第2話:Enigma
「このポンコツの官品どうにかならないんですか?」防衛省庁舎の小さな一室、静まりかえった空間に少年のそんな声がこだまする。
「来年の予算委員会のときにそう伝えといて貰うよ」大して気にとめることもない様子で宮津はそう言うと、自身もそのポンコツの官品であるパソコンに向き直った。
画面には上から下まで顔写真がずらっと並んでおり、そのすべてが軍服を着た外国人であった。
宮津はそれらに目を通すわけでもなく、スクロールバーが限界に達するまでただひたすらにマウスホイールを手前に転がし続ける。
「入国管理って確か法務省の仕事ですよね?」
「自分たちでやらないってことは、
法務省の機関である検察庁が、法務省の出入国記録を調べずにわざわざ防衛省に身元の調査を依頼するということは、
「アメリカ軍の入国って結構ガバガバなんですね」
「いざというときに、いちいち入国審査しないといけなかったら困るだろ」
「凄い屁理屈だ……」宮津の官僚らしい、一見筋の通っているような物言いにはただただ感心するばかりである。この調子なら、みかんの色は紫だ。と言っても多くの人は納得してしまいそうだ。
これだけ瞬時にそれらしいことを言える頭の持ち主ばかりの官僚が国を運営しているのなら、未来は安泰だろう。
もっとも、官僚が手を尽くして今とは違う日米地位協定を結んでくれていれば、今やっているような名簿から顔写真の画像を取得して画像認証にかけるという回りくどい作業をやらなくて済んでいたのだが。
「にしても凄い人数居るんですね、アメリカ軍って」喋っていても少し気になるほどの音を鳴らしながら回り続ける冷却用ファンの音に思いを馳せながら、橿原はそう呟いた。
「日本の3倍弱の人口で、6倍の兵士数だからな」
「何日掛かるんでしょうね?」ただでさえ膨大な軍人の数に加え、時間に比例してファンの回転数が上がっている気がするポンコツ官品が、ページに表示されている画像を一括で保存する橿原謹製のプログラムにいつ耐えられなくなるかもわからない。様々な危険性ばかりが頭に浮かぶ中で、宮津は肩を竦めることしかできなかった。
すると、橿原は深々とため息を吐いた。かと思えば、次に飛び出したのは、まぁいいや。というその反応とは真逆の言葉だった。
「もし終わってなくても、来週は来れませんからね」来週と言えば12月の第3週。今年の面影よりも来年の顔がチラつくことの方が多くなる時期だ。
「なんだデートか?」宮津が茶化すようにそう言うと、橿原は至って真剣な様子で自らを指差し、ゆっくりと口を開く。
「受験生」すると、宮津は本気で忘れていたような様子で、橿原のその言葉に対してそういえばと言わんばかりに、ああ。と、言葉にならない声を漏らした。
「志望校には受かりそうか?確か惰性で行けるところって言ってたよな」
「慶応を目指すことにしました」何気なく出てきたその返答に、宮津は思わず橿原の顔を見返しす。
そもそも橿原の口から進路についての話を聞くこと自体が少なかったが、その少ない中でも具体的な学校名は1度たりとも耳にしたことはなかった。にもかかわらず、今突如として橿原がそれを口にしたということは、会ってないうちに具体的に自身の将来を想像するような何か心境の変化があったのだろうか。
宮津はその真意について内心では非常に気になってはいたが、そうと知らずとは言え一番忙しい時期に呼び出した手前これ以上詮索する気にはなれず、無難に感想だけを呟いた。
「まぁ、その方が採用試験のときに俺が頑張らなくて済んで助かるよ」
「そっちまで真面目に受けさせるのは勘弁してくださいよ」苦笑いを浮かべ、画面に向き直ってカチカチとマウスを2回ほど操作する橿原だったが、それだけでまたすぐに宮津の方に向き直った。
「宮津さん的には、この写真の人は何者だと思います?」そう言うと、橿原は机に置かれた写真を手元に手繰り寄せ、その中心に写る欧米風の顔立ちの男を指先でトントンと叩いた。すると、宮津は顎に手を当て、そうだな。と、少し上を見上げる。
「防衛省も把握していない人間となると、少なくともインド太平洋軍の人間ではない。それに、そいつ1人だけで日本に来ているところを見ると、何かの部隊とも思えない。どちらかと言えば、技術者とか研究者の類いか、背広組の可能性が高い」つらつらと根拠を並べた論理的な考察ではあるが、橿原が聞きたかったのはそんな数学の証明問題のような根拠に裏打ちされた結論ではなかった。もっと競馬やボートレースのように予想する行為そのものに楽しさを見出すような無責任で荒唐無稽な予想。それこそが橿原の望んでいるものだ。
「具体的には?」自分でも意地悪な質問であると自覚しているが、今まで散々無茶ぶりをされてはそれに応えてきたのだから、これくらいのお遊びをしてもバチは当たらないだろう。橿原はニヤつきを堪えながら宮津にそう問いかけた。
すると、宮津は特に困った様子を見せることもなく、頬杖をつきながらポツリと呟く。
「DARPAのそれなりの役職の人間……とかか?」それなり。とはまた曖昧な表現であるが、"DARPA"という具体的な名前を引き出すことができたので、、答え合わせのときを楽しみにしよう。橿原は満足した様子でまた画面に向き直る。
そして、共用のハードディスクに格納されている顔写真の入ったフォルダをデスクトップ上に取り出すと、画面上に表示された画像認証システムのウィンドウにそのフォルダごと読み込ませる。
「これで何パーくらいですか?」
「まだ空軍も海軍も海兵隊もあるし、せいぜい2%くらいだな」作業開始から既に8時間が経過してもなおその数字だと、終わるには一体何日かかるのだろう。橿原は聞いたことを後悔しながら、できるだけ早い段階で見付かってくれることを祈るばかりだった。
「今日はそれが終わったら帰るか」宮津のそんな声に、橿原は画面の隅に表示された時計に目を向ける。時刻は午後6時を少し過ぎており、窓の外は町の明かりが際立つほどの暗さになっていた。
システムの動作する画面をボーッと眺めながら、橿原の胸中には憂鬱な感情が沸々と湧き上がっていた。明日もまた今日のような退屈で冗長な時間を過ごさねばならないのか。
しかし、そのときはいとも呆気なく訪れた。眺めていた画面の中央に突如ポップアップが表示され、橿原は体を跳ね上がらせる。
デスクに膝が当たるガタンという音が鳴り響くと、宮津が怪訝そうな顔を向けるが、当の橿原は痛みなど気にする様子もなく、体を前のめりにして食い入るように画面を見つめた。
画面上には画像認証にかけた顔写真と、その人物の所属などのプロフィールが表示されている。
「アメリカ陸軍……医学研究所……of感染症……?」出てきた単語を頭の中で1つずつ順に翻訳したように、橿原はカタコトな言葉を呟く。
それを聞いた宮津は、一瞬考える素振りを見せた後に、自らも口を開く。
「アメリカ陸軍感染症医学研究所。フォート・デトリックにある生物兵器の研究をやってる機関だ」そう言い切った瞬間、宮津と橿原はお互いに顔を見合わせて首を傾げた。
「これってつまり、どういうことですか?」
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