一号

『さて、驚いてくれましたか?』


大慌てで取った受話器から聞こえたのは黒田清隆の声。


「驚きましたとも。なんですかあの電報は…!」


司令室に戻って目にしたのは、少し長めの電報。

ミュンヘン共同宣言と題打たれたそれに目を通して、愕然とした。


「まさかこれは――」

『ええ。全部終わりです。』


言葉も出ない。


『…と言うと語弊は出ますがね。かのミュンヘン会談にて合意された内容は、表面上は皇國への抗議声明でありながら――わかるでしょう?』

「……わかりますよ。全部」

『理解いただけたようで何よりです。』


そうだ。

この戦争の本質が見えていれば、もうわかってしまう。


『もはや、これ以上の戦争拡大は不毛ですらあります』


黒田の一言が重くのしかかる。


ミュンヘン会談にロシアが呼ばれていたなら、こんな鮮やかには行かなかっただろう。けれど、ミュンヘン会談は、当事者である日露を抜きに行われた。


司会者さんドイツが極東情勢に疎くて助かりましたよ』

「皇國への抗議声明、というお題目に食いついたんでしょうね」

『ええ。そこに、大英帝国がつけ込んだのです』


どうして大英は皇國を支援したのか。

同盟の情?

鼻で笑えるな、英国紳士がそんなものを持ち合わせているたぁ愉快な冗談だ。


あの老獪な三枚舌を回すくらいには、皇國を生かす利益が存在する。

だとしたらそれはなんだ?


「……極東における、対独牽制力」

『間違いありませんね』


黒田が笑う。


『皇國が敗ければ、大英帝国が思い描く対独包囲網の有力な候補を失い、英国は極東では単独でドイツと対峙することになりますから。』


英国はすでに鉄鋼生産で帝国ライヒと2倍近い差を開けられており、単独で対独戦争に踏み切れば敗北は必至だ。

戦力総量なら帝国ライヒと大して変わらないのだが、大英帝国の広大な植民地領域を単独でカバーすると必然、一戦線あたりの戦力は大幅に減退する。


だから複数国との同盟なしに、大英は帝国ライヒと対峙し得ない。


『大英帝国は、土地を犠牲に、包囲網を構築した。』


共和国を、イタリア王国を、ハプスブルクを騙し。戦略実利だけを攫っていくか。

実に老獪だ。


『それに、自動参戦条項を発動させないためには大韓帝国の外交行動を、すなわち外交権を――主権を否定する必要がありましたから』


参戦条項の適用外にする体裁づくりという流れに自然に組み入れた。

皇國枢密院は、見事にやってのけ――


いいや。


違う。


「…無併合、無賠償での?不可能でしょう!」

『ここで指しているのはロシア帝国との無併合・無賠償ですよ。革命勢力と講和する分には問題ありません』


じきに革命勢力は、労農赤軍も共和派もひっくるめて合流し、連立してロシア共和国を形成する。ロシア帝国が崩れ去るのも時間の問題だと黒田は語る。


『一ヶ月足らずで終わりますよ。…いいえ、終えなければなりません。』


黒田は言う。

さっさとロシア最後の希望をへし折り、講和会議に引きずり出さねばならないと。


『国家総動員体制とて皇國も、相次ぐ戦時増税と徴発に臣民が揺れています。これ以上戦争を長引かせるような予感を与えれば、暴動がおきかねません』


黙りこくる。なにぶん戦地に居るから内地の状況がわからない。

そういえば壕内に内地の新聞を埋めたな。プロパガンダを目に入れちゃダメだって、自制して。あれはもしかしたら、失策だったかもしれない。


『事実、与謝野晶子に代表される厭戦・反戦論調が雑誌を通じて広まりつつあります。何より、緑の革命のおかげといいますか、副作用と言いますか…史実に比べて都市の労働者が非常に多い。社会主義的反戦論の回りが早すぎます。』


戦争前に農作業効率に革命を起こし、農村の余剰人口を都市の軍需工場に突っ込む。

そうして半分ご都合主義なんじゃないかという勢いで完成した国家総動員体制が、ここにきて社会主義という毒を回す。

工場労働者層の飛躍的増加が原因だ。


『無産階級の影響力は史実と比べ物になりません。戦時というのに労働争議が頻発し、3月末には内務省が争議を処理しきれなくなりました。』


まずい。

巨大官庁の内務省すら機能しなくなるくらいに、革命の土台が浸透している。

完璧と思えた農業革命も、国家総動員も――こんな風に裏目に出るなんて。


『皇國にも、時間はありません。できる限り早期に、臣民の納得できる物語を用意して、戦争を締めねばなりません』

「物語、ですか」

『民衆は英雄譚が大好きですから』

「認めたくはありませんが…仰るとおりです」


『――"バルチック艦隊の撃滅"。』


背筋に嫌な寒気が走った。


『物語としては最高でしょう。あとは、十全な講和を引き出すのみ』


枢密院としては、そういう着地のルートを描いている。

そう僕に伝えることがあの電報の目的だ。

いわば、僕への警告なのだ。


『ですから、ご留意ください。

 万一厭戦感を臣民に与えれば、内地で革命が起きかねないということを』


下手な戦線拡大に出るな、という釘刺し。


『どうか眼前のに集中ください。ご武運を』


有無を言わさず、電話線の先がガチャリと鳴る。

僕の受話器からは虚しく、ツー、という通話終了のブザーが響くばかり。


「……バルチック艦隊、か」


反芻するように呟く。

どうもその言葉に悪寒がする。


「バルチック艦隊、ですか?」


後ろで控えていた別海大尉が、首をこてりと傾げる。


「ああ。もうマラッカ海峡を回った頃だろう。もうそろそろ聯合艦隊が――」


"聯合艦隊"。

その単語を聞き入れた瞬間、目をかっぴらく。


「ッ………!」


最悪の事態が脳裏を掠める。

悪寒の正体はこれか。

すぐに頭をブンブンと振ってその妄想を消し飛ばした。


違う。

彼が敵と内通している証拠はない。

戦時中もしくは開戦直前に不審な出国をした形跡もない。

全て消されているか、そもそもか。


「司令…?」


別海の声が部屋に響く。

そうだ。この悪寒の正体を立証できる要素はない。



「……でも」



けれども、それが現実になれば――


敗戦ゲーム・オーバーだ。




「別海大尉。」

「はい!」


少し震えた声ながらも、しっかりとした返事。

変わらない別海睦葉むつはの芯に、少し安心を覚える。

そうだよな。


「晩生内総長代行、雨煙別戦務参謀、総隊参謀部、以下全師団長を呼べ。」


ここで意地を見せねば、向ける顔がない。

逆境が何だというのだ。


「なにをなさる…おつもりですか」

「作戦を立案する。」


どうすればいい?

なら物語それ


「電探による早期警戒システムを撤去。計算機とともに桟橋へ運び込め。」


「っ……」


大尉の顔が陰る。

きっと脳裏にその二文字が浮かんだことだろう。


「撤退なさる、おつもりですか」


そうだよな。普通はそう思うだろう。

けれど違う。むしろ真逆だ。


「撤退?まさか。」


鼻で笑う。

ここまで粘っておいて引き下がるなんて、できるほどの理性が残っているなら、こんな戦争とっくにやめている。


「なら、何を――!」

「ルースキー島に運び込むんだ。」


僕らで決戦を掛ける他はないから。


ドボドボと下水道を洗い流す雪解け水の、けたたましいせせらぎを背に。

反撃の決意が双眸に灯る。


「オペレーション "蕗ノ薹ハルヲマツ"、最終工程・


あの忌まわしき大戦を思い返す。

失敗だらけの残酷な悲劇の、その末期に、最後の成功を収めた作戦。

帝國ていこく』最期の勝利キセキの名に、願いを掛けて。


「名を――…『一号』だ。」









乾いた笑みとともに、静かにその名を呟いた。

小さな病室は少し暗くて、そこに横たわる銀色の若娘は、どこか幻想的な絵画の様を 彷彿とさせる。


「あれから2週間、小銃片手に煮詰めたよ。」


もう4月も終わりに差し掛かった頃だった。


「総隊も、即応集団も、参謀部も。頭突き合わせて考えて、絞り出した結果がこれなんだ。…許してくれ」


きっとまた、僕は枢密院とすれ違う。

どちらが正しいかなんてわからないが、一つだけ確かなのは、僕はそれに陸軍将兵16万の命――いいや、皇國の命運さえも巻き込む、ということだけ。

誰に詫びればいいのやら。


「ほんとは起きてる時に会いたかったんだけどね」


氷雪の妖精の眠り顔は、思わず抱きしめてしまいたくなるほど可憐だけれど、きっと起こしてしまうだろう。


「時間が取れなくて」


触れることなく、ただ病床の側に座って語りかける。

軍医曰く、意識はとっくに戻っていて、今はリハビリを始めた段階なのだそう。敵が総長地下壕に切迫したあの日も、自力で病院壕から避難していたらしく、傷の全治については疑いようもないだろう。


「これが多分、決戦前の、最初で最後の対面だから」


雪解けでロシア軍の攻勢が鈍くなっても、相変わらず攻防戦は綱渡り。そんな中

で漸く割けた時間はたった一日きりで、こんな深夜の十分程度だった。

まぁ起きてるはずもない。そこについては予想はしていた。


立ち上がって席を外す。

病室の表に立てかけてきたソレを取って、戻ってきた。


「砕け散ったのがきっさきだけだったのは、幸いだったな」


病床の脇に据えるように、その長槍を置く。


「あの檻の中に落ちてたひときわ大きい槍片を拾ってきて、指揮や戦闘の合間も、時間を縫って研ぎ続けたんだ。…そのせいで前より一回り小さくなってるけど、そこは勘弁してくれ」


槍先に皮袋を被せる。寝返りでも打って槍先に刺さったら洒落にならないからな。


「柄の木はルースキー島に生えてるのしか持ってこれなかったけど、仮にも亜寒帯の強木だから、すぐ折れるってことはないと思う」


彼女が寝ているのを承知で喋り続ける。

けれど時間はあっという間に過ぎて、終わりの時間が来た。


立ち上がって、一文だけ槍についてトリセツと言うか、簡単な走り書きを残す。


「要らなかったら捨ててくれ。これは詫びというか…自己満足みたいなもんだから」





ガチャリ、と扉が閉まる。


独り残された裲花は、ずっと堪えていた息を吐き出して、瞳を開く。


「――っ!」


側に置かれた長槍を無我夢中で抱きしめた。

そうしながら、自分の頬に両手を当ててみて、焼けるように赤くなっているのを自覚する。


「あつい…」


高鳴る鼓動を抑えながら、裲花は薄桃色の唇に指を当てる。

それから、槍にしがみついたまま、勢いよく布団に潜り込んで。

くぐもった声で、裲花はこう漏らした。


「…ばか」

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