七章 破却の鉄槌

初撃崩壊

「ずっと水に潜る仕事が続くなぁ…」


広瀬武夫中佐は、静寂が支配する潜甲型潜水艦、伊17の艦内でそう呟いた。


「真珠湾の件で『海の狼』なんて似つかわしくもない渾名で呼ばれるし…。おれはもともと水雷畑だぞ…人事部はおれを潜水屋か何かと勘違いしてるんじゃないか?」


彼の呟きは帝都の海軍人事部に届くはずもなく、黄海に溶けていく。


「――戦隊司令、まもなく旅順口です。」


(たかが水上の尉官だったおれが…いまや戦隊司令か…。それも、潜水艦という実に妙な兵種の…)


彼は、額に手を当てて遙か上のを海面を仰ぐ。

そうして笑ってみせた。


「でも、引き立て役も悪くない。下拵えは何よりも大切だ。」


旅順奇襲という華々しい開戦の火蓋を切るための下準備。決して目立って憧れられるような存在ではないが、なくてはならないすべての基盤。

それを好む男こそ、広瀬武夫だ。


「――さぁ諸君。機雷封鎖と洒落込もうじゃないか。」


広瀬中佐は口角を上げる。


史実、散々にサーチライトと砲弾を浴びせられ、三度決行しながら幾多の屍と船の残骸を撒き散らし、一度も成功することなかった旅順閉塞。

だが、水上からではなく海中からの封鎖など、誰も考えない。潜航中の相手にサーチライトも砲撃も使いようがない。


「機雷敷設開始。慌てるな、訓練どおりにやれ。」


新月が支配する暗黒の大洋から、誰にも気づかれることなく第四艦隊第一潜水戦隊は旅順口に侵入。たった2時間で機雷封鎖を完了した。

同時並行でウラジオストクの封鎖も無事終了し、あまりに呆気なく、ロシア帝国海軍太平洋・ウラジオストク両艦隊は脱出路を喪失した。


明治37年2月8日深夜。旅順閉塞作戦、満了。




・・・・・・

・・・・

・・




同刻 オスマン帝国/帝都コンスタンティノープル


皇帝陛下スルタン!」

「なんだ…。」


疲れ果てた声で、丘に聳える宮殿からの都を見下ろしながら振り向かずに返事をしたのは、他でもないこの斜陽の帝国の統治者、メフメト5世である。


「ロシアのツァーリから…、新たな献納金の要求が…」

「またかぁっ!」


メフメト5世はそう吐き捨てて振り返る。

そうして、苦虫を噛み潰したような表情で続けて聞く。


「くっ…、額は?」

「2400万リラです…」

「はぁっ!?我が帝国のどこにそんな大金を支出する余裕があるってんだ!!また…また余は守るべき民を苦しめなければならないのか!?」


憤る彼は、そう言って日の傾き始めた美しき海峡に顔を戻す。


「……いま、余の帝国はなんと諸外国から呼ばれているかわかるか?」


声だけでそう問いかけるスルタンに、側近は返す解答を失う。黙りこくる彼にメフメト5世は寂しく語りかけた。


「…『瀕死の病人』、だそうだ。」

「………っ!」


拳を震わせて、やがてその手をゆっくりと開きながら彼は続ける。


「幾度も近代化を図ったが尽く失敗した。そこから何か学ぶこともなく、諸列強から大きく引き離されズルズルとここまで落ちぶれた。……かつて、この都を、東ローマを蹂躙した、栄光あるメフメト2世の末裔が、余の如き体たらくだなど…。」


誰が思うことか、と彼はつぶやき、そうして愛おしそうに壁に掛けられた全盛期の頃の帝国の版図を描いた地図を眺める。


「……このまま、北の熊共に飲み込まれて、我らは滅ぶのだろうか…。」

「っ……それは――」


こらえきれなくなったようで、側近は声を上げる。

だが、言いかけて一瞬黙り込み、やがて全く別のことを彼は話し出す。


「……極東に、日本という国があるのを、陛下はご存知ですか?」


それを聞いて、スルタンは懐かしむように遠くを見た。


「…日本。あぁ、よく覚えておる……。ワカヤマ沖と言ったか…、エルトゥールル号が難破したときに、彼の国の民が総出で、余の愛する臣民を助けてくれた…。身を挺して海に飛び込んで、看病して、いくらの臣民が救われたことか…。」


はるか東の果てにありながら、感謝してもしきれんと、彼は言った。


「その日本に――…ロシア帝国は最後通牒を突きつけました。日本皇國は拒否する構えで、もうまもなく…極東で戦争が勃発します。」

「………っ!!」


最早言葉を失い、メフメト5世は振り返る。


「…呑まれるのか?あの国も、北の熊共に…?」

「……国力差10倍以上です。面積と人口の分野においてはもはや比較になりません。現状、彼の国の国債を購入した列強は……0です。」

「――!」


ギリリ、と奥歯を噛み締めて彼はうつむいた。


「滅びるのか…、彼の国は…この『瀕死の病人』より早く……??」

「ロシア帝国は、中央アジアの通り……戦勝相手は、容赦なく併合します。」

「く……そっ…!」


彼は、宮殿のベランダから、はるか遠くを睨むように声をひねり出した。


「憎い…あの熊共が、本当に憎い…。が、それ以上に腹が立つのは――この、情けなさだ。余は……余の民を救ってくれた恩人にさえも、救いの手を差し伸べることができないのかっ……!」


恩を返すことすらできずに、先に恩人は滅びゆく。


「こうやって祈ることしかできない…この無力さに、一番、腹が立つ――!」


そう憤りながら、彼は食いしばるように手を合わせる。


「おお、偉大なる神よ…。どうか…あの北の熊共をお止めくだされ――。」


そうして、口に出さなかったが彼は内心でこう続けた。


(たとえ神でなくとも――余の臣民のため、あの侵略者を打ち倒す者…、救世主よ、現れ給え―――。)




・・・・・・

・・・・

・・




「おう、受け取ったとも――、その祈り。」


秋山真之海軍大佐は、杖を司令塔の正面デッキに突いて、どこに宛ててでもなく、自然とそう呟いた。


「機雷封鎖はすでに完了済み、攻撃隊、旅順に殺到します。」

「よし。続く戦隊は?」

「順調です。」


飛行船母艦『帝鳳』『秦鷹』に代わって前へ出たのは、戦艦戦隊。

戦艦敷島以下4隻、徹甲弾満載の重火力貫徹部隊だ。


「無電入りました!攻撃準備完了とのことです!」

「よし―――。」


彼は口角を上げ、大海原を見据えるその位置から、杖をゆっくりと正面に。


「狂踊の第一段階といこうか。刮目せよ――…復讐の裂光を。」


そして、その杖を強く振り下ろし、甲板をカァンと高く響かせた。


「爆撃開始!!!」


・・・・・・


「はぁー、酒が足りねぇ…。」

「なぁに朝から呑んでんだてめぇー、おれだって我慢してんだ夜にしろ」

「くっだらねぇニュースばっかで、飽き飽きすんだよ!」


ここ、旅順要塞はいつもと変わらぬ朝を迎え、一人の水兵はもうひとりに新聞を投げてよこす。


「蛮族が愚かにも反逆したって。聞くだけでも吐き気がする。」

「はー、その連中と戦争がもうすぐ始まるってんだから警告してんだよ」

「はるばるこんな極東に文明を教えにやってきてんだ、何を偉そうに。」

「非文明圏の猿なんてどれもそんなもんだろ。閉鎖的な原始生活しか営んでないんだから、身の程ってものを知るわけがない」

「まー、そうっちゃそうなんだけどよー…」


けっ、と水兵は唾を吐く。


「少しは緊張感持てよ、もう国交断絶だって起こってんだ。ここは戦場だぞ?」

「まさか。黄色猿がここまで攻め入れるわけ無いだろ。せいぜいガレー船止まりの低級文明じゃ航続距離が足りない」

「あー…まぁそうかもしれないな。」

「なんたってウォッカがないくらいだ、まともな文明なんてねぇよ。あの矮小な列島の最先端技術っていったら……木の棒くらいじゃないか?」

「…ありうる。くくくっ…キー、キー、ってな。」

「ははははははっ!きっとウキッ、ウキッ!ってやってるぞ?」


談笑する片方の水兵は、おもむろに大きく張り出した203高地の山稜線の向こうから、異型の影が迫ってくることに気づいた。


「なぁ――、なんだ?あれは」

「…?どこだ?見えないぞ?」

「あそこだあそこ。船っぽいのが空に浮かんでやがる」

「飛行中??まさか。船が飛ぶわけ無いだろ」


そう言いながら振り返って、彼はそれを捉えた。そして絶句する。


「……な、なんだあれは…??」


一面碧空を埋め尽くさんばかりの、巨大な飛行船が20隻。


「…は?……は??空を…飛んでる!?」


午前7時19分。皇國海軍台南航空隊、第一次攻撃隊、旅順へ殺到。

高度4000から一気に降下し、急加速で旅順口上空を突破。


「………紅い丸…!」


水兵たちの上空をその影を掠めさせて飛び去る瞬間、はっきりと視認させたその紋章こそ、東より昇る太陽。


「う、うそだろ、怪物…怪物だぁっ……!!」


先程まで口をつけていたグラスを、彼は手から滑らせ、割ってしまう。

そうして旅順要塞全体を狼狽が支配した瞬間、一斉に飛行船の編隊は散開した。急降下をやめ、停泊するロシア帝国が誇る戦艦群に直上に。爆弾倉が開き、800kg貫通炸裂弾は重力加速度に従い、自由落下を始める。


ヒュルルルルルル――――


「なにか落としたぞ――」


水兵に最後まで言わせないまま、タングステンの塊は前弩級戦艦のあまりに薄い甲板をぶち破り、たやすく船内深くに到達する。

全ての動きを遮断するかの如き静寂がほんの一瞬訪れて―――


カッ――――!


裂光。


ドガァアアァッァ―――ァアン!!!!


「うわあぁああっ!??」

「伏せろ!伏せろぉっ!?」


咄嗟に身を地に横たわらせた水兵二人の視界の先には、爆炎が。

同時多発的に、続けざまに停泊中の艦船が爆撃を受ける。


「な、なんだ…、何が起こってる…!?」

「おい!顔を上げるな!破片が飛んで――」


ドカァァ――ッ!ドォ――ン!

バキィッ!グシャグシャ――ガラガラ…ダァアァァン!


「戦艦ペトロパブロフスクがぁっ!!」


船体を裂断する閃光が走ったかと思えば、火球が戦艦を呑み込んだ。


「あ…あぁ…――!」

「うそ…、嘘だ…っ。」


容赦なく下瀬火薬は大炸裂を引き起こし、船内へ3000以上のタングステン片を撒き散らす。切り刻まれきった前弩級戦艦は爆風を吹き上げた。


「12インチ連装砲2基4門…16ノットの、我がロシアの誇る新鋭戦艦がぁ!?」


ドゴォオオおぉお――ン!!!


大きく水柱を放ち、2本のマストを引き千切らし、空に舞わせるペトロパブロフスク。内部から崩壊した同艦は、1分経たず轟沈した。


「うそだ…げ、撃沈だぁっ――!!」

「馬鹿なァッ!?せ、戦艦が、たった40秒で!??」


恐慌状態に陥った二人の水兵に声をかける者が一人。


「おい、急げ!そこにいたら死ぬぞ!!」

「ま、マカロフ中将……!?」


ロシア帝国海軍内で名称と名高いステパン・マカロフ中将その人が、軍服に片袖だけ通したまま立っていた。


「早く立て!狙われていない戦艦に乗艦しろ!速やかに抜錨し迎撃に!!」

「は、はっ!!」


寝室からあわてて出てきたものと見えるその格好で、マカロフ中将は片足サンダルに引っ掛け走り出す。


「かはぁっ、はぁ…はぁ……!」


ヒュルルル、ドォ――ン!

ヒュゥゥ――ドカァーン!!


「どうなっている…、何が起こっている……!」


息を切らしながらマカロフ中将はそう唸る。


「信じられんっ…!どうしてこんなことに…!!」


半ば飛び乗るように、砲火をまだ食らっていない戦艦ツェサレーヴィチに着地して彼はすぐに、抜錨命令を下した。


「出撃…ただちに出撃せよ!戦艦の被害を増やすなぁっ!!」


800kg貫通炸裂弾、一隻につき搭載限界は6発。第一次攻撃隊20隻が投下できる最大爆弾限界、120発。当然、空襲は終わらない。


「今ここにいる乗員だけでいい!船を動かせ!逃がせろ!!」


ツェサレーヴィチが出港した瞬間、隣に停泊していた戦艦レトヴィザンが貫通弾の貫徹爆砕を受け、炸裂、崩壊を起こす。

続けて後続の重戦艦ペレスヴェートを2発の爆弾が、その厚い重装甲をたやすく貫通し、同艦を粉砕、轟沈する。ここまで、わずか20秒。


「あぁ――…!ペレスヴェートまで…!!」

「俺らが誇る戦艦部隊がぁ――!?」

「他の艦に目をやるなぁっ!湾を脱出しろ!!」


動揺が走る艦内に喝を入れつつ、マカロフ中将ははるか高空を睨み、叫ぶ。


「おのれぇ――っ、何なんだあの化物はぁああっ!!!」


2月8日明朝。皇國海軍台南航空隊、旅順奇襲爆撃。

ロシア帝国、戦艦3、防巡2、駆逐艦8隻喪失。


・・・・・・


「攻撃隊、爆撃終了!帰投するとのことです!」

「よし、旅順湾攻撃、第1段階終了!第2段階に移行する!!」

「了解っ!」


秋山は声を張り上げる。


「飛行船母艦は下がり、飛行船部隊帰還後直ちに補給を行え!可能な限り速やかに第2次空襲を敢行する!代わりに本艦、戦艦『筑波』以下、戦艦戦隊前へ!」


もはや203高地までもがはっきりと見える位置まで艦隊は来ていた。


「全艦単縦陣、最大戦速!敵に準備の隙を与えるな!!」


陣形が速やかに組み直され、秋山の乗艦する旗艦『筑波』が最先頭に躍り出る。


「後続の『帝鳳』に連絡!偵察飛行船出撃せよ!」


続けざまに観測船が船を立つ。旅順口はすぐそこだ。


「さてロシア軍――これで終わりだと思うなよ?今まで散々弄ばれてきた分、今宵は華と散るまで踊り明かして頂こう。さぁ、狂奏の時間だ―――!!」


ニィと片頬の口角を最大まで上げて、秋山真之は叫ぶ。


「全軍陣形、第一突入形態!主砲転回右54度、仰角42度!砲弾弾種は徹甲弾!順次装填後、観測船と無線接続、観測射撃態勢!!」


続く戦隊の主砲が転回し、その砲口の先は一律、絶賛恐慌状態に陥っている旅順要塞へ向けられた。


「あゝ紅蓮の烈風よ、旅順を蹂躙せん。

 喰らえ――海上の、面制圧射撃。」


航空偵察により空中から要塞内を完全に丸裸にされ、防衛陣としての意味をなさなくなった旅順要塞。その停泊する軍艦群を、外洋に向けられた隠匿要塞砲一門一門を、無慈悲にも完全に捕捉した30.2cm連装主砲、4隻・8基16門。

旅順湾攻撃、第2段階は直ちに履行された。


「全主砲、一斉射ァッッ!!!」


咆哮、明朝の渤海を薙ぐ―――。

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