる。
「…やはりあなたは、最高だ。
そして最低でもある。」
くつくつと笑いごちて、彼は少しうつむいた。
「ふふ…。東條の気持ちも、わからなくはないな」
それはどういう――と訪ねかけてとどまる。
これは彼のひとりごとか。
ほどなく彼は顔を上げた。
史実の彼の面影とは少し違う。美形ではあるが、随分中性的な顔つきだ。
まじまじと見てみれば、むしろ女の子と言われても不思議ではない顔をしている。
けれど纏うオーラが、写真越しでも伝わる史実の彼とそれと同じなのは、どう説明をつけるべきか。
彼は一歩、前へ踏み出す。
それから背筋をピンと伸ばして、つま先を揃え、敬礼した。
「総長閣下。どうぞ、ご命令を」
そうして石原莞爾は、初めて僕のことを閣下と呼んだのだ。
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