僕は幸せでした

夜依伯英

第1話(完)

 山の上、寂れた神社に繋がる階段の一番上に座り込み、街を見下ろす。島の人口のほとんどが住んでいるであろう海と山に挟まれた街。島の日常という日常がそこにある。僕はこうして時折日常から抜け出して、それを眺める。大勢の馬鹿と少しの善人が作った社会を、外から眺めている。そこに僕も居られたなら、きっと自分を不幸だなんて思わなかっただろう。でも、僕はあの中に入りたいとは思わない。外に居る自分を誇っている。


 風が冷たくなってくる。夏も終わってしまうんだなという、そんな寂しさが胸を占めた。僕は孤独だった。青春なんてものは、僕にとってはフィクションの中でのことで。僕はいつだって他人を軽蔑するだけだった。きっとこうして夏が終わり、そして秋、冬が来ても、僕はずっと独りで生きていくんだ。そんな自分が、嫌いじゃなかった。


 昔から自分は頭が良いと思っていた。勉強ができるとか、思慮があるとかそういうことじゃなく、純粋に僕の知能は高いのだ。知能、知性という多元的なものをどうやって評価しているのか、自分でもよく分からない。それでも、僕は頭の良し悪しを理解できた。そして、頭が悪い人間を軽蔑した。汚れていると思った。同じ人間だとは思わなかった。いつしか僕は、彼らを猿と呼んでいた。それが彼らを指すに相応しい呼称だと本気で思った。そうして、僕は今日も独りで街を眺めている。僕を理解する人はあの中には一人として居ないのだろう。


 高校の制服を身に纏い、煙草に火をつける。とうの昔に罪悪感なんてなくなった。僕には不健康である自由があるのだと、そう言い聞かせた。肺が病むのに反比例して、心はすっきり晴れていく。


 そんなとき突然後ろから、少し幼さを感じる女の声で話しかけられた。


「お兄さん、高校生でしょー? 煙草は法律で禁止されてるんだよー?」


 振り返ると、近所の中学の制服を着た女の子が立っていた。僕は特に焦ることもなく、「知るか」と返した。


「お兄さんさー、最近ここに来るの多いよね。……何かあったの?」


 見られてたのか……。僕は少し不快に感じながら、「なんもねぇよ」と吐き捨てた。そして、彼女を睨みつける。彼女は怯えていた。腕にリスカの跡を残し、足を震わせながら、僕に話しかけているのだ。


「……悪い」


 僕がそう言うと、彼女は僕の隣に座った。寂しそうな目で街を見下ろした。ああ、僕と同じなんだな。そう確信した。やっと、僕と感覚を共有できる人間を見つけたのだ。死ぬほど嬉しかった。


「私、これでもめちゃくちゃ勇気出して話しかけたんだよ?」


 彼女はくすぐったそうに笑う。僕も思わずつられた。


「見れば分かるよ。……君も同じなんだね」


「お兄さんも同じなんだね」


 僕たちは笑った。何年ぶりかの笑顔は、僕の表情筋には少し厳しかったようで、頬が痛くなったけど、それでも僕は幸せだと思った。


「話しかけてくれてありがとう」


 僕がそう言うと、彼女は僕の心にすっと収まる声で「話しかけられてくれてありがとう」と言った。



 それから、僕たちは何度もそこで会って話した。やっと僕に居場所ができた気がした。でも、あるとき彼女は言った。


「お兄さん、私ね、引っ越すんだ……。親の都合でね、東京に行くの」


 彼女は泣いていた。感情が溢れ出していた。今まで涙なんて流したことのなかった僕の目からも、涙が零れた。どうして、どうしてこんなにも僕は。


「そう、なのか……」


 やっとの思いで出した声はそれだけを形作ってどこかへ消えた。


「こんな思いになるくらいなら、最初から幸せなんて知りたくなかったな」


 彼女は下を向いて、力がこもった声でそう、静かに叫んだ。


「でも、でも僕は、君に会えて良かったよ。本当に嬉しかったんだ。……君がいたから、僕は幸せだった! だから、そんなこと……言わないでくれ」


 僕はそう言った。ちゃんと声が出せたか分からないけど、伝えたかった。


 彼女は立ち上がり、街を見下ろす。


「ごめんね、お兄さん、私を殺してください」


 どんな気持ちで、どんな覚悟で、どんな表情でそう言ったか、僕は分からなかった。分からないままでいいと思った。


 僕は彼女を抱きしめて、押し倒し、首を絞めた。僕の涙が彼女の頬を濡らす。


「ごめん、ごめんね……愛してる」


 彼女は辛うじて出したその美しい声でそう言った。


「僕もだ! 僕も……君を愛してるよ」


 彼女は目を閉じて、それから二度と開かなかった。そうなってからも、僕は暫く首を絞め続けた。そうしている間はまだ生きているような気がして、やめられなかった。それでも、腕に限界がくると、彼女の隣に倒れ込み、もう暗くなってしまった空を見上げながら、大声で泣き叫んだ。



 いつしか泣き疲れて寝てしまったようだ。目が覚めたとき、空は綺麗に晴れていた。僕は何も考えないように必死に脳内に空白を作りながら、階段を降りた。街に降りた。そして、暫く帰ってなかった家に帰ると、迷わず自室に入り、天井から縄を吊るした。鋏で指を切り裂き、白い壁に「僕は幸せでした」と書き、首に縄をかけた。


 そして、僕は、足場にしていた本を蹴り飛ばした。首に全体重がかかる。縄がめり込んで、痛い。でもその痛みすら、心地よかった。

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