五章 稲穂は流氷に揺れる
不覚
明治33(1900)年1月末 帝都
「さて今日も労働!労働!個性豊かな仲間たちがイキイキ働く職場へレッツゴー!」
僕は上機嫌で帝都下町を闊歩する。
しかし、長江三角州の特需に入ってからというもの、ここ三河島の下町も随分とにぎやかになったものだ。
(かつての田園風景よどこへ…)
鐵道省幹線となった常磐線の通るここ三河島村から千住村にかけての一帯は、帝都からすぐの距離にあるため軍需・民需問わず工場建設にはうってつけ。
東京湾に注ぐ大動脈・荒川に面する隣の千住村が工業団地に指定され、下関条約で得た7000万圓の産業資金うち数百万圓(史実の八幡製鉄所建設資金はたった58万圓ほど)という莫大な資金が投下され、田園に次々と紡績工場が建設されていった。
長江三角州をまるまる勢力圏に収めたことで、猛加速をし始めた第一次産業革命に流されるまま、民間企業も次々と名乗りを上げて千住村へと軽工業を展開。ここ三河島村のお隣さんにはお化け煙突が生え続け、ボーボー生い茂るに至る。
(で、そんな今最もアツい工業地域と商業栄える帝都中枢の間に位置するのがこの三河島村となったわけで――。)
下関条約翌年の明治29年には省線常磐線に三河島駅が開設、工場労働者たちや地価の高騰した帝都から脱出してきた旧東京市民がここ三河島へ次々江戸長屋を建設、長閑なお里は5年経たずして人々行き交う帝都下町へと変貌を遂げたのだ。
「去年の冬には市電浅草線が三河島の駅前まで伸びてくるし、こりゃ荒川線…王子電気軌道の開通も近いわな」
東京さくらトラムがもうすぐ見れると思うと興奮する。やったぜ。
まぁそれはどうでもよくて、こんな風に発展著しい三河島に取り残されたような妥協本部の江戸長屋は、その業務を拡大するにつれて手狭になり、使い物にならなくなっているのだ。
(最近はもっぱら帝都士官学校の第2会議室を使ってるもんな…。在籍してた一昨年までは堂々と使えたけど、今は卒業生という立場で
というわけでいつ追い出されても文句は言えない。
これは由々しき事態だ。
「早急に建て替えなきゃ…ってもなぁ。」
一応
先のハワイ作戦とて、令嬢殿下から松方蔵相を通じて枢密院の許諾(渋々だったらしい)を得てから立案、それを秋山が軍令部に提案、それを受けた軍令部が「海軍軍令部」名義で枢密院が裁可しただけのこと。
本部建物の建て替えなんか言えるわけもなく、ゆえに公費が出るわけがない。
「無理なんだよなぁ…。」
まぁそもそも妥協加盟員の寮がない時点でお察しだ。
伊地知と秋山は自邸、令嬢殿下は広尾の御用地があるからいい。
僕と裲は明治31(1898)年に士官学校を卒業したあと、裲のほうは北海鎮台の第26連隊の湧別大隊うち、どこかの小隊長に任官されたため、仕事場が向こうだからと北海道へ戻った。
集まりがあるごとに彼女は、交通費はもちろん
僕のほうは、卒業後にすぐ伊地知から例の機甲戦闘団の編成に駆り出され、そのままめでたく参謀本部の編成課行き。そういうわけで仕事場は帝都であるから住居も帝都。下宿は下十条を選ぶも下宿代で士官給与がゴリゴリ削られていくのなんの。
「くそぉ…どいつもこいつも貧乏人め…。」
嘘です僕だけです。
項垂れつつ三河島の
「…煙?」
本部長屋から黒煙がもくもくと立っていた。
「なにが…!?」
大焦りで駆け出そうとするも、それを制止するように行く手を腕が遮った。
「私だ」
「伊地知閣下…??」
伊地知が同じく佇んでいた。
「な、なにやってるんです!中に人がいたら」
「安心しろ、殿下も秋山もまだ来ていない。咲来中尉はここしばらくは出席免除だしな。だから誰も残されてはいない」
「そ…そうなんですか。なら――」
一瞬納得しかけて、慌てて首を振る。
「いややっぱりダメですよ、書類とか運び出さないと」
「書類は燃やした」
「…は?」
首を傾げる。
「燃やしたって…え?」
「アレは私がやった」
「え……?」
伊地知は頷く。
「火をつけたのは私だ」
状況が呑み込めず、僕は呆然と言葉を漏らす。
「な…、ぜ……??」
黒煙を吐く建物へ、火を消しに群がる防火員たちを彼は黙って指差した。
「腕章を見ろ」
「……?」
言われるがままに彼らの腕章を見る。
「宮内庁、防諜部…??」
「ああ。別名『枢密院の懐刀』だ。」
「っ…、何が起こっているんですか」
「
伊地知は溜息を吐く。
「最初に気づいた私とて、今朝のこと。陸軍の把握している限りの枢密院の動向を確認していたら、本日午前、防諜部が不自然な予定が入っていたからな」
「たったそれだけで、わかったんですか?」
「まぁ…半分は直感だ。去年、
「……ハワイ介入ですか」
「ああ。枢密院が王宮救出を予定していなかっただけあって、"海軍と大蔵省主導の計画"と謳うにしては、あまりに壮大になりすぎた」
今までの長江勢力圏や北京攻略はあくまで鉄道敷設するとか外交的提案とかの程度だったからな、と伊地知は続ける。
「ハワイの件で、我々はどうしても大きく動かざるをえなかったからな。故に…なんらかの組織が裏で動いていると枢密院に察されるのは時間の問題とは思っていた。
そのために…年単位だが、この組織を公式化させるための取引を枢密に持ちかけようと動いていたのだが…、ここまで動きが早いとは」
我々は宮内庁防諜部を侮りすぎたのだ、と彼は言う。
「朝から大慌てで機密資料を搬出したが…完了したのは一級機密全てと二級機密の半分ほどに留まる。防諜部隊の突入直前に残りの資料に火を付けて脱出したが…、」
このあたりの消防も動員して鎮火に当たっている。
最初から想定されていたかのように、黙々と消火作業が行われていく。
「…少なくとも、残っている資料は全部読まれると思ったほうがいいだろうな」
「どこまでの情報が…流出しますかね?」
「加盟員名簿や組織概要といった一級機密は、朝のうちに全て有栖川宮殿下の御用地へ護送したから、
しかし、と彼は継ぐ。
「少なくとも、
「戦術兼戦略会議というように見られるということですか。」
とすると、状況はそこまで危機的ではないのではなかろうか。
伊地知が今朝とはいえ一斉捜査直前に重要機密を持ち出してくれたお陰で、破滅からはどうにか逃れられたという形に聞こえる。
「枢密院を脅かすような規模や目的の組織であるとは思われないんじゃないですか?だから…いっそのこと、ここで組織の公式化を目指せば――」
「
「……ぇ?編成課の"新戦力部・自動車部隊"…、」
そこまで言って気づく。
「…――ッ!」
「わかったろ?ここで押収された資料と、参謀本部における貴官の担当を見れば、貴官だけはここの組織に属していることが露呈してしまう」
「…ん、な……。」
ただの士官会合ならばよい。
しかし、そこにもう一人の逆行者という厄介極まりない存在が混じっていたら?
亡命から体制転覆まで、枢密院からありとあらゆる疑念をかけられるだろう。
「今現在、再起策を有栖川宮殿下と猛検討しているものの…。正直、年内の再建は厳しいだろう」
「……マジですか」
「逃げろ」
伊地知は強い口調でそう言った。
「逃げ…って、え?」
「私や殿下はともかく、貴官の身上は今非常に危機的な状況に置かれている。最悪は危険分子と見做されて暗殺されかねん。」
彼は言葉を切り、僕の両肩を掴む。
「50圓を渡す。少なくとも2ヶ月は生活に困らない額だ。
――最低限、枢密お膝元の帝都からは脱出しろ。」
そうして、僕の懐へと10圓札を5枚滑り込ませた。
あまりに急速に展開する事態に脳が追いつかず、僕は言葉をオウム返しする。
「…脱出、と言われましても……、」
「ツテ…、は少ないか。けれども新潟や仙台といった大都市なら、この好景気下、働き口はどうにでもなる。おそらく枢密院は貴官の役職を処分する。事態の収拾がつくまで…どうか、凌いでくれ。」
苦の表情で伊地知は僕の肩を押す。
「無責任に突き放す形となって本当に申し訳ない」
「そ、そんな!伊地知閣下は全く悪く――」
「っ、行けッ!」
伊地知が叫ぶ。
その視線の先に捉えるは、火事に集まった野次馬群衆を掻き分けて、こちらへ迫る防諜部の人間たち。
「…ッ。ありがとうございます、ごめんなさい…!」
一言ばかり礼を言って。
僕は大急ぎで人の波に紛れ、呑まれ、路地を使いつつ三河島の下町新市街をすり抜けていく。
なにせ田園時代から三河島の発展を眺めてきた。地の利は十分にある上、北方戦役と北京攻略で市街戦や森林戦を潜り抜けてきた身だ。防諜部のエージェントとて、撒くのは難しいことではないはず。
大通りに出て、停留所を出る寸前の路面電車を見つけて駆け込み乗車。
相変わらずのバングラディッシュフルな混雑だが、逃避行には都合がいい。
坂本二丁目電停で21系統に飛び込んで上野駅前で降りる。
帝都の北の玄関口・上野駅へ到着。
列車の発着札を眺めて、そこで手が止まる。
「うーん、逃げると言ってもなぁ…」
"信越本線急行・金沢行き" "常磐線鈍行・仙台行き"
"奥羽本線準急・秋田行き" "東北本線急行・青森行き"
羅列されているどの列車に乗るかで、ここ数ヶ月の逃避行が決まる。
はてさて、どうしたもんか。
「…とりあえず、ツテを辿るしかねぇよな。北に行こう」
青森行きの急行列車の切符に青函連絡船の乗船券をつけて購入。
三等車とて7圓が吹っ飛んだ。
「残り43圓…。頼むから持ってくれよ…!」
改札を抜けて急行ホームに出る。
15番線出発、午前9時30分発で青森到着は翌朝6時。
20時間強の行程か。
腕時計を確認しつつ、プラットホームへ上がった瞬間であった。
「――おう、遅かったじゃねぇか。」
15番ホームに立つ人影。
仁王立ちで、大きく僕を阻む人影。
「磯城……!!!」
明治21年8月15日以来、10年ぶり。
二人の逆行者が対面する。
「どうしてここに……!」
握りしめられた僕の拳に、磯城は笑う。
「逃げられるとでも思ったか?『主人公』を舐めるな。」
カツ、カツ、と靴を鳴らし、彼は顎に手を当てる。
「 "
「…そこまで知られてるのか」
「くくっ、"英雄"たる俺の知り及ばないことなど、この皇國にあるとでも?」
「全てを把握している、と?」
「北域紛争で敗れ帰ってきた負け犬どもが、次期戦争の作戦計画をしているそうじゃないか。――全ては、"英雄"となって汚名を返上したいがために。」
僕は一瞬、耳を疑った。
「…負け犬、だと?北方戦役が?」
「悔しいんだろ?同じ逆行者だったはずなのに…お前は北域紛争の『敗北者』扱い。かたや俺は――皇國中が認める『英雄』だ。」
枢密院議員章を見せつけ、彼は笑う。
「"逆行者であり皇國英雄"。そんな俺の憧憬に――10年前にカッコつけて逆張ったお前でさえも、結局は抗えなかったわけだ」
「なにを…!」
「だが。そんな独善的な妄想に、次期戦争という皇國の大舞台を巻き込むわけにはいかない。『枢密院英雄』として、断じて阻止しなければならない。」
彼は口角を上げる。
「英雄の裁きが下るときだ。
枢密院体制への叛逆の兆候あり。貴様には大逆罪の嫌疑がかかっている。
――ここに枢密院議員権限を発動、お前から全ての役職を剥奪、初期任務への帰還を命令する。」
磯城は僕へ一封の通告書を投げつけた。
慌てて受け取ったそれに、記されている内容。
"発 皇國枢密院 宛 陸軍大尉・初冠 藜
叛逆未遂の嫌疑より、参謀本部職務を解任。10年前の開拓地への再入植を命ず。
期間は全植民事業の完了までとする。"
唖然として、すぐさま僕は抗議する。
「これはどういうことだ!?北湧別は完全に原野だぞ!全植民事業って、お前…何年がかりでやらせるつもりだ…!?」
磯城はふっ、と鼻で笑った。
「書いてあっただろ?文字も読めないか?『全植民事業を終えるまで』だ。
まぁ、お前の生きてる間じゃ到底終わらないかもしれないなぁ!」
「んな無茶な…!これじゃ追放と同意義だろうが…。」
「開拓事業はお前の手次第だろ。人生かけて終わんないってことは、所詮その程度の能力だってことだ、『平成人』さんよぉ?」
僕は通告書をくしゃりと握った。
ゆっくりと、磯城から踵を返す。
「戻りたいか?はッ、追放先の原野を大都市に変えてみせたら考えてやるよ!」
その言葉に耳をピクつかせて。
静かに僕は振り返る。
「――言ったな?」
「は…?」
一拍遅れて、磯城が吹き出す。
「くッ…クク…!真に受けちゃったか?オタクくんよぉ!」
「『事業完了』の条件は、僕の追放先が…道庁指定の"未開地帯"から解除されたら、で文句はないな?」
「ほんと、自分に酔い過ぎだろお前…!
いいぜ、出来るもんならやってみろってんだ。」
その瞬間、磯城の後ろから一人の初老の男が現れる。
「証人は儂が務める。いいかね?」
「松方、蔵相…?」
その姿を認め、僕は目を丸くした。
振り返った磯城も驚く。
「松方蔵相、わざわざいらしてくれたんですか…。」
「ああ。君が突然枢密院から飛び出くもんだから、何事かと思って後をつけてな」
「俺と並んで皇國英雄たるお方が…わざわざ、こんなお遊びにご足労頂かなくてもよかったのに」
「まぁ来てしまったものはしょうがない。許せ」
松方は、ここで交わされた条件を淡々と書類に記し写す。
「初冠大尉の入植任務の解除条件は、道庁指定の"未開地帯"から、彼の入植先――…紋別郡が解除されること。」
庁が定める未開地帯。
人口5000未満、食料自給率50%未満の明治以降の開拓地。
以上の2条件を突破すれば、追放解除。
磯城は僕へと視線を戻す。
「松方蔵相閣下の足まで引っ張ってきたんだ、虚勢張ることしかできないお前の無能さを、未開の原野で身にしみて味わうことだな。」
15番ホームに停車している急行列車の扉が、ようやく開く。
そろそろ出発時刻か。
乗車券を懐にしまい、列車へと足を向ける。
「これでようやく、もうひとりの逆行者とかいう足枷が、永久に俺の前から消え失せてくれるわけだ。…はぁ、長く迷惑かけてくれたもんだぜ。」
磯城は大きくため息をつく。
「永遠の別れだ。人生最後の帝都、精々車窓から眺めておくことだな」
そう言い残して、彼も足早に15番ホームから去っていく。
松方も、一度だけこちらを振り替えったものの、特段なにか言うことはなく、踵を返して磯城の後に続いていった。
『急行列車、青森行き。まもなく発車です――…。』
駅放送を背後に列車へと乗り込むと、ジリリリリリ、と発車ベルがしばらく鳴る。
僕が席につく頃には、ブザーとともに鉄道員が扉を閉めて。
ボォォォオオ―――!
汽笛が一声、上野駅に響く。
車窓の景色が、ゆっくりと滑り出した。
「……ッ…。」
僕の追放録は、再び動き出してしまったのだ。
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