第9話:自宅にて




 徐々に涼しくなりつつある秋口の夜、淡いピンクのキャミソールに水色のショーツのみという風呂上がりでなければ肌寒さを感じるような格好で、しずくはキッチンへと足を運ぶ。


 「ビールビール」まだ水気の残るロングの黒髪に被せたタオルを落とさないように、やや膝を曲げながら冷蔵庫の中を覗き込んだ。と次の瞬間、悲痛な叫び声が返す者の居ない部屋の中をこだまする。


 「ない!」冷蔵庫のドアポケットには、あるとばかり思い込んでいた金色のラベルのアルミ缶はなく、棚の上にはチーズやハムなど酒の肴になりそうな物こそあれど、飲料と呼べる物は独特の形状をしたプラスチック容器に赤いアルミ箔で蓋をした乳酸菌飲料の数々ばかり、肝心のビールは影も形もなかった。


 こんなところにある筈がないとわかってはいるものの、零はチルド室の中をまで確認した末にゆっくりと冷蔵庫の扉を閉めた。


 長い1週間が終わり、呑みに行くという同僚からの誘惑をなんとか振り払って一直線に帰宅したというのにもかかわらず、おかえり。と出迎えてくれる人も風呂上がりの乾いた喉を潤してくれる物も今この家には存在しない。静かな部屋にこだまする冷蔵庫のパタンという音が、より一層この虚しさを際立たせた。


 零は肩を落とし、髪をダランと下に垂らしながらとぼとぼとリビングに歩いて行く。そして、やっとの思いで辿り着いたソファの上に顔から倒れ込んだ。その姿はさながら打ち上げられた魚のようだ。


 そのまましばらくソファに顔を埋めていたが、すぐに息が苦しくなると顔を横に向けて、テーブルの上に置かれたテレビのリモコンに手を伸ばす。


 だが、寝転んだままではどれだけ腕を伸ばそうともリモコンには手が届かない。手繰り寄せるように何度も腕全体を動かすが、結局は何もない天板の上を指で撫でただけだった。


 そうこうしているうちに腕に疲労感を覚え、零はテレビを点けることも諦めて、伸ばした腕を床に向けてダランと垂らしたまま目を瞑った。


 そのまましばしの時が経ち、うとうとと意識が遠のき始めたとき、玄関のドアに鍵を差し込みシリンダーを回す音が微かに耳に届いた。かと思うと、ドアが開閉する音と振動が静かな家の中に響き渡る。


 零は目を閉じたまま耳に届く音に注意を向け、その音の主の姿を想像した。


 下駄箱の上に鞄を置き、玄関の式台に腰を下ろして革靴を脱ぐ。脱いだ靴を土間の端に寄せると、鞄の中から財布とスマホを出し、その2つを重ねて右手で持ってリビングへと向かう。そして、ドアを開けて怠そうな声で、ただいま。と言う。


 零のそんな想像と寸分も違わぬタイミングでドアが開き、音の主がリビングへと足を踏み入れた。だが、その第一声は想像していたものとは異なった。


 「そんな格好で寝てたら風邪ひくぞ」そんな声と共に何かが被される感触を頭に感じ、手探りでそれを摘まみ上げると同時にゆっくりと目を開ける。


 すると、自らの手には黒いスーツのジャケットが握られており、摘まんだことによって生じた隙間からワイシャツ姿の宮津の姿を垣間見ることが出来た。


 「おかえり……」零は一瞬だけ僅かに上体を起こしてそう言うと、再びジャケットを頭に被って体を伏せた。宮津はそんな姿に敢えて何も言わずただ、ただいま。とだけ呟くと、手から提げたビニール袋を持ってキッチンへと足を運ぶ。


 冷蔵庫を開けて中をひと通り見回し、1番上の棚にぽっかりと空いたスペースを一瞥する。そして、袋の中に入った6缶が1まとめにされたパックを取り出して、そのスペースへぴったりと納めた。


 「やっぱりビール切らしてたか。買ってきて正解だったな」何の気なしに独り言を呟いたその瞬間、リビングからガタッという物音が聞こえ、宮津はそちらを見遣った。


 するとそこには、先ほどまでソファに突っ伏していた筈の体を起き上がらせ、頭にジャケットを被ったまま口を開けて宮津の方を見詰める零の姿があった。


 「ビール、あるの?」


「あ、ああ……」零から醸し出される異様な迫力に押されながら、宮津は恐る恐る口を開いて頷く。すると、零は頭に被ったジャケットを摘まみ上げ、思いっきり遠くに放り投げると、ソファから勢いよく立ち上がった。


 「さすが官僚、忖度上手!」あえてソッとしておこうと思うほどに落ち込んでいる様子から一転して、いつものような元気な姿に様変わりした零のその変わり身の早さに、宮津は頭に疑問符を浮かべる。


 そして、よもやそんなことはないだろうと思いつつも、自身の頭に思い浮かんだことを口にした。


 「まさか、ビールがなくて落ち込んでたのか?」


「そうだけど?」零はそう言ってケロッとした表情で首を傾げると、ニコニコと笑いながら宮津の隣まで来て冷蔵庫を開ける。


 「おぉ、いいの買ったね」棚の中を覗き込み、金色のラベルの缶を見付けるや否や、そう言うだけで缶に手を伸ばすことすらせずに満足した様子で冷蔵庫の扉を閉めた。


 「飲まないのか?」


「リクがお風呂から上がるまで待ってる」宮津の問いにゆったりとした口調で答えると、優しく微笑んで、ふふっ。と笑い声を漏らした。かと思うと、すぐに何かを思い出したかのように、あっ。という音と共に口を広げる。


 「晩ご飯何も用意してないんだった……」風呂上がりの晩酌といきたいところだったが、このままでは2人で仲良く顔をつきあわせて、空っぽの胃袋にビールを流し込み、体が湯冷めしていく体をただ震わせるだけになってしまう。


 零はソファの上に置いたスウェットに慌てて袖を通すと、キッチンへ急いで戻った。


 「今からだとあんまり手の込んだものは作れないけど、何食べたい?」この手の質問には思わず何でもいいと答えてしまいそうになるが、宮津はそこをグッと堪えて何かいい案がないか頭を捻る。


 手間をかけずにすぐに作ることが出来て、なおかつビールに合う物。程なくして、宮津はその条件に合致する物を思いつき、おもむろに冷凍室を開けた。


「ほら、いいのがあるぞ」






 熱湯の中に浮かぶ乾麺がほぐれ、粉末スープを鍋に投入した頃、自らの仕事の終わりを告げるピーピーという音がキッチンに鳴り響いた。それを聞いた宮津は、再びその電子音が鳴る前に電子レンジの戸を開けるだけ開けて、すぐにコンロの上で湯気を上げる鍋の前に戻った。


 そして、箸で2、3周ほどスープをかき混ぜると、コンロのすぐ横に用意した2つのどんぶりにスープと麺をきっちりと同量ずつに分けて注ぐ。


 「適当でいいのに」そんな零の声も聞こえてくるが、神経質とはいかないまでもそれなりに気になる性格故にその声は聞き流して適当な相槌を打つと、両手にどんぶりを持ってテーブルへと運んだ。


 「布巾ちょうだい」食器を並べる零の傍らに置かれた布巾を人差し指で指し示し、そのままちょいちょいと指を曲げてパスを要求する。すると、零が放った布巾は丁度その指に引っかかり、物干し竿に掛かったタオルのようにダランとぶら下がった。


 宮津は指を伸ばしたままの状態でレンジの前まで行くと、先ほど少しだけ開けた戸を全開に開け放つ。そして、溢れ出る水蒸気の中に手を入れ、布巾で覆った右手でその中心にある大皿の縁を掴み上げた。


 布越しにジリジリと伝わってくる熱さに急かされながら、ここでぶちまけて辺りを惨状にしないようにと慎重な足取りでテーブルの真ん中に皿を置く。


 テーブルの上には、醤油ラーメンの入った2杯のどんぶりに、グラスや箸とスプーン、空の茶碗がそれぞれ2つずつ。そして、大皿に盛られた2人前のチャーハンが並ぶ。最後に、冷蔵庫で冷やした金色のラベルの缶ビールを加え、本日の晩餐の準備が整った。


 宮津は零と膝をつき合わせて席に着くと、まずは缶を開け、それぞれのグラスにビールを注ぐ。そして、零とアイコンタクトをとって同時にグラスを持ち上げた。


 「乾杯」グラスとグラスがぶつかり、カーンという甲高い音が鳴ると、ゆっくりと口元まで持って行ってグラスを傾ける。


 向かい側でゴクゴクと喉を鳴らしながらあっという間にグラスを空にした零を尻目に、宮津はまだ半分ほど残った状態でグラスをテーブルに置き、頬杖をついてそのまましばらく零を見ていた。


 「いただきます」そう言って両手を合わせると、箸を持ってラーメンを摘まみ上げ、唇を尖らせてふうふうと息を吹きかける。そして、豪快にずるずると麺を啜る。すると、満足げな表情でうんうんと頷き、1度箸をどんぶりの上に置いてビールの缶を手にした。


 そこで漸く零は視線に気付いたようで、宮津に目を向けてグラスにビールを注ぎながら首を傾げた。


 「なに?」


「別になんでも……」そんな適当な返事をして、名残惜しさを感じながらも零から視線を外す。そして、飲み込んだ本音とその気恥ずかしさを誤魔化すように、宮津は箸を手に取った。


 醤油ベースの茶色いスープに浮かぶやや黄色味を帯びた中華麺。もはや見慣れた外見の筈だが、普段の無機質な金属のデスクではなく温かみがある木製のテーブルの上にあるというだけで、宮津の目にはまるで別物のように映っていた。


 箸で麺を持ち上げ、絡みつくスープを振り払うように上下に揺らす。そして、箸を口に運ぶと、音を立てないようにゆっくりと麺を啜った。


 特に意外性もなく、安心感すら覚える平凡な醤油ベースのスープとやや塩味のある麺の味が口に広がる。


 チャーシューや煮卵などのトッピングも何もなく、味気のない素ラーメンだが、それでも、不思議と十分満足に思えた。それも恐らく、ここに冷えたビールがあるからだろう。


 宮津はグラスに残った半分のビールを流し込むと、はあ。と大きく息を吐いた。それを見た零は、空いた宮津のグラスにビールを注ぎながら言う。


 「こんなに幸せそうなリク久しぶりに見た」


「家に居るときは比較的いつも幸せだぞ」ほんとに?零はニコニコと笑いながらそう言って缶を振り、飲み口から滴り落ちる最後の一滴までグラスに注ぎ込んだ。


 「もう1本開けよっか」


「取ってくる」宮津は、零が動き出すよりも先にそう言い、素早く椅子を引いて立ち上がる。


 「今日はとことん気が利くね」


「今日も。だろ」ひと言訂正を入れると、零はクスクスと笑い声を漏らした。冗談で言ったつもりは更々ないためその反応にはやや首を傾げるところだが、そんな些細なことなど酒の前では毛ほどにも気にならない。


 さっさと冷蔵庫からビールを取って席に戻ると、蓋だけ開けてテーブルの端に置いた。そして、喉よりも腹を満たすべくスプーンを手に取る。


 大皿に平たく盛られたチャーハン、その中央付近にスプーンで筋を付け、それより手前を掻き出すように茶碗へと装った。


 スプーンで触れるだけでわかるほどパラパラになった米粒や、立ち上る湯気から香るごま油の匂いなど、ラーメンをひと口食べたことでたがの外れた食欲が、5感によってますます刺激される。


 インスタントラーメンと違ってあまり食す機会のない冷凍チャーハンに、宮津は少し胸を躍らせながらチャーハンを掬ったスプーンを口に運ぶ。その瞬間、宮津と同様にチャーハンを茶碗に移しながら、零は口を開いた。


 「舞ちゃんのとこ、女の子が産まれたんだってさ」久しぶりに聞くその名前に、宮津は思わず咀嚼する口を止めて奥歯をグッと噛み締めた。


 嬉しい報告のはずだが、例の事件以来、宮津の心に在り続けた自責の念が様々な思いを募らせる。


 「お祝い送っとかねえとな」悲痛な思いを口の中の物と一緒に飲み込んで、そう言って笑ってみせたが、すぐにまた感情が込み上げてくる。


 それと同時に、このまま秘密を抱えて生きていけるのか。綾部たちのように、この秘密のせいで零までも失ってしまうのではないか。そんな不安にも襲われた。


 宮津はそのまま食事の手を止めてボーッとしていたが、ふと視線を上げると、零がまじまじとこちらを見ていることに気が付いた。


 「その顔は、何か大事なことを言おうかどうか悩んでるんでしょ?」図星を突かれ、宮津はビクッと体を跳ね上がらせる。しかし、それ以上はただ視線を逸らし、黙っていることしか出来なかった。


 すると、零はニコッと笑い、柔らかな口調で口を開く。


 「いいよ、今じゃなくても。悩まずに言えるようになってから言ってくれればそれで」宮津はそれを聞いた瞬間、息を呑んで再び零の目を見詰めた。


 隠し事をしていることなど、とっくに気が付いているのだろう。だが、それでも信じて待ってくれるというだ。


 ならば、いつか秘密を打ち明けられるようになる日が必ず来る。それまで零を信じて、もう少しだけ嘘を吐き続けよう。宮津はそう決意し、再びチャーハンをスプーンで掬って口に運んだ。


 その瞬間、上顎に異様な温度差を感じて宮津は思わず顔を歪めた。


「冷たっ」



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