焼け焦げた松花江
明治38年1月15日 ハルビン
「せ…戦線は、一部を除き順調であります!」
「我が部隊は朝から何百メートル前進した?」
「にひゃ…240mほどであります!」
「……朝からの損害は?」
「戦死5016…、戦闘不能2万4797…であります。」
グリッペンベルク総司令は、拳を強く握りしめる。
「…下がれ」
「はっ!」
伝令は逃げるように司令室から退出する。
腰を浮かせてグリッペンベルクは、電話機へと手をのばす。
「―^―-…こちら帝国極東軍総司令。」
『こちら陸軍参議会。その声はグリッペンベルクか?』
「っ…は!グリッペンベルク大将であります」
『元気そうで何よりだ。戦況はどうだね?』
「――…ッ」
グリッペンベルクは一瞬、言葉を詰まらせる。
しかし、すぐにめいっぱいの笑みを彼は創り出す。
「じゅ…順調であります。わが勇猛なるロシア帝国陸軍は、蛮族どもに猛攻撃を加え、戦線を確実に押し上げております」
『くくくっ、実に結構!』
ペテルブルグにつながる電話線の向こうにて、元帥はいかにも満足げに笑った。
「しかし…物資の不足が否めず――」
『何が不足しているだって??』
「…っ、物資、戦力、時間…」
『何が不足しているだって???』
先程より強い口調で、彼の進言は遮られる。
『もう一度聞く。何か不足しているのか?畏れ多くも、皇帝陛下の軍隊に??』
「…――ッ!」
グリッペンベルクは今度こそ、返答に窮してしまった。
『まさか、黄色い劣等人種相手に不足があるなどと…ロシア帝冠の軍隊を不当に貶める侮辱を…貴官たる者が、するわけがないわな?』
「…はい。戦線は…実に、順調であります。」
『ふっ、私の聞き間違いだったというわけだな』
電話線からは、元の笑い声が戻る。
『まぁなに、心配するな。一週間後にはそちらに援軍が届く。』
「…はっ。」
『戦線は実に順調。何ら問題はない――そう、皇帝陛下とラスプーチン閣下にはご報告しておかねばな。きっとお喜びになるぞ、お二方は。』
「仰る…通りです」
『皇帝陛下の一喜一憂は貴様ら前線将兵に掛かっているのだ。期待しておるぞ。』
「はい。全ては…ツァーリの帝冠のために。」
ガチャリ、と一方的に通話が切られる。
震える手で受話器を戻すグリッペンベルクに、冷たい視線が注がれる。
「戦線は実に順調、か。」
隣で壁にもたれ掛かるクロパトキン第2シベリア軍団長が、彼の言葉を鼻で笑う。
「…そうだ。」
頬を引きつらせて、グリッペンベルクは呟く。
「我々は、昨日より確実に前進しているのだ。だから、進撃は順――」
「川が、赤いな。」
クロパトキンは窓の外を見下ろして、グリッペンベルクの言葉を遮った。
ハルビンの市街地を流れる川という川が、赤色に染まっていた。
「……ッ!」
このハルビンは松花江の下流に位置し、水はここからアムール川へと注いでいく。
そこを流れる水の全てが、鮮やかな赤色であった。
「上流は、さながら地獄か。」
松花江の河水は、3日ほどで紅く濁った。
生臭い、焦げた鉄の匂いを沿川へとばら撒いた。
松花江の下流にあたるハルビンでも、川の水が真っ赤に染まったのだった。
その様は否応なく、帝国極東軍総司令部に前線の実情を突きつける。
「伝令が何を言おうと、街の川が濁ってからは一日たりとも、元の清流の色に戻ったことはない。」
「……だから何だというのだ。蛮族どもの血かもしれんだろう。」
「我々が渡河を仕掛ける側で、我々の兵士が川を渡っているはずなのに?」
グリッペンベルクは握り拳を震わせる。
「あり得ない…!」
クロパトキンは溜息をつく。
「歴戦の中央アジア軍とて、『蛮族征伐』が出来ないと?」
「……黙れ。蛮族にしてやられたのは貴様ら旧満州軍とて同じだろうが」
「ああ。だから――結局お前は、私となんら変わらなかった。」
悔しさに息を詰めるグリッペンベルク。
「大愚か者だ。貴様も、私も。」
蛮族と舐め腐ってこの末路。
二人仲良くツァーリの帝冠に泥を塗れたな、と彼は自分ら二人を嘲った。
「我々の戦力規模は現在、総勢50万人強。敵軍の2倍以上。
にもかかわらず――反攻一週間で、半数が溶けた。」
死傷者22万人以上。
前進距離は4km。
敵陣地まで残り11km。
「どうする?このまま数で押し切るか?…単純計算ならあと3週間で、もう66万人の死傷者を積めば敵軍の陣地にありつけるぞ。」
「――
グリッペンベルクは机上に拳を振り下ろす。
「ならば。ならば貴様なら…この状況、手を付けられるとでも…!!」
クロパトキンは肩を竦める。
「まぁどうしようもないな」
「ならなんだ、残存28万の戦力を引き連れて白旗を掲げて投降しろと?」
「朗報なことに連中は陸戦条約を最大限遵守しているらしく、降伏兵はマツヤマで不自由のない生活をしているらしいな」
「この敗北主義者め…!」
「だって事実そうだろう?祖国に勝ち目はない」
衝動に任せて、グリッペンベルクはサーベルに手を掛ける。
皇帝陛下の治める祖国に希望はないと言い切ったのだ。この場で斬ってやろうと引き摺り上げられる彼のサーベルは――クロパトキンの続く言葉によって、止められた。
「――昼間の軍事行動にこだわる限りは。」
「…どういうことだ?」
手を止めてグリッペンベルクは問う。
「敵軍は飛行船による観測と精密な火力投射によって、前面から順次我軍を消し飛ばしてきた。連中の強みは――"全てを見抜く目"だ。」
上空を通じて、敵の高度に管制された防衛指揮システムが我らを一方的に喰らうのなら、その知覚を潰してやればよい。
そうクロパトキンは笑う。
「連中の視界を完全に潰せる
「なるほど…。」
みるみる憤激が引いていくグリッペンベルク。
澄み渡るようになってきた思考を、クロパトキンの発言にリンクさせる。
「夜間…強襲、渡河…か。」
「夜襲で一気に衝撃力を与え、敵の強固な防衛線の一角を崩す。そこから我らが武器の人海戦術を使い、後方へと浸透する。」
「……全攻勢を一時的に停止せよ。3日で戦力の再配置を行う。」
「はッ。」
クロパトキンはしっかりとそう返答する。
「やる価値はある。…夜襲だ。」
・・・・・・
・・・・
・・
「敵軍、前進を停止…!」
「…なんだと?」
「攻勢限界か!?」
「んなまさか、連中にはあと28万以上の稼働戦力が残ってんだぞ!」
管制室に飛び込んだ一報が、指揮本部へ微震を走らせる。
「なぁ乃木、これはどういう…」
「わかりませんね、大山司令。敵軍がどんな一手を放ってくるか…。」
乃木は静かに溜息をつく。
「敵がこれからどう出るか、見ものじゃないか」
児玉源太郎は面白げに口角を上げた。
彼はおもむろに立ち上がる。
「少し外す」
そう言い残して彼は廊下へ去っていった。
・・・・・・
食べ終わったカップラーメンを屑箱に捨て、腹腔に染み渡る暖かさに僕は、安堵の溜息をつく。
「羊毛繊維の防寒装備が功を奏したな。反攻開始後、凍傷で運ばれた味方兵は…サウナのあとに雪上で寝っ転がって寝てたバカが2名ほどか」
それ以外はほぼほぼ寒さによる戦闘不能を出していない。
なにせ独ソ戦期ソ連軍を参考に、無鋲の防寒長靴を二重底にして新聞紙や藁を詰めたり、羊毛外套や防寒帽を装備。高カロリーのカップ麺で極寒に強いられる急速な体力消耗を埋めている。
疫病も問題はなく、森鴎外が皇國文学賞を取るために忙しく軍医本部にいないため、少なくとも脚気で倒れ伏す兵士は見られない。
「やっぱカボチャと人参とブロッコリーと玄米食ってりゃ栄養素に不足はないってはっきり以下略」
凍傷と脚気で苦しむ史実の有様は、完全に回避している。
しかし。
寒さで苦しみだしたのは、設備のほうであった。
「少々…想定外が起き始めたか」
まず1つ。
満州における鉄道補給線に陰りが見えてきた。
汽車の車軸油があまりの寒さに凍結。
ポイントが同じく凍結で機能不全に陥り、故障。
「出光佐三が飛んできて2号耐寒油を供給してくれたから車軸油はどうにかなった。ポイントは…とりあえず十河に連絡取って、史実・東海道新幹線で使われた関ヶ原式スプリンクラーで融雪対処して、解決した」
しかし、鉄道回りでまだまだ不具合は起きていくだろう。
腕木式信号機が凍結したとかホッパー車が動かないとか、考えられる可能性だけでも無限にある。
「補給線はまだ十二分に稼働してるけど…、これから敵軍の攻勢が強まるとしたら、破局的な寸断が起きてもおかしくはない、か。」
これもふくめて、南へ戦線を下げる必要が出てくるな。
さらに、重砲などの重火器にしばしば異常が発生している。
松花江ラインの主防衛力となるこれらが使い物にならなければ、致命的だ。
「史実の独ソ戦はこれが原因で敗退していったからな…」
氷点下になると金属類は耐久性が減衰し、作動中に装備が破損する可能性がある。
東部戦線の冬季、ドイツ軍の小銃や機関銃などの武器類が精巧複雑だったため、凍結のために故障し射撃できないことが多かった。かたや敵であるソ連軍の武器類は粗雑ながらも簡単な構造のため故障は少なかったという。
「まぁ小銃のほうは大丈夫か。なにせこの三二式歩兵銃はたったの5部品だ」
スペックこそ第一次大戦期並であるものの、超簡略構造で、どこか凍りついても兵士個人でバラして溶かせる。部品の互換性あるので最悪は交換してしまえばいい。
個人携行火器の防寒は十全だろう。
「問題はやっぱ…、装甲車か」
ゴムは氷点下10度を下回ると伸縮性を失い、潤滑油も凍結し、バッテリーの出力も低下する。
潤滑油については、史実、全満にその名を轟かせた出光の2号耐寒油がカバーしてくれるであろうがしかし、ゴムの伸縮ばかりはどうしようもない。
解決手段はゴム輪の無限軌道化しかなかろう。
「総動員体制で全力で国内から履帯付きトラクターの履帯を徴用しているとは言うけど…」
正直、冬季用履帯を履かせなければこの満州では使い物にならない気がする。
冬季用履帯については1942年冬のドイツ軍のヴィンターケッテを参考に、兵器整備部へ国内から届いたトラクター履帯を改造しておくよう進言はしておいた。
しかし、なにせ現地生産だし皇國クオリティだ。
量も質も、あまり期待はできないだろう。
2月に向かえる最厳寒で、氷点下20度を下回るであろう
「装甲戦力が使いモノになるのは…、1月一杯までだな」
2月に破却的展開を迎えれば、皇國から勝機はなくなる。
1月中に、可能な限り敵軍の戦力を削っておかなければならない。
深まる満州の冬が、皇國陸軍へ牙を剥く。
「よう、達者みたいだな」
その声に、ふと振り返る。
「……児玉総軍参謀長。」
誰に声を掛けられたかと思えば、総軍参謀長閣下であった。
「敵軍の一斉反攻が停止したことについては知ってるか?」
「存じ上げております。」
「どう見る?」
僕はしばし唸る。
「…まぁ、まず戦力限界に達したなんてことはありえないでしょう」
「普通に考えればその通りだな。ならどう捉える?」
「戦力の再配置、ですかね。今までの脳死突撃じゃぁ松花江を突破できないことにやっと気づいたんでしょう」
「敵軍は次期作戦を形成中、と」
児玉は少し意地悪げに僕を試す。
「敵の次期作戦、どうなると思う?」
「そりゃさすがにわかりませんよ。僕が敵の総司令官であればと考えても、現実性のある対処の方法なんて多岐に渡りますから」
「ふむ」
「…しかし。この一週間で22万という膨大な犠牲を払ったという衝撃に、ロシア軍全体が揺れているのだとしたら、予想がつかないわけでもありません」
思考回路をフル加速させる。
皇國陸軍は連中にどの種類の衝撃を与えた?
連中はそれに重点を置いて対策するだろう。
ならば、それを踏まえてどの方向から敵は動き得る?
こちらの想定外を、敵はなんだと思う?
そこから、どのような一撃を放ってくる?
持てる限りの知能で、可能性という可能性を限界まで突き詰める。
「……上空。」
空からの観測が、我々皇國陸軍最強の偵察手段。
対空武装を持たないロシア軍最恐の強敵。
なら、それを凌ぐためにどうする?
煙幕を炊くか?
いや、そもそも人海戦術で攻め入るのに煙幕を炊いても意味は薄かろう。煙幕あるところに砲弾打ち込めば、下の人海に当たるのだから。
「少数浸透…?いや、それも妙だよな…。」
ロシア軍が数的優勢を捨ててまで踏み切るとは思えない。
ならどうやって飛行船の目から凌ぐ?
どうやって、上空という視界を塞ぎにかかる?
「……濃霧?」
いや、それではまとまった時間が確保できない。
まとまった時間で、我々の視界を奪える方法。
「ッ――…夜か。」
「……ほう?」
児玉がクツリと笑った。
「夜襲…、そんな気がします。」
「くくっ、なるほど。」
彼はその答えを訊くなり、歩み出した。
しばらく行って、振り返らずに僕に問う。
「対策は?」
「すでに出来ていますよ」
嘆息げにそう返す。
そうだ。
ロシア軍は皇國陸軍を、強力な視界の持ち主だと刻みつけられた。
上空という絶対的支配圏から一方的に補足する悪魔だと。
だから、その視界を極端に狭める方法を模索し――、夜という答えへ至るだろう。
だが、そうだとしても間違いだ。
連中は重大な勘違いをしている。
いや――…知りようがないから、勘違いですらないのか。
皇國陸軍の視界は、太陽光によるものだけではない。
電波空間という異次元に――絶対的な支配を確立しているのだ。
去っていく児玉に、僕も足を一歩踏み出す。
廊下角の電話機から受話器を取り、即応集団本部へダイヤルを合わせる。
『―^―…-…はい、こちら "桜花" 司令部』
「僕だ。」
『っ、総長さん?』
「その声は晩生内准尉か?すまん、雨煙別中尉に代わってくれ」
『は、はいっ!おーいリューリ、呼ばれてるよお!』
電話線の向こうでしばしドタドタと聞こえた後、声が切り替わる。
『…はい、雨煙別です』
「戦務参謀、電探を稼働させてくれ」
『了解』
長く会話を続けるのは彼の性には合わなかろう。
手短に通話を切って、電波戦の火蓋を切らせる。
きっと、これがこの冬最後の機甲戦力の見せ場になる。
ここでどれだけ敵戦力を粉砕出来るかで、戦争の行く末が決まる。
僕は、壮烈無比の覚悟で呟いた。
「さぁ…、第二ラウンドを始めよう。」
―――――――――
あけましておめでとうございます。
思えばこの小説を投稿してから1年、旧版も含めれば3年になるんですね…。
本作も今回の話でちょうど100話目。ここまで読者の皆様に大いに支えて頂きここまで至ることができました、昨年一年間、本当にありがとうございました(遅い)。
というわけで本年も、作者と拙作をどうぞよろしくお願い致します…!
占冠 愁
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