廻天の先へ

「ふぅん?」


有栖川宮の令嬢はそう言って頷く。


飛行船開発。

10年前、日清戦争に向けて準備された武器開発計画の中でお雇い外国人として招待された、初期飛行船の開発者のフランス人・ジファールとユダヤ人のシュヴァルツは、今も皇國において飛行船の開発を進めていた。


「ええ、本当に私は感謝しています。ロシアで詐欺師扱いをされどん底に落ちた私を、あの時貴女様のお師匠様、松方蔵相閣下が救っていただかなかったなら、既に私は逮捕されて獄中で死んでいたかもしれません…!」


咲来裲花はそれを聞いて有栖川宮に静かに耳打ちする。


「どういうこと?」

「彼がロシアで飛行船の研究をしていた頃、彼の実験で彼の飛行船は爆発炎上しましてよ。いかさま師呼ばわりされ、迫害を受けかけましたの――」


これは当時のロシアでは大規模なユダヤ迫害運動ポグロムが起こっていたことも起因しているかもしれませんわ、と有栖川宮は付け足す。


御存知の通り帝政ロシアの監獄は、中世ヨーロッパの奴隷のほうがまだ生易しいと感じてしまうくらいのおぞましいものである。まず初手シベリアに間違いなく片道切符で、ろくな食事ナシで氷点下40度の中、強制労働と寝て起きての繰り返し。


……100年後も変わってなくない?、と裲花は思ったが口には出さない。


「彼は史実、幸運にもロシアを逃れ、ドイツに移りましてよ。この世界線では松方蔵相によって救われて亡命していますの。」


有栖川宮はそこで一旦会話を打ち切る。

これ以上仲間内で日本語を交わしては、非礼に当たろう。


「いえいえ、わたくしたちも貴方に救われていますわ。貴方にいらっしゃらなければ、北京降下はできず、賠償金はあまり取れずに、十分な次への準備が出来ず―――我々は次、負けていましたわ。」


「それでも私は救われました。ですから…、

 恩人の貴女がたに紹介したい方がいるんです。……お願い致します。」


シュヴァルツが下がる。そして、代わりに出てきた男。


「同胞を救っていただきましたこと、感謝申し上げます。私は名を、ジェイコブ・シフと申します。ドイツ生まれ、合衆国の銀行家です。」


或る一人のユダヤ人を救った結果、この男がついてきた。

そう、有栖川宮は内心で狂喜乱舞する。


(――ジェイコブ・ヘンリー・シフ?)


裲花は暫しこの男についての記憶を探る。


(民族主義者で、ユダヤ迫害を行ってきたロシアに対しての強い憎悪から…史実では高橋是清の求めに応じて日露戦争の際に戦時国債を大量購入、全面支援してくれたのよね)


ロシア敗戦と崩壊への道をこじ開けた人物で、後に勲一等旭日大綬章を明治天皇より授けられる男である。


この世界線でも、日清戦争賠償金が史実の2倍以上あったとはいえ、その大半を経済成長のために内需へ回しており、軍事費は依然不足。

初戦持ちこたえられるか不安が残る。


(しかも次の戦争、世界の予想はあらかた…皇國の惨敗という見方が主流で、誰も戦費を融資してくれる者などいないものね。この男を頼るのは確定事項ではあったのかしら。)


こっちから会いに行くので骨が折れそうだと思った矢先、これである。

イッツ・ア・スモールワールド!と有栖川宮は感涙しかけていた。


先のシュヴァルツが退出するのを待ってから、シフは口を開く。


「……単刀直入に聞きます。


「…随分と、北の熊共がお嫌いなようでいらっしゃって。」

「それは貴方がたも同じだと存じ上げますが?日本人は和を尊ぶとは言いますが、戦勝したにも関わらず千島を盗られて、笑っていられるほどじゃない。違います?」

「いえ全く。1891年明二四年動乱の屈辱は忘れられるわけが…ありませんもの。」


有栖川宮の瞳には悔恨が灯る。

あの動乱は皇國内部のせいだ、などとは口が裂けても言えないだろう。


「私も、忘れない。幾千の同胞が北の大地で飢え死んだか。」


シフの瞳には憎悪が浮かぶ。

互いの瞳の色を確認しあい、二人は不敵に笑い合う。


「貴方だけですのよ。皇國に賭けるなどという無謀に出られますのは。」

「どこが無謀なのか私には理解できませんがね。私情も無論ありますが――勝算はそれ以上に、十分ある。そうじゃなければ、銀行家ってのは動きませんよ。」

「こんな極東の猿に、何を期待されていらっしゃって?」

「なかなかうまいジョークですな。ですが私は、空を制覇し、空から攻撃を敢行しようとする―――””を使いこなす猿なんて、聞いたことがありません。」


有栖川宮の目が驚愕に見開かれた。


「その単語は本来関係者しか知らないはずですが…。」

「本当に貴方がたにロシア征伐を任せていいのか。その実力はあるのか。我が生涯の復讐のため、死に物狂いで、この目でこの国の軍を見て回ってきたんですよ。

 そのぐらいわかってなくちゃ、あなたも答えてくれない。そうでしょう?」

「…降参ですわ。1904年中頃、開戦予定でしてよ。これでよろしくって?」


それを聞いてシフは暫し黙り込んだが、おもむろに首を縦に振った。


「ええ。――初期投資は2億円で構いませんか?」


裲花は、一瞬口を大きく開きかけた。

有栖川宮でさえ、ぽかんとしている。


「……失礼致しますわ、もう一回言っていただけて?」

「初期投資は2億円で構いませんか?」

「…はい?」

「少なければ3億までなら大丈夫でs―――」

「いえいえいえ、勝てるかどうかわからない段階で2億をも!??」


もうぶっ飛んだ値段であり、話なのだ。

交渉皇國側の女子二人は呆然とする。


「その分、成果は――いえ、散々見てきました、心配の必要はないでしょう。

 ですが……必ずその黄色い手でロシアを叩き潰し、ロシアの自尊心を粉々に破壊してください。必ずです。」


婉曲的に、黄色人種の手で粋がっていた白人どもを葬れ、と告げるシフ。

「有色人種に負ける」という白人最初の屈辱を舐める国家をロシアにしようとするあたり、実に執念深い。


「黄色い、ですか…。」


その言葉につい反応してしまう。10年前まであった租界では、連日のようにその称号のもと、日本人が無抵抗のままその被害に遭ってきた。


「ああ、一応断っておきますが私は白人至上主義者ではありません。

 黄色人種だろうと、白人だろうと、皆同じですからね。」


そこまでだけ聞くと、シフのことが、ただの善人、物語の完全な味方で、よき理解者であるように思えてしまう――。


だが、続いて出てくる言葉が違うということを、有栖川宮も裲花も知っている。


「我らの前では、ほかのいかなる優劣観も無に帰します。

 我々ユダヤ民族のみが――誉れある『神に選ばれた民族』なのですから。」


この選民思想が、2000年続くユダヤ迫害の根本的原因であることは自明の理であろう。これを基盤にして他民族との関係を築こうとするユダヤ人たちが、他から傲慢に思われてもおかしくはない。


(東エルサレム共和国だなんて、夢物語よね…。)


だからこそ彼らと手を取り合ってどこまでも、なんてよくある火葬戦記のように単調に行かないのが現実なのだ。

どう折り合いをつけるかは本当に難しい話である。


「我ら以外の全ての民は、神に選ばれなかった。神が見捨てなさったのだ。それは、貴方達とて変わらないことを――胸に刻んでおかれるのをお勧めいたします。」


そう言って、シフは立ち上がる。

彼はその後に何も言い残すことはなく、静かに退出していった。


(思想を掲げているだけなら隣みたいに放置すればよろしいのですけれども…。世界経済を完全に掌握し操作しているあたり、お隣さんよりよっぽどタチが悪いですわ…。)


有栖川宮は正直な心境を吐露した。




・・・・・・

・・・・

・・




「ツェッペリン伯爵閣下……なぜ日本語を…!?」


ドイツ語わからないからこそ逃げていたんだが。

なら、彼女らとの対談は何だったのか。


「この国に来て早3年になります。習得なんてこの期間だけで十分ですよ。」


僕は海外留学の経験がないから、それが丁度いいのか速いのかはわからない。


「…な、ならなぜ有栖川宮殿下とはドイツ語で??」

「祖国の言葉で話すからこそ、彼女の人となりについてわかることはたくさんありますから。」

「は、はぁ。」


ツェッペリンは厚い曇天を見上げていた。

しばらく話すことがなく、二人並んで空を見てると、突然ツェッペリンが問いかけてきた。


「空は好きですか?」

「…どうでしょうね。あいにく仕事で飛んだことくらいしか無いので。」


するとツェッペリンは目を細めて言った。


「その仕事とは……”北京”ですね?」

「っ―……、回答できかねます。」


一瞬、当てられたことに戸惑ったが、すぐに取り繕う。

迂闊な発言は許されない。


「空を飛んでみませんか?」

「……え?」




・・・・・・

・・・・

・・




「……おお、こりゃでかい…!」


北京空挺降下の時僕らが乗ったモノよりも遥かに大きくなっていた。

全長155m。巨大すぎる。

船内に入って、構造をツェッペリンに確認してみる。



『試製明三五式爆撃機』

積載量 5t

航続距離 3700km

最高速度 75km/h

積載巡航 55km/h

高度限界 5200m



「航続距離……3700km!?」


北京降下で使用した飛行船――軟式飛行船という初歩的な飛行船らしいが、航続距離はどう足掻いても450kmを超えることはなく、使い捨てで北京に降下した。


だが、この硬式飛行船というものは、一気に航続距離を8倍にまで伸ばしたのだ。3700kmは、旅順からウラジオストクへ飛行船を飛ばして2往復できる距離だ。

高度限界もめちゃくちゃ高くなっているし、速度も積載量もそうだ。これが全長155mの恩恵なのだろうか。


「この飛行船は、アルミニウムなどの軽金属の外皮を被せた枠組構造内に、水素ガスを詰めた複数の気嚢を収容しています。乗客や乗員の乗る居住空間が枠組構造の底部に取り付けられていて、動力源はレシプロエンジンです。」


ツェッペリンが説明してくれる。


「従来は、ガス袋そのものを船体としていたため、変形しやすくなり、高速飛行は不可能ででした。硬式飛行船はアルミニウム合金の多角形横材と縦通材で作られた骨格を張線で補強、その上へ布を張って流線形の船体を構成し、ガス袋を横材間に収めることで、船体とガス浮遊袋の分離を実現しました。」


このような構造をもつ硬式飛行船は、船体の外形を保持することができ、飛行機よりは遅いものの、駆逐艦には追尾できない高速を発揮、飛行船は実用的な空の輸送手段となる、とのことらしい。


始終、ツェッペリンは楽しそうに語って聞かせてくれた。

僕は、心底飛行船のことが好きなんだなと感じた。


そうして、漸く思い出した。


「……”ツェッペリン飛行船”…。」


飛行船といえばツェッペリン。そう平成でも教わっていた。

今や向こうは陛下がとっくに退位されて別の時代になっているだろうけれど、ツェッペリンの名はまだ伝わり続けているだろう。


飛行船は限界高度に近づき、そして分厚く暗い雲を突き抜け、外へ出た。


「……綺麗だなぁ…。」


無意識に、そう漏れていた。

下を見ればどこまでも広がる雲海。その上はどこまでも、遥か澄み渡る碧天。


「私は、この平和な空を、飛びたくて飛びたくてたまりませんでした。」


ツェッペリンは何処かはるか遠くを見つめながら語りだす。


「小さい頃からずっと憧れて。鳥たちの飛ぶ、他の誰もいない自由な世界に。」

「………。」


平和で自由な空、か。

生憎、僕にとって初めての空は、戦場だった。


、美しいとは思いませんか?この戦のない空間は。」


ツェッペリンが視線を僕に戻す。

戦争なき理想を、戦争を専門職業にする軍人に語る彼。


その思惑を測りかねつつも、僕も口を開いて返す。


「いくら美しかろうとも…、人間とは留まることのない欲求でできてます。

 楽をしたいから石器を作り、言語を話し、空を飛べるまで文明を築き上げました。ゆえに、人間が欲望を衝突させない…戦争のない世界は、ありえないんでしょう。

 ……だから、。」


ツェッペリンは笑って、そして上を見上げた。

布一枚隔てて、永久に高く在り続ける空が広がっている。


「実際、私が自由を求めて高くまで舞い上がっても、すぐ他の人間もその高さまで昇ってくる。人間はその高さまでを活動範囲とし…いずれ、その空は戦場になる。

 だから私は、どこまでも高さを追い求める。誰も追いつけないよう、どこまでも高く飛んで行く。果てしなく遠い、平和なる高空を目指して。」


かつては、平和と自由の象徴と永く謳われてきた空。

それは実際、長く人間の手が届かない世界だったからに過ぎないのだ。


二度の大戦、そしてその後も、多くの命がその空で散った。

結局、人類の手の届くところは例外なく、戦場へと変わるのだろう。



(けれど、例外もあった……な。)


確かに、地上408kmの宇宙空間に存在したのだ。

宇宙飛行士という共通の職業を持つ、非常に多くの人種が交錯しながら平和のうちに共存する世界が。



――広すぎる宇宙ならば、人は戦争を絶やすことができるのだろうか。



だとすれば、彼が望む平和の高空は、何も孤高なる世界ではなくても十分だろう。


人が宇宙そらの先へ足跡を残した、65年も後の偉業に思いを馳せる。

それを踏まえて、『自由の空』に憧れた彼に、贈る言葉があるならば。


「廻り続ける天の彼方――、人は月にだって旅の跡を記せます。きっと、必ず。」


ツェッペリンは、変わらぬ優しげな笑顔で、頷いた。

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