閑話 豊島沖海戦 後編

「おもしれぇ…、おもしれぇよ、清国北洋艦隊!!」


東郷は高らかに笑った。

敵艦隊に丁字戦法を図られ、危機に瀕している艦隊の司令室で。

丁字戦を知らない周りは、自軍の危機にすら気付かず、様変わりした東郷を前に狼狽えるばかり。


一通り笑った後、東郷は叫んだ。


「取舵90、左大回頭急げ!!」


(ここで、丁字戦法の有効性を世界に悟らせる訳にはいかない。

 さもなければ我々は、ロシアに勝てない…!!)


艦が大きく傾斜し、曲がる。

針路を北洋艦隊と同方向にして、同航戦に持ち込む構えだ。

きっと他の艦もそう動く。


というかそうしなければ死ぬだけだ。


「発砲炎確認!」


見張員が叫ぶ。北洋艦隊の斉射だ。


「伏せろ、デカイのが来る!」


当然、先頭の浪速に攻撃は集中する。

炸裂、轟音。司令室の窓の外は一瞬にして一面炎と化した。


「艦首被弾、浸水確認!」

「バルブ閉めろ、艦尾注水開始!」

「前方主砲旋回及び仰角制御不能!」

「弾薬庫隔壁閉鎖!」


「クソ、主砲をやられたか…。だがここで屈する浪速ではない!」


(回頭中は照準が出来ず、砲撃できないからな。終わり次第で反撃開始だ…!)


枢密立案の作戦は史実の豊島沖海戦をベースに立案されているため、敵を突破して同航戦に持ち込むのが基本戦略となっている。


だが、丁字不利という状況下で枢密の作戦を頑なに曲げず突破にかかる馬鹿はいないだろう。そう目論んだ東郷だったが、煙が晴れてゆくと同時にそれが裏切られる。


「トチ狂ったかッ!?」


先頭を航走する戦艦富士は、丁字不利という絶望的な状況にもかかわらず、枢密が立案した作戦を馬鹿正直に、丁字戦法をとった相手に突撃を開始したのだ。


「富士から交信です!『浪速に告ぐ、戦列を乱すな。当初の予定通り突撃する。』」


ほぼ同時に入ってきたその富士司令部からの言葉に、東郷は耳を疑った。


「はぁ……!?」


「艦隊司令部は当初の作戦を遂行するつもりのようです!」


東郷は机を思い切り叩いた。


「富士に返信!『速やかに回頭せよ。貴艦は自殺行為をしている』だ!!」


「富士から返信!『枢密立案の作戦は絶対である。当場面も踏まえの作戦であろう。天才が数日かけて編み出した戦略に、我ら凡人の浅知恵など敵わぬと知れ。繰り返す、”浪速”突撃せよ。』とのことです!」


これを訊いて、東郷はあいた口が塞がらなかった。


(まさか…、連合艦隊司令部たる連中が、『枢密は絶対に間違えないから、それに従うべき』とでも考えてやがるのかぁ…!?)


彼は、この砲弾が飛び合う地獄の狂騒の如き戦場には似合わないほどに静かに、拳を震わせた。


「絶対に間違えない天才、だぁ!?」


東郷はダン、と机上を張り飛ばす。


「そんなものは…そんな押しつけは、縋りよりは…!

 ただの盲信で何よりも醜い思考放棄でしかないだろうがッ!!」


こうしている間にも戦場では刻々と時は過ぎてゆく。

一隻だけ大きく突出した戦艦富士は、清朝艦砲すべての照準の先に捉えられた。


「敵うはずがない?従っていればいい?」


一斉に清朝北洋艦隊が咆哮した。


「そうやって『思考する』という士官の本職を掃き捨てる?」


弾道はまっすぐ、狙われるは戦艦富士ただ一隻。


「第一遊撃隊の司令塔たぁ、大層なゴミどもだなぁッ!!」


無慈悲にも、ヒュルルルル―――と、敵弾の接近音が、耳を切り裂く。


(やはり、枢密院は皇國に仇をなす――!)


刹那。


ドォオォオォ――ン!!!


轟音。

東郷は艦隊先頭を睨み続ける。


先頭の艦が燃えていた。


「戦艦富士、被弾!」


戦艦富士の司令塔が、派手に爆炎を吹き上げている。

艦橋から水兵が飛び降り、脱出している様子が伺えた。


「交信!司令部の安否を確認!」


東郷は命令する。その間にも富士は戦列の先頭にいたことから、敵北洋艦隊の集中砲火に晒され、弾丸が降り注ぐ。2発目の命中弾は甲板を突き破って内部で爆発した。苦し紛れに艦を制御しようとするも、戦艦富士はみるみる戦列から落伍していく。


「富士より返信。伊東中将以下艦隊司令部、全滅と思われます!!」


防護巡洋艦浪速の司令部に衝撃が走る。


「返信続く、”我、機関部に命中弾。大破炎上、航行不能”!」


東郷はすかさず指示を飛ばす。


「富士に続く各艦、左へ退避。衝突だけはなんとしてでも回避せよ!!」


「艦隊司令部が全滅です、指揮系統はどうするのでしょうか!」


副長が砲弾降りしきる中、東郷に聞いた。

彼は奥歯を噛み締め命じる。


「旗艦の航行不能、艦隊司令部の総員戦死…。条件は満たされている。

 ――全艦に告げ、”旗艦『浪速』に委譲。我、これより砲撃戦の指揮を執る”!」


何時ぞやの、運命の海戦の宣告を吐き出した。


「現時刻を以て第一遊撃隊旗艦は”浪速”へ、東郷平八郎は艦隊司令長官とする!」


間髪入れずに東郷は指示する。


「艦隊、陣形を保ちながら最大戦速、浪速は前方へ!」


再び後方から爆音がする。


「後続の”吉野”被弾!」

「機関部に被弾した模様、”吉野”速力落ちます!」


同時に左回頭が終わる。第一遊撃隊が今、北洋艦隊より勝る点は、速力、速射性、練度だ。


「構わん、最大戦速!砲撃戦用意!!」


(……?速力…。)


”速力”という単語が引っかかった。そして東郷はひらめいた。


(少々最初の計画とは違うが、やってみる価値はある…!)


東郷は濃霧の先に霞んで見える敵艦隊に目を遣った。先頭から順に、防巡”致遠”、防巡”済遠”そしておそらく定遠級戦艦と装甲巡洋艦が続いている。しかし、練度の低さと技術力の低さが露呈し、先頭の比較的高速な艦の”致遠”と低速艦の”済遠”の距離が大きく開いている。


丁字戦法はその効力の反面、実施するのがかなり難しい。敵の前面を抑え、抜けられない様にするために、速度調整、操舵など、かなりの高練度を必要とする。今の北洋艦隊はそれが足りずに、未完全な物となっている。


(あの艦隊を操る”奴”ならば、こちらの狙いは分かるだろう。)


その為には続く”吉野”と”秋津洲”を退避させる必要がある。


(ならば、敵の注意をこの”浪速”に向ければいい。囮は、我々が引き受ける…!)


敵が同航戦に移すまいと、第一遊撃隊の進路を塞ぎにかかる。敵北洋艦隊はその数を増やしていた。おそらく、定遠級戦艦1番艦の定遠、装甲巡洋艦の經遠と来遠が駆けつけたと見ていいだろう。


「後続艦に通告、”全速後退、離脱せよ”。」


「!?それでは戦闘が!」


「それでいい、速やかに!」


「ですが!」


「艦隊司令官命令だ、急げ!」


「はっ!」


渋々と承諾して走っていく姿を見送り、東郷は次の指示を出す。


「砲撃用意、照準、敵艦隊先頭2番目、防護巡洋艦”致遠”!」


大きく艦が揺れた。


「右舷被弾、炎上中!」

「速やかに消火せよ!」


(またも試製無線を使うことになるとは…、計画変更だし、仕方ない。あの艦隊に打つか。)


そう言って東郷は”突入開始、ただし2番艦を狙え”と、電文を打った。この間に、北洋艦隊は再び第一遊撃隊の進路を塞ぐことに成功した。既に、逃げ道はない。一方後退した吉野と秋津洲は、上手く濃霧に隠れることが出来、北洋艦隊の目からそらすことが出来た。


すなわち、戦艦2隻を中核とする計7隻の大艦隊を前に挑むのは、防護巡洋艦ただ1隻。普通なら、勝算はない。


「最大戦速、死ぬ気で行くぞ。」


「はっ!」


死闘が―――始まる。


「左舷被弾、浸水拡大中!」

「隔壁閉鎖!右舷に注水、速度を落とさせるな!!」

「第一砲塔、再び被弾!」

「第一砲塔の火薬庫は全て封鎖し注水せよ!誘爆は防げ!」

「後部甲板炎上中!」

「消火急げ!」

「右舷第二機関故障、戦速下がります!」

「右舷最大戦速維持!左舷は2段階落とせ!」


満身創痍の字のごとく、浪速は本来の姿がわからないほどにボロボロになっている。

それでも機関は必死に唸りを上げて進む。21ノット、限界をこえて。

目指すは、側面を見せ砲撃する、北洋艦隊一直線。退路は、無い。


(これ以上は、”浪速”が耐えられん…。頼む、来てくれ…!!)


まだ見えぬ”あの艦隊”に祈る。


「左舷夾叉!」


大きく艦が揺れる。備品は既に床に散乱し、元の位置すら見当がつかない。


「敵艦隊斉射!!」


東郷は悟りかけた。浪速は負けたのだと。


―――その瞬間。




水柱が上がる。爆炎を上げる。



”済遠”が。――向こうに見える北洋艦隊、先頭から2番目。


「やっと来てくれたか、―――第一水雷戦隊…!!」




―――――――――




「お待たせしました、東郷さん。」


鈴木貫太郎・第一水雷戦隊司令官は呟いた。

史実、内閣総理大臣という立場で、「大日本帝國」の最期を看取ることとなる男が率いる、第一水雷戦隊。その名の通り水雷艇20隻で編成されたこの部隊は遂に決戦場であるこの豊島沖に到着した。


濃霧の中、その小柄な船体も相まって全く北洋艦隊に気づかれることなく近寄ることが出来た。魚雷射程範囲に突入する。目標は、北洋艦隊先頭から2番目、”済遠”。

「魚雷、発射。」


20隻もの水雷艇から放たれた40発の魚雷は、済遠の”艦尾”に一直線。

爆音と水柱―――果たして18発が、済遠の艦尾を直撃していた。

艦尾直撃――すなわち狙いは済遠のスクリューの破壊。


済遠は大きく速度を落とし、後続艦は衝突を回避しようと戦列が乱れる。そして初めて第一水雷戦隊に気づく。濃霧の中を攻撃されてはたまらないと、必死の砲火を浴びせてくるが小柄な船体に、高速な水雷艇には当たらない。


一方の浪速は満身創痍で、既に攻撃力を失っているように見える。敵の注意が完全にこちらを向くのは、時間の問題だろう。浪速を助けるには、北洋艦隊を浪速が突破する必要がある。北洋艦隊の前後を抜ける作戦は既に無理。


ならば、敵艦の間を、すり抜けさせればいい。その為に先頭とそれに続く艦の間を空ける必要があった。そして、今や先頭の致遠と後続の済遠は大きく間を開けている。


「砲撃しながら離脱、急げ!」


浪速が突入体制に入ったのを確認した鈴木はそう命じ、第一水雷戦隊は霧に消えた。


・・・・・・

・・・・

・・


「突入体勢確保!」

「戦速よし!」


既に済遠との距離は200mを切っている。敵は遂にこちらに気づいたようだった。だが、この距離では近すぎる故、照準が出来ないし、砲撃したら爆炎が直に自艦に当たる可能性があるから、既に敵もこちらも主砲や速射砲は使えない。

東郷は叫んだ。


「突入、開始!!」


僅か、300mの間を、”浪速”は抜けにかかる。


「浪速ァ――!、死線を越えろ―――!!」


浪速は、北洋艦隊と直交し、致遠の背後に突入する。黒煙を噴き出し、続く済遠は大きく遅れをとってはいるものの、はっきり右舷に見えるほど近い。衝突の可能性は低くない。


ただ祈るだけの数秒間。そして運命は唐突に訪れた。


ガァ――ン!


―――重い金属音と衝撃。


済遠の艦首は、果たして浪速のぎりぎりに接触した。

浪速は弾かれ、針路を大きく右にずらす。東郷は思わず叫んだ。


「右舷速射砲、射撃開始!」


浪速は衝突され艦の向きが変わってしまい、側面を敵に見せている。逆にいえば敵の副砲に撃たれかねない。殺られる前に殺る、戦場の常識。


浪速の副砲が火を吹き、済遠の右舷に8インチ弾丸が降り注ぐ。もともと艦尾が大破していた済遠は完全にバランスを崩し、右舷から傾斜していく。


一方、北洋艦隊先頭の致遠との距離が開き、致遠の後方主砲に狙われる危険性が出てきた。


「後方主砲射撃準備、照準、”致遠”!」


練度の差は圧倒的。射撃準備の早さはこちらが断然上。


「装填照準ともに完了、いつでもいけます!」

「撃てぇ――ッ!!」


1kmも無い至近距離での発砲。下瀬火薬の力を借りた26cm主砲弾は、正確に致遠の砲弾装填中の後部砲塔を貫いた。致遠の火薬誘爆を背後に浪速は針路を修正、速射砲で続けて連撃し、致遠は爆炎を噴き上げて轟沈した。


そして遂に、東郷の真の狙いが実る。完全に停止し、今や沈没寸前の済遠を、それに続く鎮遠、定遠、広乙は練度の低さも相まって、避けられるはずもなく済遠に衝突した。


それに続いていた装甲巡洋艦の經遠と来遠はなんとか機転を利かせて衝突は回避したものの、戦局の圧倒的不利を感じ、北へ逃走を始めた。


済遠はついに転覆し、沈み始めるも、ここは陸地からそれほど離れていないため擱座した形になり、続く前述の艦たちは動けなくなった。そこに、第一遊撃隊に富士型戦艦2番艦”八島”が合流した。


八島の攻撃は広乙に降り注ぎ、広乙も動けなくなる。すると航行不能艦に挟まれた清朝海軍の保有する戦艦の全てである、鎮遠と定遠は完全に退路をも封鎖され動けなくなった。


第一遊撃隊の猛攻により、瞬く間に3隻の防護巡洋艦を葬られた所を目に焼き付けた、鎮遠と定遠の海兵はもともとの士気の低さも相まって、降伏を選択した。



―――7月25日午前10時、豊島沖に浮かぶ2隻の戦艦のマストに、白旗が翻った。



かくして、東郷の策略は実り、皇國海軍は2隻の戦艦を鹵獲するに至る。




―――――――――




逃走した装甲巡洋艦の經遠と来遠はその後戦艦”八島”と途中離脱した”吉野”、”秋津洲”が追撃し、圧倒的火力を以て撃沈。肝心の清軍を載せた輸送船団はその後東郷が自らの手で処分した。


先程の富士の一件もある。高陞号事件を他の将校にやらせると手段を誤る可能性は十分あった。


清朝海軍はその海軍力のほぼ全てを投入し、敗けた。すなわち、清朝海軍はその戦力を消滅させたと言っても過言ではない。豊島沖海戦で、清朝は海軍戦力ほぼ全てと輸送中の陸軍5000人を装備ごと喪失した。


そして、この海戦の結果を受けて、朝鮮南西部は遂に漢城政府に下った。こうして、下関に控える第二軍三個鎮台は、圧倒的な戦力と兵器を以て、旅順の清軍を叩きのめしに動き出したのだった。

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