木更木橋
帰鳥舎人
木更木橋
霧雨が降り始めていた。
少女が小さく胸の前で手を振り、さようなら、と呟く。
彼女は軽やかに橋を渡り、僕は中程に佇んだまま見送った。
たった今、フラれた?はずなのに、なぜこの場所なんだろう、と僕はどうでも良い事を考え、特に惜しいとも思えなかったし、彼女に「好きです」と言った覚えもなかった。
失恋ではなくて、さようなら、が昨日よりも明確に告げられただけだった。
そう長い橋でもない。別れの言葉に付き合って立ち止まる必要はなかったけれど、そうしてあげた方が、彼女にとって良いとは感じられた。話として終わりがすっきりする。
傘を持たない僕は、雨に濡れる服を単に不愉快だと感じていた。
濃度を増す霧雨に、ぼんやりとした信号機の色だけが妙に鮮やかで、赤から青に変わった時、彼女が小走りをしたように見えた。気まずさを残したこの場所から一刻も早く立ち去りたいのだろうと思った。
その背中を見て、足を滑らせないようにね、がぽつりと口をついた。
この橋の名前を初めて聞いた時、僕は「如月橋」だと思った。それが「木更木橋」だと知るまでには少し時間があって、そう知った時、大層落胆したのを覚えている。
橋の名前には物語がある、と言うのは僕の理想観に過ぎない。平凡なものの方が多いに決まっている。生活から来るのだから、橋が物語を作るのではなく、渡る人間が物語を作ると言う当たり前な事実に想像力が及んでいない。
僕は自分に起きた事しか書けない。つまり第三者に興味がない。
高校を卒業して数十年経つ。僕は興味を持てないリライトや俗っぽいものなんかを書いて収入を得ている。そんな中にも好きな作業はあって、例えば、作品に入れるキャプション。
普通は作家本人が書くべきなのだが、様々な事情から僕に回って来ることがある。時間だとか、作文の仕方だとか、向き不向きとか。
作品を見ながらそこから仮定の言葉を入れる。ヘッドラインだったり、詩や散文の形式だったり。
僕はそう言うのが得意とは言わないが、自分好みであるのは疑っていない。SNSでの失言の多さの原因もこれに起因している。目に留まった作品に余計なことを呟く。で、叱られる。
先日、あるイラストレーターが雑誌に掲載する作品のキャプションを依頼された。担当者から作品と本人が書いた文を渡され、宜しくお願いします、と言われた。僕は、それを書き直すか、始めから書いた方が良いのかを確認した。彼は、一から書いて下さい、と言った。僕はその作家を全く知らないので、取材する事になりますが大丈夫ですか、と訊き返すと、折り込み済みです、と彼は答えた。
既に名の知られている作家の場合は取材などほとんどしない。その作家の作品を幾つか見直し、与えられた作品に、印象に残りそうな単語をひとつふたつ混ぜて、どれにでも当てはまるような文を添える。本人が然も述べたかの如く。成り済ましは極めて効率が好い。使い回してくれても僕はOKだし、その心算で書いている。遠回しのご遠慮みたいなものだ。
だが今回のような依頼は楽しいのだが意外と骨が折れる。拝読した文には「言いたいこと」が溢れ返り支離滅裂になっている。当該作品に触れられてはいない気がする。本人は自分が表現したいものを列挙しているのだ。僕はそれも面白いし、作家自身の言葉が何よりだと思ったのだが、プロデューサーとしてはそうもいかないのだろう。また、どうやら作家本人も悩んでしまったらしい。僕は仕事を引き受けた。選べる立場でもない。
大星雲と、魚から鳥への進化を象徴する化石が散りばめられ、昆虫を連れた隕石が流れ堕ち、朝なのか夕なのか夜なのか判断のつかない橙色と藍色を主とした空間に橋が掛けられ、男女が背中合わせに立っている。ふたりの間に一人分の距離がある。橋は天の川ではない。擦れ違ったのか、別れたのかも定かではない。同じ場所ではあるが、同じ時間とも限らない。描かれている男女は服を纏っていない。その体形から現代人に近いことは察せられる。猿が描かれていないかを隅々まで確認する。
僕は本人の文と作品を読み比べる。取材の日まで幾度も。そしてアトリエを拝見し、作家が作品上に描いたもの、描きたかったもの、これから描こうとしているものを訊き、意図を踏まえた上で、予定調和にならないように気を付けながら、作品に向き合う姿勢を整える。
それを創作とは呼ばないが、話を考えるのは実に楽しい。が、時には、どうしよう、終わらない、と泣き出したくなることもある。それも含めての、楽しい、だ。
取材を終えた後、東陽町から両国まで抜けてみようかと思った。距離にすれば大したことはない。学生時代はほとんど徒歩で移動した場所だ。ランブリングしている途中、見覚えのある橋に差し掛かった。あの日も同じ方向だった。
木更木橋の途上で信号機を振り返る。
平野と深川を結ぶ橋。先を行く木に後ろから来た木がぶつかる。弾かれて隙間が出来ると、そこに別の木が納まろうとする。橋が掛けられた当時はまだそんな風情が残されていたのかも知れない。
今更だが、あの子はただ家に帰るのを急いだだけだった、と思う。
木更木橋 帰鳥舎人 @kichosha-pen
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