奉天廻旋
「荷物搭載はあとどれぐらいで終わる!?」
「の、残り30分!」
「駄目だ、もっと早くしろ!時間がないんだぞ!」
あれから20分、総司令部は意外にも統率が取れたまま、司令部地下の秘密操車場へ荷物を投げ入れていた。
「く、クロパトキン司令閣下!」
「なんだ?」
「使者側より通告、『交渉長期化を我々は望まない』とのこと!」
クロパトキンは笑う。
「くくっ…、何度でも返せ。『貴軍側の条件では民間人の避難と保護が不十分であるため継続討議を望む。それとも貴国は陸戦条約を無視するつもりか』、だ」
「了解。」
彼は先陣きって貨車に次々と機材を運び込む。
「戦闘詳報は一つ残らず回収せよ。戦闘計画も機材も全部捨てるな。すべての機能を保全したままに、だ。」
「「はっ!」」
司令部要員を総動員した人海戦術で次々と物資が貨車を満たしていく。
・・・・・・
「やけに陸戦条約に拘るな…」
苛々と腕を組む手先をトントンと動かす。
「陸戦条約を守る姿勢を
先年批准されたばかりの『陸戦条約』。文明国として認められるには、皇國は多少無理をしてでも絶対遵守し、その姿勢を対外的にアピールしなきゃならない。
(敵対し合う両国ともに、か)
そんなことを考えつつ、時計に目を落とす。
「だが、いつになったら降伏するつもりだ…。電撃戦の真っ只中だぞ、あまり時間を食われるのはよろしくな――」
時間稼ぎか?
脳裏にそんな疑念がよぎる。
(待て…冷静になれ。こんなことで稼げる時間はせいぜい1時間程度…電撃戦を止めるには一塵ほどの足しにすらならん。たかが1時間で出来ることなんて――」
徐に、その続きが途切れた。
絶句だ。
どうして気づかなかった。
「……
「は、はぁ。」
通信隊が通信車へ駆けていき、暫くして戻ってくる。
「返答、『徐々に騒がしくなってきている。俄に線路側の城門を出入りしたり周辺で作業をする兵員が増えてきた』、と。」
「ッ!」
仮本営に走り、その机上の地図を叩きつけるように両手づいた。
奉天の少し南に外れた丘陵に印がついている。ここが、戦闘団の布陣位置だ。
奉天城には敵総司令を示す駒が置いてある。
僕はそれに手をかけた。
「しょ、少佐殿…何を」
いつの間にか追いかけてきた別海中尉を横目に、勝手に駒を動かす。
奉天から伸びる鉄道線を、北へ、北へ。
四平、長春、その先に至るはハルビン。
ハルビン。東清鉄道で東はウラジオストク、西はイルクーツクに接続する植民都市。この街から放射状に、満州全土へ鉄道と補給路が伸びる。
全兵站の最根幹。
直接本土へ接続する都市。
満州を東ヨーロッパ平原で例えれば、地理的にモスクワの立ち位置だ。
「そういうことか、クソっ!」
ガン、と僕は机を叩く。
「少佐、殿…?」
「総軍本部に連絡!『敵軍脱出の兆候あり。攻撃の許可を!』」
その一言で天幕内に激震が走る。
「…っ!」
「ぁ――」
「ッ、通信班急げ!」
下士官たちも、全てを察したのだった。
忙しなく人員が駆け出す。
「そ、総軍より返答!『陸戦条約の取扱に関する判断は外交的判断なり。一介の総軍には判断しかねる。大本営に指示を仰ぐ』」
「ぐ…、時間がないのに…!」
腕時計に目を落とす。
露軍はすぐにでも全機材を貨車にぶちこんで脱出するつもりだ。
司令部の地下に機密の軍用貨物線が埋め込まれていたと考えて妥当だろう。
はじめから準備されていた芝居。
僕らは貴重な20分を踊らされ、溝に捨てたのだ。
ギリギリと奥歯を噛み締める。
「城内への砲撃準備!諸元入力、仰角調整!いつでも撃てるようにしろ!」
「りょ了解!」
すると、通信兵が通信車から駆け戻ってくる。
「へ、返答!『陸戦条約は細心の注意を払うべき要項にて、戦争に臨む皇國の面目でもある。これを軽視することは許されぬ。この交渉中における攻撃は決して許可しない。粘り強く交渉を続け合意を成すは、現場の責務也。
発・枢密院戦争指導部/大本営特派隊 宛・満州総軍』、とのこと!」
「どうしてそこで枢密が出てくるッ!!」
ダァン、と拳を叩きつけた。
何が『合意を成すは現場の責務なり』、だ。相手は時間稼ぎに交渉やってるんだ、議論の末の改善なんか一ミリも求めちゃいないんだから僕らと合意なんてする気などさらさらないのだ。
「クソっ!露軍総司令部に最後通牒を送れ!」
それでも。
荒ぶる震えを抑えて、どうにか指揮を続けねば。
「『YESかNOかで回答せよ。3分を過ぎて回答なき場合、決裂と見做す』、だ!」
これならば。
これならば、交渉決裂とみなせる。
ハルビンに逃げられたら、地獄の消耗戦に引きずり込まれるのだ。
「なんとしてでも逃がすわけにはいかない――!」
―――――――――
「…よし。城に火を放て。」
「了解です。」
最後まで地上に残った数人のロシア兵が城内へ放火する。
その土壇場で、伝令が転がり込む。
「使者より通告!『YESかNOかで回答せよ。5分を過ぎて回答を出さない場合、降伏拒否と見做して総攻撃を敢行する』と――」
口角を少し上げて、クロパトキンは。
「もう遅い。」
煤煙が上がる。
機関音が響く。
「交渉役の
「は、はぁ。」
「速やかに列車を出せ」
「……!はッ!」
汽笛一声、奉天を。
クロパトキンは拳を握りしめ、精一杯に不敵に笑う。
「出発、進行だ――。」
明治37年7月8日午後6時。数百門の咆哮と共に崩壊し、燃え上がる奉天を背景に、東清鉄道京浜線の撤退列車はハルビンへ向けての逃避行を開始した。
ロシア満州軍総司令部、甚大な損害を出しつつも奉天脱出に成功。
―――――――――
「城内は…もぬけの殻、だと……?」
通信隊からの報告を受け、そう愕然と漏らした。
「…はい。突入先鋒の部隊からの報告です。」
申し訳無さそうに、ともすれば後悔を含んで逓信少尉は目を逸らした。
「分隊が秘密壕と思われる地下への隠し口を発見したようですが、既に爆破され崩れ落ちているようです。他の階層はまだ火が強く立ち入れませんが…」
彼は唇を噛み締めながら報告を続ける。
「残留品は」
「司令部機材と各種資材、戦闘詳報や機密書類の一切合切を持ち去った後、念入りに部屋の焼却処理までされてます。今も火が止まず、立ち入りさえ難しい状況です」
「くぅ…ッ!」
果たして、間に合わなかった。
3分の後、案の定沈黙を貫いた奉天城に砲撃が降り注いだ。
間髪置かずに装甲車集団が秋山好古を先鋒に奉天へ突入。司令部建物を制圧した。
されどその中は、既に誰もいなかった。
「司令部を逃せば、敵の指揮系統は死に至らない…っ」
敗走する敵軍に理性が残るなど致命的だ。
露軍の『計算された』撤退戦など、悪夢そのものである。
「敵軍に頭が…それもこんな、土壇場で見事な脱出劇を披露してみせるような、切れる脳があれば、以降の電撃戦で包囲されかねない…!」
奥地を露領まで突き進むのだ。戦闘詳報も配置記録も、ついでに沿海州にある無傷の戦力を残した総司令部なら、突出した攻撃特化戦力を分断、各個撃破することなど容易いだろう。
最大限分かりやすく、最悪の形で言い表すならば、かのナポレオン戦役だ。
「総司令部の撃滅なしに、本作戦の継続は不可能だ。」
即座に決める。
ここでどうこう言ってる時間などない。
幸い、露軍総司令部の逃走路と戦闘団の進撃路は長春まで一致している。
露軍は長春からも東清鉄道に沿って、満州の戦略要衝たるハルビンまで撤退する。
戦闘団は長春から東の長白高原を貫徹し、露満国境のハンカ湖に躍り出る。
すなわち、長春までに捕捉できればどうにか収拾がつく。
作戦に大きな破綻をきたさずに済む。
「行くぞ、追撃だッ!なんとしてでも叩き潰せ!」
今ならば、まだ、まだ間に合う。
「タイムリミットは敵司令部が長春を過ぎるまで――」
「少佐殿!」
遮って、通信兵が飛び出る。
何事かと問う前に彼は叫ぶ。
「長春までに捕捉は不可能です、航続限界です!」
「は…、ぁ?」
「発動機を酷使しすぎました。最低4時間は休息の必要があります…!」
「……嘘だろ」
言葉が漏れた。
「ッ、不味い!速やかに陸軍航空隊を出せ、なんとしてでも探し出して撃滅――」
「こ…これまでの電撃戦に飛行場の設営が間に合っておりません!航続距離的にも、夜間航行能力的にも限界があります!」
「馬鹿、な……。」
打てる手が、
「全て計算されていた、だと?」
愕然と、膝から崩れ落ちる。
露軍総司令は論理と知性の上に計算し尽くし、この撤退を演じきり。
この破局的な戦況で、露軍総司令部は見事なカウンターを叩き込んだのだった。
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