二章 暁紅、極東を染む
始動
李鴻章は条約に調印した。
その手は震えていた。
そして、静かに退出していった。
有史、蛮族と見下してきた国家に、清朝は完封された。
講和条約の条文は、それを静かに、しかしはっきりと語っていた。
下関条約
・清朝は「大韓帝国」の完全独立を容認し、朝貢を永続的に廃止する。
・清朝は奉天省、台湾及び澎湖諸島を皇國へ割譲する。
・清朝は賠償金3億両を支払う。
・皇國は福州南台島を99年間租借する。
・今後清朝皇帝の領土と皇國天皇の領土の間で領土の変更がある場合、領土を獲得する国家が、割譲する国家に対し1億両を支払う。
・清朝は6港を皇國に開放し最恵国待遇を認める。
明治28(1895)年5月8日 両国批准
―――――――――
「改めて訊くけど、逆行者ってどういう意味?文字通りでいいのかしら」
「そうだな、全くそのとおり。」
僕は質問攻めに遭っていた。
「どういうこと?110年先の世界って言うわけ?」
「具体的な年までよく覚えてるな…、そんなもんだよ」
「どうして逆行してきたのよ。と言うか還らないの?」
「還れるなら召喚直後に帰ってたわい。できなかったからここにいるのだよ君」
裲はこめかみに人差し指を当てて溜息を付いた。
「ほんとよくわかんないわねあんたは」
「そうだろうな。僕もわからないから逆にお前分かったら怖いよ」
「相変わらず適当に口だけは回すのね」
怒らせかけた。少し真面目になろう。
「…はぁ、多分お前だったら、これ見てわかるだろ」
一枚の巨大な紙を彼女の方へ滑らせる。
「これって……」
そこには、見慣れたメルカトル図法で、大陸が6つ。
しかし、明治人にとっては、そこに引かれた線と文字に首を傾げるだろう。
「”イギリス” "フランス"…は、わかるけど…、"ポーランド" "フィンランド"とか、聞いたことのない国名ばかり。他には…"中華人民共和国"、……ここらへんやたら国名が長いのね…。"朝鮮民主主義じゅっ……朝鮮民sうっ、朝鮮民主主主義…、朝鮮みゅん主主義じぇ、……北部朝鮮とか。」
諦めちゃった。これで向こうだったら公開処刑だな。
「見た感じ古地図でもないようだし…、――あぁ、そういうこと?」
「ご明察」
そう返しておく。
彼女は何処までも頭がいい。察せないはずがない。
「ロシア、は帝政じゃなくなったのね。連邦…、共和国ってことかしら」
「比較的新しい国だよ。20年位しか歴史はない。」
「その前にまたこの連邦とはまた別の国家があったってこと?」
「ソビエト連邦っていう合衆国と世界を二分した超大国があった。」
裲は顎に手を置いて微考して、つぶやく。
「やっぱり、合衆国は世界最強の列強になるのね…。」
「やっぱりってどういうこと?察してたの?」
「広大で肥沃な国土、資源は何でもかんでも大量に採れる、人口は移り住んでくるから勝手に増加し続ける。敵に回すべき国じゃないわね」
「…帝大入って、どうぞ。」
「肝心の皇國は……、今とあまり変わらないわね。」
地図中心から少し左にずれた列島を、その細い指でなぞりながら彼女はそう零した。
「敢えて言うなら…、獲得したはずの奉天省と台湾を失ってるってところかしら」
「そうそう、そんな感じ。」
「この世界で歴史改変が始まったのは、明治21年…西暦1888年からでしょう?」
彼女の問いかけに首を縦に振ると、彼女は再び思考する。
「ということは史実線では日清戦争に勝てなかったってこと…?」
「いや―――」
「駄目ね、百数十年という年月だもの、もう少し視界を広く持たないと。」
僕が訂正するまでもなく、彼女は気付けするように自らの頬を両手で叩く。
「清朝はこの体たらくだもの、流石に勝てる。ロシアも同じようなものだから、対露戦争も、国力ゴリゴリ削って引き分けか惜敗でしょうね。ここまで領土を削られはしないはず。」
裲は額に手を置いて考えふける。
「だとしたら、皇國を打ち倒したのは…?
列強に返り咲いた中華王朝…、もしくはロシアのうんたら連邦、或いは東から――あぁ、これが一番ありうる。合衆国かしら。」
「うっわご明察。それ全部正解。」
結局、史実の帝国は、中華に勝てず、合衆国にボロ負けし、ソ連に北部を奪われた。僕は改めて、彼女の優秀さを思い知る。
「今から丁度50年、半世紀後…西暦1945年夏、…『大日本帝国』は、第二次世界大戦と呼ばれる戦争に完敗、合衆国、大英、ソ連邦、中華民国の四カ国に無条件降伏、解体されることになる。」
それを聞いた裲は目を丸くする。
「…馬鹿じゃないの?それら4カ国相手に同時に戦争してたの?」
「僕に言われても…。でも、だからこそ枢密院が存在するんだよ。そういう悲劇と破滅に導かないようにするために、ってわけ。とりあえずの枢密の当面の目標は、太平洋戦争の敗戦回避で、僕らの会合もその下部組織だから目標は当然同じってわけ。」
「うぅん、そういうわけね…。」
彼女はパンと手を叩いて立ち上がった。
「まぁ、大抵の事情はわかったわ。」
妙に納得したような彼女の姿に疑問を感じる。
「……もう少し聞き出そうとは思わないのか?」
「まさか、なんでよ」
「いや、普通ならもうちょっと興味持つかなぁって。」
彼女はそれを訊くとからからと笑った。
「何を今更、あんたもあたしも、十分普通じゃないわよ。」
「…そこかよ」
「ええ、そこよ。もう歴史は歪み始めていて、史実という道は歩むことはないんでしょう?だったら、知るだけ無駄ってのがあたしの考え。だってもしも深くまで知り過ぎたら、逆にそれに縛られちゃうこともあり得るのよ。現に先の動乱のときの枢密がその最たる例ね。」
僕は今度こそ、
今の一瞬で、明二四年動乱の最たる原因を言い当てた。
そして、だからこそ知らないままにしておくという姿勢は、脱帽モノだ。
「それに、歴史だか史実だか、そんなのはどうでもいいでしょ」
「…?」
「あんたのことよ。それが一番問題でしょう?」
首をかしげる。
裲は溜息をついた。
「自覚なさいよ。当然向こうには家族や友人はいたんでしょ?あたしはそういうのほぼ持ったことがないからよくわかんないけど」
「なにかと思ったら…、歴史云々よりもそんなことかよ。」
変わり者だ。
未来云々前に、僕のことか。
「ま、しゃぁない。過去の話だ。」
「ふぅん」
「……還りたいことは否定しない。けれど、この世界を捨てて還るかと言われれば、そうでもない。」
おおよそ漠然としていて、表現がつかない。
「もし還れることになって…選択を迫られた時、多分僕の手は止まる。」
馬鹿げた仮定は許して欲しい。
ただ、少なくともこの世界においての7年間を、前世の15年間と価値で比較することが出来ないという、情けない小話だ。
「選択しなきゃいけない、か。」
多分、これからもこの世界で生きていく以上『選択』を強いられる時は来る。
僕は、何を捨て、何を拾うのだろう。
されどせめて、その選択を後で悔やむことがないように。
そんなことを祈りつつ。
雪の降りしきる中。
旭川士官学校の僕ら5期生へ向けた、卒業喇叭が響く。
・・・・・・
・・・・
・・
―――――――――
明治29(1896)年3月16日 函館
『函館桟橋、函館桟橋――。
青函連絡船へお乗換えのお客様は、ホームをそのままお進みください。』
旭川からの急行列車が、函館駅の桟橋ホームに滑り込む。
開いた客車の扉からは夥しい数の旅人が、青森桟橋行きの連絡船を目指して、続々と降車場を抜けていく。
「はっ、はぁぁぁああああ!!!?」
そこへ響き渡った叫びに旅人たちは一斉に振り向いて、その声の主――銀髪の少女を視界に入れるや否や、その珍しさと可憐さに呆気にとられて固まってしまう。
「しッ!…っ、お二方こっちへ!」
衆目を集め始めてしまった裲ともうひとりを、大慌てで僕は物陰に引きずり込む。
これじゃ誘拐犯そのものじゃねぇか、鉄道警察ホイホイだよと嘆きながら。
「もう少し静かにしてくれって…!」
「で、でも有栖川先生が…み、みみ、宮様って…!?」
「だからバレたらヤバいんだって!!」
困ったように有栖川――もとい、令嬢殿下が肩を竦める。
「黙っていて悪かった…と申し上げられれば良いのですけれど、わたくしから堂々公表するわけにはいかなくってよ。」
当然ではある。
北限都市の旭川とて、皇女が一人でいると知れたら盗賊やらなんやらに身柄を狙われかねない。
「でも流石にこれは不意打ちすぎよ!?お、恩師が、こここ皇女殿下だなんて!」
「ああそうだとも僕だって意味わかんなかったよ!おかげで北京の降伏式典の記憶がサッパリだ!」
「どうだっていいでしょそんなの!?あんた宮様の御前よ!?」
「どうだってよくねぇよ歴史の一大転換点だぞ!!?」
馬鹿騒ぎが青森駅の構内の一角に響く。
やれやれと令嬢殿下は首を振った。
「はぁ…。貴方がたは今や、この旭川士学の立派な卒業生なのでしてよ?もっとしゃんとしてくださいまし。」
「「っ、すみません…」」
僕と裲は、旭川幼年士官学校を卒業した。
僕は通じて研究室に籠もり、授業にはあまり出なかったためか席次はギリギリで6位、首席以下優秀者陣の最末席に滑り込み。
なお裲に関しては涼しい顔して次席卒業。こいつぅ、、、
そして向かうは――士官科の本科である、帝都の陸軍士官学校。
合格をつかみ取り、春より帝都行きとのことであった。
「それだけではありませんわよ。
枢密院から、補佐機関の組織命令が出ていてはなくって?」
「…ご存知でしたか」
「ええ。枢密院の会議には幾度か足を運んでいましてよ」
令嬢殿下が言うのは、歴史改変の補佐組織を欲していた枢密が、明二四年動乱から日清戦争まで通じての「もうひとりの逆行者」の経歴へと目を留めたという話だ。
しかし、そうなると殿下はもしかして僕が逆行者であるとか、『史実』の存在とか、そういうのを知っているのではなかろうか?いや、ここで深入りして詮索する利益もないし訊くのはやめておくが。
「枢密院の補佐組織とはいえ…、兵器開発、生産、兵站管理に関する研究と調査、そして極めて限定的ではあるが…その遂行の権限を得ますのよ。」
「旭川の研究棟における成果がしっかり評価されたみたいね、…ですね?」
令嬢殿下の説明に裲が感慨深げにそう漏らし、慌てて語尾を直す。
「お構いなく。…句読点なんて堅苦しい、裲花ちゃんらしくありませんわ?」
「…なら。殿下がそう仰るなら外すけど……」
話を戻そう。
当該「補佐機関」の組織の定義は極めて曖昧だ。まぁ、枢密院の英傑たちの気まぐれ、もしくはお遊び程度であると考えていいだろう。
難しいことやわからないことがあれば伊地知に聞くだろうし、令嬢殿下や場合によっては松方蔵相に連絡を取ればいい。固く構えるような話じゃない。
まぁ、そんな集まりになりそうだ。
「あ、折角ですもの。この機関の名称はお決めに?」
裲が小首を傾げる。
「いいえ、まだよね?」
「あ、あぁ。……殿下、なにかご希望あります?」
そう訪ねて令嬢殿下を見たが、殿下は目を瞑って首を横に振る。
そうしてこちらに微笑みかけた。
(こっちで考えていい、ってことか…?)
「いわば談合、なんですね?」
「……あ、あんたの考えてることわかった。」
裲と共に、僕はその名を出す。
「「”
声重なって、僕らは少しばかり笑った。
「……アウスグライヒ?」
令嬢殿下は首を傾げる。
「アウスグライヒ――”妥協”の意味を持つ言葉ですが――は、
「この体制を『二重帝国』と呼ぶのよね。アウスグライヒは、帝冠聯邦と王冠諸邦が二重帝国の方針を決める会議となって、実質的にも”妥協”になった、かしら。」
くすり、殿下は声を零す。
「なるほど、お似合いですわ。」
3人で視線を交わし、笑い合った。
暫しして、乗船締切時刻を迎える。
『間もなく、青森ゆき連絡船が出港致します。ご乗船のお客様はお急ぎ――』
「有栖川宮――…いえ、有栖川先生。」
僕らは頭を深く下げる。
「「長い間、本当に有難うございました。」」
わざわざ函館まで出迎えに来て頂けるほどには、世話になってきた。
殿下は溜息をつく。
「今生の別れというわけでもございませんのに…。
ご存じの通りわたくしの旭川への着任期間は31年末。2年後には、あなたがたの後を追う形で帝都に戻ることが決まっていますのよ?」
「それでも、手を焼かせてしまいましたから」
「よく仰りますわ」
殿下の言葉に、裲がくすくすと笑った。
少しばかり令嬢殿下は空を仰ぐ。
雲ひとつ無い快晴。
船出にはこの上ない好天であった。
「再来年には、帝都に戻って…そうですわね、『
「首を長くしてお待ちしていますよ、先生。」
僕らは、桟橋からタラップに足を掛ける。
「おふたりとも、お身体には十分お気をつけなさいまし!」
「そちらこそ、寒さにはくれぐれも!」
おもむろに、裲が駆け戻って、マフラーを投げ渡す。
「…気に入らなかったら、捨ててちょうだい」
函館本線の車中でずっと何かを編んでると思ったら、コレだったのか。
納得していると、それを受け取った令嬢殿下が微笑む。
「感謝申し上げます。大切に使わせて頂きますわ。」
タラップが仕舞われ始め、慌てて僕らは船内へ進む。
まもなく汽船が、ボーッ!と舟笛を鳴らし、黒煙を吹きつつ、桟橋を離れ始めた。
互いに手を振ること1,2分。
令嬢殿下は点になって、桟橋が霞んで、雄大な函館湾の全景が姿を現した。
「…出発、か。」
少年期を通じて過ごした旭川を後にして、母なる北の大地を旅立つ。
どこか寂しくも、悔いのない船出だった。
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