皇國枢密院
「どうも、お久しぶりです。」
そう言いながら部屋に入る。
まず視界に飛び込んできたのは、5,6人が座れる、中くらいの大きさの円卓。
そこに明治重鎮たちが並んで座って、こちらを凝視している。
「うぉ…。」
秋山が思わず感嘆の声を漏らした。たしかにわかる。集められたメンバーが豪華キャストすぎる。これは明治偉人勢ぞろいという感じだな。
伊藤博文、黒田清隆、松方正義。そしてもう一人の逆行者、磯城。
最後に中央に鎮座するのは皇國第122代天皇、明治帝陛下だろう。
しばらく沈黙が続く。まぁそれをぶち破っていくのが秋山なのだが。
「松方蔵相お久しぶりです!」
「…おお、元気そうで何よりだ」
反応が一歩遅れたが、松方はそう答えた。
「……もしかして僕ら、歓迎されてない雰囲気ですかね?」
試しにそう言ってみると、磯城が思い切りこちらを睨みつけてきた。
僕はもう片方の逆行者たる彼に、敵対視されてるらしい。
「まぁ、みなさんそんな警戒しないで。事実、彼は北方戦役から山陽道戦争まで命張って戦い抜いてきたんですから。少なくとも我々のことを他人にバラしはせんだろ。」
最初に松方が喋りだす。
きっと彼が僕らを皇國枢密院に召集したのだろう。
「まぁ、なに。まずは……おかえり、だな。」
「7年ぶりだが、ただいま諸君。」
秋山が皮肉交えてそう言う。僕もそれに呼応する形で言った。
「15年経ちましたが、ただいま、とでも申し上げれば…?」
「ははっ、そんなところか。」
彼は気楽にそう返し、そして伊藤博文の方へ向き直る。
「ここで固まっていても進みませんよ。…陛下をお待たせするのも不敬では?」
催促された伊藤は厳粛に動いた。
「本日出頭を命じたのは他でもない、農業革命と真珠湾作戦に対し、諸君の多大なる貢献に畏れ多くも陛下ご自ら叙勲せしめたいと陛下はおっしゃられた。」
(真珠湾作戦って結構前ですよね)
(まだ俺の追放から3年経ってなかったからな。すぐ表彰は面目上無理だろ)
アイコンタクトで秋山と意思疎通する。
「謁見の礼儀、諸君らはもちろん身につけて――」
「不要なり。左様なる形式的なものは」
伊藤の声を遮って、簾の掛かった壇上から声が飛ぶ。
「伊藤、下がっていい」
「然し陛下――」
「朕はただ感謝を伝えたいのみ。威張り散らして如何せん。」
一連の流れに呆気にとられた。秋山でさえ呆然としている。
皇國の元首としてすべての頂点に立つそのイメージとは正反対に、簾を軽く上げて、僕らの前にその顔を露わにした。
「「っ――!」」
脊髄反射的に伏せる。
秋山でさえ同じようにする。
「面をあげよ」
が、すぐに顔をあげることになった。
「朕が、第123代天皇――睦仁である。」
・・・・・・
緊張で謁見の時間はとても長く感じられたが、内容はほぼ脳内に入らない。
「――…皇室と深い関係で結ばれていた布哇王朝の救出という功績。並びに臣民から作付面積扶養限界という障壁を取り除き、飢えという苦しみを永久に排したその偉業は、朕の名を以てここに永遠に証明される。」
「「有り難きお言葉…。」」
勲一等旭日大綬章と呼ばれる、高位勲章の授与。
本来ならこの章は師団長や枢密顧問官、大臣などが叙勲されるものであって、僕ら佐官が、ということはまずない。相当イレギュラーだ。
「そして、貴官にはあの戦役の『翠北金鵄章』を。」
「……はっ。」
静かに床に手をついて慎ましくその受勲を受けた。
勲章自体は随分前に授与されていたものの、正式な叙勲はこれが初めてである。あの北方戦役が終結してから12年、随分と時間が経ってしまったものだ。
「本日、急な出頭命令で悪かったな。謁見に合わせてもらったこと感謝する」
「い、いえっ…」
陛下は杖をついて歩きだす。そして、軽く振り返って手をあげた。
「では、また―――。」
(
出るはずもない言葉を聞いて、一瞬疑問に思ったがすぐに持ち直す。
「はっ――!」
正座で顔を伏せ、陛下が部屋を退出するのを送る。
陛下が大帝と呼ばれるその理由が、分かった気がした。
斯くして、そのまま解散の流れとなる。
秋山が松方と談笑しながら出ていった。
あとに伊藤、黒田が続く。
そうして部屋に取り残されたのが――、
(これは…仕組まれたセッティング、か。)
二人の逆行者。
もう一人の逆行者――磯城と、僕だけがいるこの部屋。
こころなしか口角をほんのすこし上げる磯城。彼にとっては、さながら舞台か。
「――…二度とその顔、見ることなく済むと思ってたんだがな。」
僕が何を言うより早く、彼はそう発した。
「…そりゃ、見込みが甘かったんだろ。僕は現にここにいる。」
「はぁ、全くだ。
「……は?」
先程の笑みから一転。
磯城は、拳を握って僕を睨む。
「正々堂々、真っ向からの開拓勝負で追放解除へと足掻く。そんな――胸糞のない情熱的決着をお前に求めた、俺が愚かだったんだ。」
「情熱的決っ…、はぁ?」
「正直、お前の陰湿さを舐めてたよ」
はーぁっ、と彼は深く溜息をつく。
「たまたま持ち合わせていた未来知識――"金鉱山の場所"。それを叫んで回るだけで…ゴールドラッシュ、人口要件なんてすぐ解決できるもんなぁ?」
僕は目を見開く。
「こちら側の把握していない未来知識を許可なく行使して、この追放ゲームの勝者を詐称して帝都へ凱旋気取り。よくもまぁ…そんな事ができる」
「…追放ゲーム、だと?」
「田んぼに種を撒いて、その生育を眺める傍ら、人を集める――…たったそれだけのゲームだろ?俺がやれば1年経たずクリアできるだろうこのヌルゲーを、お前にやらせて…どこまで実力で出来るか見るつもりだった。なのに」
磯城は、ばっと僕を指差した。
「『改変者』として、成り損ないの平成人が手を差し伸べるべき相手かどうかを試すつもりだったのに、お前はそれを最悪のチートコードで蹴飛ばした。」
「チートコード、だぁ?」
「もしかしてお前、史実知識をひけらかして回ることが…『実力』だとでも思ってんのか?」
「っ、それはお前――」
「どこまでも卑劣、醜悪。お前の一連の脱出劇に、擁護出来る点など一切ない。
"平成人"らしい、最低の胸糞ラストだな。」
金鉱山の発見だけが紋別発展の理由だと思っているのか。
あの開拓をヌルゲーと称するあたりからして、現実剥離にもほどがある。
「『英雄』として光の世界にいたからこそ…俺は、闇と対峙するのに慣れていなかったんだ。ここまでの恥知らずが、俺と同じ皇國人にいるとは思わなかった。
思えば最初から――お前は救いようのない無能だった。」
首を傾げてみせる。残念ながら最初でやらかした自覚はない。
「明二四年動乱の山陽道戦争、俺だったらもっと上手に叛乱軍を降伏させられた。
……お前のせいで、たくさんの犠牲が出た。俺達の救国物語まで邪魔された。」
磯城は続ける。
ああ、そうか。
僕ら北方戦役従軍者を「負け犬」と評した磯城だ。
「自覚さえないのか、この平成人がよ。どこまで無能なんだ…!」
ちょうどいい、あの屈辱の実態を追及するときだ。
僕は肩をすくめて返す。
「誰かさんたちがロシアを舐めてかかって、放棄した樺太に反乱分子を送り続た結果、交戦状態となった。誰かさんが国内情勢を甘く見た結果、内戦を引き起こした。――誰が今、千島を領有してるんだ?」
「お前が本を、史実知識を部屋から持ち出さなきゃ、防げた話だった。」
確かにいくつかはPCと一緒に持ち出した。
だが、全体と比べればほんの少し。
「いや、そもそもあの部屋とそこの本は僕のだし」
「歴史が、民の命が懸かってたんだよ…!俺たちに渡せばあんなことにならなかった。所詮平成人のてめぇは明治の人々なんてどうでもよかった。だからそういうこと言えるんだ…!」
「なに?僕が持ち出したから明二四年動乱で民が苦しむ羽目になったって?」
「ああそうだ…。俺達がやって、あんな結果になるはずがねぇ」
13年前の大泊桟橋の人々の表情は、僕が作り出したと言うわけか。
「けどよ、俺達はそんな逆境から立ち直ってみせたんだぞ。あのあと――…俺らが失敗を一度でもしたか?…成功続きだろ??」
磯城は僕を見下してみせる。
「対清戦の機関銃開発、軍拡特需、義和団事件、八八艦隊……。かたやお前ら
「はっ――言ってくれるじゃねぇか。豊島沖と東郷の心情離反、どう説明する?」
そう返すと、磯城はいかにも楽しげにくつくつと笑いだした。
「本当に平成人は脳が弱いなぁ…。」
彼はトントンと指で机を叩く。
「豊島沖なんかもろ、権力によって腐っちまったあの
「へぇ…随分言うなぁ」
「もう一つ。東郷の心情が本当に離反してるとでも思ったのか?」
「思ってるけど?」
はぁ〜ぁ、と磯城は失望の息を吐く。
「東郷が離反するわけ無いだろう。なんだかんだ言って、豊島沖じゃお前らの無能秋山の失態を尻拭いして、なおかつ勝利に導いたんだ。きっと内心じゃ俺達の浪漫あふれる改変計画に共感してくれてるさ。――…ツンデレ、ってやつだろ?」
僕はもはや言葉出ず、目を閉じて空を仰ぐ。
「こんなことすらわからないとは…。俺としてはお前らみたいな足枷、すぐさま切りたいんだが…、心優しい陛下と松方が聞かなくてな。」
彼は言葉を継ぐ。
「陛下が認めたお前らの功績だって、俺ならもっとうまくやれた。
真珠湾作戦はもっと華麗に鮮やかにこなしただろうし、農業革命だって開戦直前にぎりぎりセーフじゃなくて、もっと早期から取り組めたはずだ」
「何を――…。真珠湾作戦は華々しくやったら列強に目をつけられるし、農業革命は計算され尽くした土台の上に、敢えてあのタイミングになったんだ。」
現場を知る由もない人間が上から首を突っ込むな、そう叫びたいのをぐっと堪える。
「真珠湾は浪漫なくちゃ真珠湾じゃない。農業革命は早めにやって開戦直前には経済を落ち着かせてなくちゃならなかった。――…精々、それがお前らの限界ってことさ。」
ふっと軽く笑って磯城はそう言った。
「調子に乗るな、役立たずが。」
「ッ――それを言わせていただきたいのはこっちだ。」
カン、とペンを机に軽くうち付け言った。
「僕が枢密から持ち出した本はどれも北方情勢とは関係ない。農業機械大全とか、銃砲構造書とかだ。なぁ、本当に
磯城はふぅと息を吐いた。
「まぁ、なら百歩譲って、仮に明二四年動乱は失敗だったと認めてやるとする。でもなあ?それ以降ずっと成功続きだろ?だからもうすでに、お前の言う学びは完了してるんだ」
「具体的に何を学んだっていうんだ?」
「莫迦なことを。『あっ、俺またなにかやっちゃいました?』ってパターンだよ。きっと運命的に、失敗しない秘訣を掴んだんだ。もうそれからは成功続きさ。なんたって俺は選ばれた逆行者だからな」
理屈云々以前に、なにか狂気に取り憑かれている。
「まぁ…、たしかにこのまま一方的にズタズタに論破されたままじゃ可哀想か。
一応フォローしてやるよ。確かに
奥歯を噛みしめる。
僕が欲すのは評価じゃない。
「ほら、機甲部隊だったか?発想は浪漫溢れてて実にいいじゃないか。
――…だが、所詮発想だけだ。」
彼は革靴を突き鳴らす。
「お前らは確実に失敗する。
だって豊島沖で示されたとおり、うまく指揮する能力…お前らに無いだろ?」
「………っ!」
「いいか?東郷は俺らがつくりあげた八八艦隊率いて勝ちに行く。俺はお前らを指揮して陸戦で勝利をつかむ。おまえんところは無能が多いがそれも俺がカバーできる。
直感的に察した。独立旅団戦闘団『奔星』所属する、第三軍参謀長の任をこの逆行者が希望し、着任したのは、これ目当てか。
「仮にもお前らは陛下や松方に期待されてんだ。そんなお前らの正体がこんな体たらくじゃ、お2人に顔見せできねぇからな。俺がお前らを鍛えて、正しく導いてやる。ちゃんと俺についてこいよ。本当の王道ってものを見せてやる。」
磯城は決意の目で僕を見据え、ドアを締めて出ていった。
「はぁ―――……。」
誰もいなくなり、沈黙が支配する部屋で深いため息をつく。
希望は悉く潰えた。少しは明二四動乱から学んでくれたかと思ったが、それは大きなお門違いだったようだ。
彼は自身を物語の『主人公』と信じて疑わない。王道通りに進むと信じて、うまくいかないのを「もうひとりの逆行者」のせいにして。それで心の安寧を保ちつつ。
「――あほらし。」
僕は、がたっと椅子を立つ。
重い足を引きずりながら、扉を開けた。
・・・・・・
・・・・
・・
「どうしても、あの磯城という逆行者と、貴方がた『維新の英傑』が、同列には思えないのですわ。」
枢密院会議場から出てきた伊藤博文に、扉の側で待機していた有栖川宮が声をかける。秋山や初冠には会っていないが、彼女はこの日偶然枢密院へ訪れていたのだ。
「……これはこれは、有栖川宮女王殿下」
「ええ、ご機嫌麗しゅう」
皇女としての最低限の儀礼を済ませると、話を切り上げられないうちに有栖川宮は言葉を継ぐ。
「かつて維新を主導した『英傑』が、逆行という現象に立ち会って…上から下まであの逆行者同然になってしまった、とは考え難いのですけれど。」
「同然、とは?」
長らく、枢密院という組織に抱いてきた疑問を。
有栖川宮は決然と正面からぶつけた。
「言葉はよろしくないのですが――史実を盲信する、どうしようもない大愚。」
「かははっ、我々がそうであると仰せに?」
「少なくとも『主人公』を自称する逆行者のほうはそう見えますわ。けれど…あなたがたのような理性の牙城が簡単に、"史実"とやらに靡くとは思えなくってよ。」
伊藤は、その長く伸ばした髭を撫でた。
「逆行という現象は、神道で言えば何にあたります?」
「…神道?」
「皇國古来の言葉を借りれば?」
「っ――…『神隠し』、とでも仰せに?」
ああ、と彼は頷く。
「では、殿下でしたらそれ以外に『逆行』という現象へ、どのように説明をつけるのです?科学的に証明が可能なのですか?」
「それは……っ」
「この現象は我々の知りうる限りを、人智を超えてしまっています。神々が皇國に遣わした奇蹟、そう評するしかないでしょう。」
「…たったそれだけで、磯城とやらに追従すると?」
「あのまま突き進む成れの果ては、あまりにも悲惨すぎます。だから、舞い降りた『逆行者』と、その史実知識を全面的に活用して袋小路を打開する。たったそれだけの話なのですよ、殿下。」
その様はまるで、救世主を前にして跪く敬虔な信徒のようで。
不可解な現象を神と結びつけてしまった人間は――たとえそれがかつての『維新の英傑』であろうと、いとも簡単に自己の信念を捨ててしまう。
伊藤の言葉を、その行動を、そんなふうに有栖川宮は受け取った。
だから彼女は啖呵を切る。さっさと目を覚ませ英傑、と。
「"史実活用"の枠に留まるなら理解もできましょう。
けれど――…今の状態は『史実盲信』ではなくって?」
「史実盲信?
心外な。我々とて、愚者ではない。」
束の間の静寂のちに。
伊藤は皇族への敬意を振り払って、そう返した。
「あくまで、史実の通り歴史が進むと確信しているのみだ。」
「それが史実盲――」
「殿下は二つほど重大な勘違いをなされている。まず1つ目は、私は逆行現象こそ人智を超えた御業と捉えているが、その結果召喚された『逆行者』については、微塵もそうは思っていないということ。」
有栖川宮は首をかしげる。
「そうは思っていない、とは?」
「『逆行者』は救世主ではなく所詮ただの人間。磯城は断じて『主人公』とやらではない、という話です。」
予想外な伊藤の言葉に、有栖川宮は意表を突かれる。
「磯城は、自分に酔っている。自分の力を過信している。
―――貴女たちと同じように。」
「わたくしたちと、同じ?」
「ええ。自分の与える影響力を大きいモノだと思い込んでいるのですよ。その様は、まるで、我々を『史実盲信』と呼び習わす貴女がた"妥協"そのものだ。」
「わたくしたちが…自己を、過信している、と??」
「ええ。だって――この明治中盤の時点で、皇國が世界史を変え得ると思ってらっしゃるのだから」
彼は言葉を流すように続ける。
「我々グレート・ゲームに参加資格のない辺境国が、列強が織り成す世界史に介入できるわけもない。」
「……?」
「我々は『史実』を、そう簡単に捻じ曲げられる立ち位置にないのですよ。それを貴女がたは勘違いなさっている。2つ目です。」
「ッ!」
「少なくとも、第一次大戦が終結するまでは世界の流れを、そこにおける皇國の立ち位置を改変することなど出来ません。例え日露戦争に負けようと、大英帝国は極東における独露への抑止力、英国の盾として使うでしょう。」
「…皇國の国土が消滅する可能性は?」
「ありませんよ。皇國への勝利はそこまで簡単じゃない。」
なにせ皇國の背後には英国がいる。
ロシアは相応の負傷を抱えて、講和に踏み切らざるを得ないと彼は言う。
「皇國がどんなに暴れようと、所詮は極東の三等国。欧州列強が大戦で国力をすり減らすまでは、世界の流れを変えるほどの影響力を国際社会へ持つには至らない」
皇國がどう手を打とうと、欧州列強同士の経済的・心理的対立を解決することは出来ない。なにをしようと世界は第一次大戦へ突っ走る。皇國が大戦に協商国として参加するまでは避けられない。そうして列強の末席を確保して漸く、大々的な改変への道が拓けるのだと。今はそれへ向けた土台作り、下準備の期間なのだと彼は言う。
「第一次大戦さえ抜ければ史実の展開などもはや役に立ちません、我々だって史実を捨てて動きましょう。けれども、それは今じゃない。」
たしなめるように彼は有栖川宮へ語りかける。
「何事にも順番があります。それをすっ飛ばしてはいけません。我々が史実を盲信しているのではなく、今はどうやっても史実通りに世界は動く。
その点で言えば――"妥協"は、磯城と変わらず、自己を過信している。」
「ッ…。ならば。ならばなぜ、そんな逆行者をお生かしに?」
「処分できないからだ。」
伊藤が苦虫を噛み潰したような表情でそう呟く。
「逆行者など、未来知識を引っこ抜いた後はただの危険分子だ。すぐにでも暗殺して然るべきなのだが…こうして十余年、踏み切れない。ひとえに逆行者両人の保身と皇國への献身がしっかりしているからだ。」
「保身と…献身?」
「磯城も、初冠も、賢いのだよ。我々が現代文字の読解が出来ないことを知っていて、あの二人がいなければ史実書も全く意味のないことも理解している。」
「現代文字、と申しますと?」
「カナ、漢字体、口語的文法体系はともかくとして、大量のカタカナ外来語、和製英語、挙句の果てに明治期以降と思われる造語までふんだんに使われている。我々の知る日本語とは別言語と言っても過言ではない。」
今までの翻訳をパターン化して活用しても、単語を解析出来なければ意味がないと言って、彼は憮然と続ける。
「だから連中は一発ではなく、徐々に"技術チート"を開示している。磯城の場合は、枢密院本会議での未来書の段階的翻訳、初冠の場合は紋別や各戦地といった現場での実践的な史実知識導入によって、これを図っている。
両人ともに、保身はバッチリやっているわけだ。忌々しい。」
一歩踏み外せば命が事切れる道を逆行者たちが歩んできたことに、有栖川宮は目を見開いて驚く。
枢密院に留まった磯城はともかくとして、初冠は追放者という非常に危険な立ち位置で、何度も最前線に送られながらも、今もああして生き延びている。
紛い物などではなく、本物の奇跡という他ない。
「しかし…皇國に害を為すようになれば、今とて容赦なく殺すつもりだ。」
農業革命やフォード誘致、機甲戦力の整備など皇國への多大な成果を齎しているのは認めるが、ハワイ救出作戦のように不必要な軍事行動を取ったりすることもある。
磯城と違って博打的な初冠は、ハイリスクハイリターン型ゆえの対応を考慮しなければならない、と伊藤は総括する。
「それは"
そう言い残して、伊藤博文は去っていく。それは実に迷いのない足取りであった。
枢密院の英傑たちは、その知性の灯火を消してはいなかった。
――その信念の正誤は、別にして。
―――――――――
「おう、遅かったな。」
「すみません、おまたせしたみたいで……」
秋山が僕のことを外で待っていた。
「どうでした?」
「松方蔵相は相変わらずだ。そしてその他も――相変わらずだ。」
「そうでしたか…。」
まぁ驚きはしない。肝心の逆行者がアレだからな。
「とりあえず帰るとしよう。もうそろそろ、全土に総動員例が下るからな。」
「……もう、戦前は終わるんですね。」
「ああ。艦隊は佐世保に集結しつつある。」
「来月には旅順口ですか。」
「ああ。開戦はすぐそこだ。」
内部に大きな不安と亀裂を抱えながら、皇國は戦闘準備を完了した。
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