3.「優しい」は地雷です

トーキの研究室に、クロマは居た。数度しか入ったことはないが、黒い壁に緑色の閃光が走る機械的なデザインは相変わらずで、家の中とは全く雰囲気が異なるものだから、その内装はよく覚えている。いつもトーキとよく分からない大きな機材だけが存在しているところに、自分ともう一人、見慣れぬ男が立っていた。

男は、トーキに何かがずっしりと詰まった袋を差し出す。

トーキはそれを受け取るや否や、クロマへと視線を移した。


「すまないが...」


そう言葉を続けるトーキの眼鏡の奥の瞳を見ても相変わらず何を考えているのか分からない。

ねえ、その袋を受け取ってどうするんですか、とは聞けなかった。

わかり切った答えなど、聞きたくない。

聞きたくないのに無慈悲にも、トーキは口を開いた。







「ぶはぁっ!?」


クロマは勢いよく起き上がり、目を見開いた。

そしてすぐに異変に気付く。


「どこだここは...」


自分は見覚えのないふかふかとしたベッドの上に居た。慣れないベッドのせいで悪夢を見たのだろうか。

辺りを見回すと、クロマが居たのは自分の家に負けず劣らずの豪奢な部屋の中だった。白い壁には蝿のような生き物のシンボルが描かれた赤い幕が下がっており、家具の一つ一つがアンティーク調でそれなりに高価な物ということが見て取れる。

下手に動けずにいると、真ん中に丸ガラスの窓がついた扉が開いた。


「よォ、目が覚めたか」


出てきたのはベルゼブブだった。重力に抗うように逆立った短めの銀髪を揺らしてクロマに近付いていく。

初めて見る人物にクロマは警戒心を抱かずには居られなかった。


「貴様が私をここへ連れてきたのか?」


クロマの物言いに、ベルゼブブは驚かずにはいられなかった。

白い睫毛に縁取られた紫色の瞳をこれでもかと見開く。


「お前、俺の事知らねェの」

「誰だ貴様は。知らん」


つっけんどんな態度を取るクロマにベルゼブブは呆けていたが、やがて小さく吹き出すと豪快に笑い声を上げた。


「ひゃはははっ!いいねェ、お前!」

「...。」


突然笑い出すベルゼブブにまるでおかしな物を見るかのような視線を投げる。その視線に気が付いたベルゼブブは笑うのを止めて、近くにあった椅子を持ってきて腰掛けた。


「俺ァ、ベルゼブブっつーの。お前は?」

「...クロマだ。」

「クロマな、よろしくゥ。」


右手を差し出してみるも、クロマが握り返すことはなかった。静かにベルゼブブを見詰めている。

ベルゼブブは複雑そうに手をひらひらと振ってみせ、あー、だの、うー、だの頭を悩ませた。そこにクロマが口を開く。


「何故私を拉致した」

「拉致って...。まァそう思われても仕方ねェよなァ。お前をスカウトしようと思っただけなんだけどよォ。」

「スカウト?」


何故自分がベルゼブブという男にスカウトされているのか。その話の続きを促すように口を閉じる。


「どっから話したらいいんだかなァ...。俺の事知らないっつーと、ルシファーのことも聖教団のことも知らねェわけ?」

「知らん」

「世間知らずってレベルじゃねェぞマジで...。」


頭を抱えるベルゼブブにクロマは不機嫌そうに顔を歪めた。その様子に気付いたベルゼブブは慌てた様子で話し始める。


「えーっとな、この魔界は実力主義でな、一番強ェ奴が魔神王...つまり最高権力者になれる。現魔神王のルシファーは強ェ事には強ェんだが、その力を悪用してこの魔界を独裁しようとしてんだよ。だから反ルシファー軍ッてのが居る。そのリーダーがルシファーと実力を張る魔界No.2のこのベルゼブブ様だ。規模自体はでけェんだが、とてもルシファーにゃ適わねェ。」

「何故だ?貴様はルシファーと実力はほぼ同格なんだろう?」

「そうだなァ。でも、ルシファーのバックには聖教団がついてるッて噂がある。こいつが厄介なんだよ。聖教団ッつーのは、天使だけで構成されたバカでけェ組織だ。天界=聖教団と考えていい。天使が使う聖魔法は俺ら魔族の天敵。食らったらさすがの俺でも無傷ってわけにはいかねェ。ルシファーに逆らった魔族は尽く聖教団に消されてるッて話だ。なんでルシファーが聖教団と繋がってんのかは謎だがなァ...。」

「ふむ、事情は大体わかったが、何故私をスカウトする話になるんだ?」


いい質問、とばかりにベルゼブブが指を弾く。クロマは冷たい視線を投げるばかりだったが。


「俺はルシファーを倒して、この魔界に法律を作ろうと思ってる。法律って言うのは言わばルールだ。ルールを作らねェと弱肉強食の今じゃァ、さっきのゴブリンみてェな弱ェ奴は一生怯えて暮らさなきゃならねェ。だから弱ェ存在を虐げずに守る存在が必要なんだよォ。」

「私が、"弱い存在を虐げずに守る存在"だと?」


クロマが心外だとでも言うように低い声を上げるのをベルゼブブは驚きを滲ませながら見ていた。


「だってお前、ゴブリンを魔獣から守ったんだろォ?」

「違う!私は残虐非道な魔族だぞ!?それは彼奴らが勝手に言っているだけで誤解だ!その気になればあの村一帯を一掃することもできた!」

「じゃァなんでやらなかった?」

「な...」


思わぬベルゼブブの返しに、クロマは言葉を詰まらせた。

そう、小ゴブリンが気に入らないのならばその場で皆殺しにすることもできたのだ。

更に問い詰めるようにベルゼブブは言葉を重ねる。


「疲れて寝ちまうくらい、大して面白くもねェゴブリンの余興に付き合ったんだろォ?優しいじゃねェか___」


不意に、ベルゼブブの至近距離に拳が現れた。

刹那、轟音と共に部屋中に土煙が舞う。


「何すんだよォ!?」


間一髪で空中へ羽ばたき、直撃は免れたベルゼブブ。一方、土煙の中から現れたクロマは赤い瞳を煌々と光らせ、睨み付けていた。


「残虐非道を貫くこの私が優しいだと?勘違いも甚だしい。父上から授かったこの力を雑魚に振るう由がないだけだ。」


「あァー...」


どうやらベルゼブブはクロマの地雷を踏んでしまったらしい。怒り方が尋常ではない。しかし、そこまで残虐非道と自称し続けていると本当なのか怪しく思ってしまう。

とにかく宥めようとベルゼブブは下手に出た。


「悪かったよォ。うんうん、とりあえず弱ェ存在を虐げないって時点でお前をスカウトしたい俺の気持ちは変わらねェから、どォかな。ちょっと考えてもらっても...」

「笑わせるな」


クロマから刺すような殺気が溢れ出した。それだけで痺れそうだ。


「へェ...」


ベルゼブブは笑っていた。そして、手を翳すと突如窓が割れる。まるで誘い込むように外へ逃げ出すとまんまとクロマはその後を追った。

ベルゼブブが逃げた先は広いベランダだった。頑丈そうな石造りでできた壁と床は戦闘するのに丁度良さそうだ。


「殺せるモンなら殺してみろよ、クロマくん?」


空中を飛びながら煽るように人差し指の関節を曲げた。

挑発に乗るように、クロマは地面を蹴ると真っ直ぐにベルゼブブへと飛んでいく。

刹那、クロマの身体が赤黒い靄のようなものを纏った。


「ハッ、最初から魔力全開かよ!危ねェなァ!?」


ベルゼブブはクロマの拳を素手で受け止めた。しかしさすがに負荷が重く、ぴしぴしと骨の軋む音が聞こえる。

通常攻撃に魔力を乗せると、その攻撃力は何倍にも跳ね上がる。魔力を消費した分その身体にかかる負担も大きくなるため、普通魔力は小出しにして出すのだが、クロマの場合、消費の仕方が滅茶苦茶だった。


「そんなんじゃ長く持たねェぞ、ッと!」


ベルゼブブが拳受け止めている手に力を込めるとクロマの腕を押し返した。


「ぐあぁっ!?」


見事吹っ飛ばされたクロマは石造りの壁に激突する。壁が崩れる程の衝撃、それなりにダメージを負ったはずだ。

土煙の中を目を凝らして見てみると、何かが飛んできた。


「危ねッ!?」


壁の残骸だ。一つ避けても土煙の中から何度も何度も投げつけられる。しかしとても避け切れない程ではない。


「んな攻撃してても当たんねェぞ!」

「ほう?」


不意に、声が聞こえたのは...至近距離。

ベルゼブブの頬に強い衝撃が走る。ベルゼブブは石造りの床を貫通し、遥か下の地面まで落下していった。

クロマの追い討ちはこれでは終わらない。落ちたベルゼブブを魔力でスピードを上乗せして追う。


「マジかよ...」


下には地面、上には拳が待ち受けている。先程の拳をもう一度まともに食らいたくはない。ベルゼブブは落下しながら拳を構え...


「悪ィな」


そう呟くとクロマの拳に自分の拳を殴りつけた。


「ぐ、ぅ!?」


クロマの腕がミシミシと音を立てた。どんな魔獣よりも重い一撃だった。骨が砕け、皮膚が避ける感覚。ベルゼブブがそのまま振り切るとクロマまで吹っ飛ばされた。そしてクロマは建物の壁に、ベルゼブブは地面に叩き付けられる。

両者は土煙の中。最初に立ち上がったのは...


「ったく、聞いてねェぜ...」


ベルゼブブだった。いてて、なんて言っているが未だ余裕はあるように見える。


「...くそ、ったれ、が」


遅れて、クロマも立ち上がった。魔力は纏ったままだが、満身創痍のようで立ち姿は覚束無い。

その様子を、ベルゼブブは静かに眺めていた。


「はー...はーっ...」

「もう止めとけ。死ぬぞォ」

「はー......っ」


魔力はまだ消えず、臨戦状態だ。


「まだ出せんのかよォ...」


全身に魔力を纏った状態はそう長くは続かないはずだが、クロマがガソリン切れになる様子もない。

と、その時クロマのブーツに着いていた宝石がだんだんと灰色に近付いているのに気付いた。


「___魔晶石」


それはただの宝石ではなく、魔晶石だった。

魔晶石は通常、魔力が低い下級魔族なんかが自分の魔力を補うために使うものである。人によって一日に使用できる魔力は限られている。言わば魔晶石は緊急事態用、どうしても使わざるを得ない時に自分が使える魔力の限界を突破できる代物である。

それをクロマは片方のブーツに2つ...計4つの魔晶石を身に付け、使用していた。


「いや...違うなァ」


よく見たらベルトにも大きな魔晶石、そして太ももにも各2つ。計9つの魔晶石を所持していた。

明らかに使い過ぎだ。クロマは既に限界突破を何度も繰り返している。

それでもクロマは戦意を喪失してはいない。ふらついた足取りでベルゼブブへと向かってくる...が、その寸前で魔力が掻き消え、大きくクロマの身体が傾いた。


「おっと」


ベルゼブブが近寄り、その身体を抱き留める。自分よりも体躯の大きいクロマを支えるのは少々骨だが、仕方ない。


「私、は...父上のために、残虐で、非道を...」

「わかったわかったァ。お前は残虐で非道な魔族だよォ」


意識が朦朧とする中、クロマの呟きにベルゼブブが宥めるように背中を優しく叩いた。

子どものような扱いに抗議しようとしても指一本動かない。クロマはベルゼブブの腕の中で本日二度目の気絶をした。

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