第8話:病院にて






 海軍の街横須賀。海上自衛隊自衛艦隊司令部や地方総監部など海上自衛隊の主要な機関に併せ、アメリカ海軍が保有する原子力空母やイージス艦の事実上の母港となっている横須賀海軍施設が置かれるなど、日本の領海防衛の重要な拠点となっている。


 しかし今いるこの場所は、そんな港が必ず有している磯臭さや油の匂いとは縁遠く、この施設特有とも言えるアンモニアの匂いが辺りを漂っていた。


 「1年くらいはお会いすることないと思ってたんですけどね」高槻の腹部にできた刺創の処置を終えた和泉は、高槻の顔を見詰めて何とも言えない表情を浮かべた。


 「俺も出来れば病院と名の付くとこには来たくなかったよ」高槻はポツリとそう漏らすと、手当てされた自身の下腹部に視線を落とす。


 へその横辺りに貼られた傷パッドには滲み出た血でじんわりと赤い染みができており、視覚的に痛々しさを醸し出している。高槻はそれを隠すようにそそくさと血の付いたシャツに袖を通した。


 「何があったんですか?」


「なに、ちょっとした人助けだ」問い掛けに対し、煙に巻くようなその物言いに、和泉は思わず語気を強め、睨みつけるように高槻を見詰める。


 「それで納得すると思いますか?」すると、高槻は目を閉じて、ふうっと息を大きく吐いて顔を伏せた。


 そのまま少しの間沈黙が続き、和泉もムキになった様子で高槻が口を開こうとするまで沈黙を保った。しかし、結局先に口を開いたのは一向に話す気配のない高槻にしびれを切らした和泉の方だった。


 「ただでさえ、変な時期に異動したせいで周りにあれこれ詮索されるのに、民間人2人を引き連れたお腹を刺された陸上自衛官陸さんにわざわざ訪ねてこられた僕の身にもなってくださいよ。詳しい事情を聞かせてもらう権利くらいあると思いませんか?」和泉はそう言って大きなため息をついてみせると、これ見よがしにデスクの上に散らばった治療道具を片付け始めた。


 静かな処置室に響くガチャガチャという音に和泉の抱く不快感が表れているように思え、高槻は居心地の悪さを覚えた。しかし、それでも高槻は口を開く気にはなれなかった。


 頼み込んで怪我の治療をしてもらったことには当然感謝の念と申し訳なさを抱いている。それでも、事情を話すことによって無関係な和泉を厄介事に巻き込むことになるのではないかと、読めない先のことを思うと不安を拭いきれない。


 そうやって高槻が葛藤を続けている間に片付けが終わったようで、ようやく部屋に静寂が訪れた。しかしそれも一瞬のことで、鍵付きの戸棚にガーゼの箱をしまうと、和泉が再び椅子に腰を下ろしてソッと口を開く。


 「後先なんか考えずに、取り敢えず話してみてくださいよ。僕のことは心配いらないですから」まるで高槻に心中を見透かすしているかのようなその言葉に高槻は視線を上げ、呆れと優しさが入り交じった表情で高槻を見詰める和泉の顔を見返した。


 その顔を見るや否や今まで抱いていた心配は杞憂であったことに気付き、高槻はふふっと笑い声を漏らした。


 「お前も言うようになったな」


「そりゃ、これでも幹部自衛官ですから」そう言うと、和泉は得意げに笑ってみせる。少し頼もしくなったかと思った矢先に見せたその少年のような表情に、高槻は思わず吹き出して俯きながら体を震わせた。


 「えっ、なんですか?」和泉はそれを見て急に慌てだし、おろおろと周りを見回す。それはさながら初めて出会ったときのようで、変わらないその姿に高槻は懐かしさを覚え、それと同時に今まで抱いていた不安が一瞬にして取り払われた。


 「わかった……」高槻はそう言うと、ゆっくりと顔を上げて和泉の澄んだ瞳を見詰める。そこでようやく和泉の方もあたふたとした仕草をやめ、ジッと高槻の方を見返した。


 すると、高槻はフッと笑って再び口を開いた。


「それじゃあ、和泉3等海尉のご厚意に甘えて、頼らせてもらうとするよ」












 自衛隊横須賀病院の一階ロビーは、民間の総合病院と何ら変わりのないだだっ広い空間に各種カウンターと待合用のベンチが無機質に並んでいた。


 民間にも開放しているため、私服の若者やスーツ姿のサラリーマン、杖を持ったご老人などこの場所に居る人の姿も一般の病院と大した差異はない。


 唯一、迷彩服を来た人間や肩幅が広めの人間が民間の病院よりもやや目に付くという点だけが、ここが自衛隊の施設であるということを感じさせた。


 そんな中からでも、小柄な少年と髪を染めた女性のペアを見つけるのはいとも容易いことだった。


 「君が永井大和君だね」和泉はゆったりとした口調でそう言うと、膝を屈めて俯く大和の顔を覗き込んだ。


 すると、大和は驚いた様子でしゃっくりでもしたかのように体をひくつかせ、恐る恐る視線を上げた。和泉は慌てて柔和な表情を作り、両方の手のひらを開いて敵意がないことを示す。


 「僕は和泉悠二。高槻さんの友達だよ」


「あなたが和泉さん?」そう言って反応を示したのは、語りかけた大和ではなく隣に腰を下ろす瑞希の方だった。和泉は1度視線を大和から外して瑞希の顔を見上げると、ニッコリと笑う。


 「鶴岡さんですね。高槻さんからお話はかねがね聞いてますよ」瑞希は軽く会釈すると怪訝そうに和泉の顔を見詰めるが、すぐに和泉がここに来た意味を察し、ゆっくりと立ち上がった。


 「高槻さんは今どこに?」


「タクシー捕まえてくるって言ってましたよ」そうですか。瑞希はそう言ってまた軽く会釈する。


 「ちょっと行ってくるね」大和に向けてニッコリと笑ってウィンクし、足早にその場を去って行く瑞希の後ろ姿を、和泉はまじまじと見送った。そして、姿が見えなくなったところで大和の隣にゆっくりと腰を下ろす。


 その瞬間、大和は膝の上に置いた手にグッと力を込めた。いきなり見知らぬ男が隣に座ってきたのだから当然と言えば当然だが、かなりの緊張が見て取れる。


 「高槻さんから色々聞いたよ」和泉が穏やかな口調を心がけながらそう言うと、大和は俯いたまま身を縮め、何か言いたそうに口を僅かに開いては何も言わずに口を閉ざすということを繰り返した。


 それを見て、和泉は焦らずに時間を掛けようとベンチに深く腰掛け、またゆっくりと口を開く。


 「大和くんは船って好き?」和泉のその問い掛けに大和は1度口を開きかけるも、また言葉を発さずに口を噤んだ。だが、和泉はそれをさほど気にする様子もなく、大和の答えを待たずにまた話し始める。


 「僕は小さい頃から船が好きでさ、特に大砲を積んだ船が。昔から、よくこの辺りに来て自衛隊とかアメリカ軍の船を見てた」そんな和泉の話に大和が耳を傾けているのかはわからないが、膝を握る手の力が少し弱まったようだった。だが、だからといってどうするわけでもなく、和泉はその手を一瞥するとさらに話を続けた。


 「君くらいの歳の時には、将来絶対に船乗りになるって決めてた。でも、親はそれを許してくれなかった。僕の父親は開業医でさ、物心ついた時から医者になれって言われてた。だから猛反対されて、どうしてもなりたいなら家から出て行けって言われちゃって」ひどいよね。そう言いながら和泉はふふっと笑う。すると、大和はゆっくりと顔を上げて笑っている和泉の横顔を見詰めた。


 「そんなこと言われたもんだから僕も吹っ切れてさ、家出同然で防衛医大に入ったんだ。あそこなら、学費もいらないしお給料も貰えるから親の世話にならずに済んだし。それでも、わざわざ医大を選んで看護官になったのは、多分、父親との繋がりを完全には切りたくなかったからだと思う。きっと、心のどこかでまだ家族でいたいって思ってたんだ」わかんないけどね。最後にそう付け足すと、和泉はまた笑った。


 気が付くと、大和は和泉の話に聞き入っている様子で、今まで握っていた膝には肘が置かれており、手の力は完全に抜かれてブラブラと床に向かって垂れ下がっている。ようやく緊張が解けたようで、大和は和泉の目を見詰めると、ゆっくりと口を開き、今度こそはっきりと言葉を発した。


 「後悔、しましたか?」和泉自身もこの道を選んだ理由は未だに自分でもわかっていない。だが、この問いの答えだけは明確だった。


「後悔はしてないよ。過去はどうであれ、今はすっごく幸せだから」和泉は得意げにそう言うとすこし微笑んだが、すぐに真剣な表情になり、椅子にもたれかけていた体を起こし、上体を大和の方に向けた。


 「だから、過去のことは1度置いといて、君の未来の話をしよう」大和は和泉のその言葉に、緊張が解けたばかりの体をまた強張らせる。今、自身の犯した過ちとすぐに向き合わせるのは酷だと感じるが、それでも和泉は大和自身のために話を切り出した。


 「理由は聞かないけど、刺し殺そうとするほど君が親を憎んでることは分かった。でも、せっかく高槻さんが体を張って止めてくれたんだから、違う解決方法を探さない?」


「違う解決方法……」そんなもの、ありもしない。そう言わんばかりに大和は深く考え込んだ様子で黙りこくった。そんな大和に、和泉は諭すように言う。


 「何も肉親だからって絶対に一緒に居なくちゃならないわけじゃない。離れて生きていくことだってできる」和泉はおもむろに看護服のサイドポケットに手を突っ込むと、中から名刺ほどのサイズのカードを取り出し、大和の顔の前に差し出した。


 カードには何かの名称と思しき"泉の家"というレタリングされた文字と、電話番号が書かれている。大和は恐る恐るそのカードを受け取ると、首を傾げた。


 「それ、僕の親族がやってる福祉施設でね、結構評判いいんだよ。理由があって親と居られない子たちの保護や支援をしてたり、希望すれば里親探しもしてくれる」大和はそのカードに目を落とした。だが、安心した様子になるどころか、むしろ顔を曇らせて複雑な思いを募らせているようだった。


 「勿論、それだって選択肢の1つに過ぎない。厳しくても、1人で生きていくっていう道もあるし、高槻さんがいいって言えばだけど、このまま高槻さんのお世話になったっていい。やっぱり、それでも親を殺したいって思うんなら僕は止めない。でも今は、慌てず立ち止まって、じっくりと考えてみてほしい。君の、大切な未来だから」和泉はそう言うと、大和から目を切って、また背もたれに体を預ける。すると、大和も同じようにヘナヘナと力なく後方に体を傾けた。和泉はそんな大和に対して、最後にそっと優しく声をかけた。


「大丈夫、君の居場所はどこかにあるよ。絶対に」










 日が完全に暮れ、街や港からこぼれる明かりと、雲の切れ間から時折顔を出す月明かりだけが海を照らす時刻。処置室とは違い、外は潮と油の混じった匂いの心地よい夜風が吹いている。


 傍を通る電車の音を背景に、病院の正面玄関から走り出したタクシーの赤く光るブレーキランプを見送ると、和泉は電話を取った。


 「お久しぶりです。お元気ですか?」


「良いか悪いかで言えば、悪い方だな」口ではそう言いつつも実際は元気なのだろう。そんな和泉の予想に反し、スピーカーから聞こえてきた宮津の声はかなり気怠さを感じさせるものだった。


 「僕が真面目に大人しくしてる間に何があったんですか?」


「色々だ」宮津はひと言そう発すると、大きな溜息をついて、それっきり口を閉ざしてしまった。それに対して和泉は、要件は?と急かすことはせずに、黙って宮津の息が整うのを待つ。


 そうして、約30秒の沈黙の後にようやく宮津が口を開いた。


 「彼女とは上手くいってるか?」いつもより時間が長く感じられるほど待ちわびた宮津の声だったが、その内容があまりも予想と違ったために、和泉は素っ頓狂な声を上げる。


 「なんですか、いきなり」


「本題に入る前に、一応近況を聞いとこうと思ってな」いつもと何処か調子の違う宮津に若干困惑しながらも、その本題とやらを聞き入れる覚悟がまだ出来ていないので、和泉は宮津の問いに向き合うことを選択した。


 「前に比べて会える時間も増えましたし、結構上手くいってると思いますよ」すると宮津は、そうか。と何故か残念そうな口ぶりで呟いた。そして、悩んでいる様子でまたしばらく口を閉ざす。


 和泉は頭の中にいくつもの疑問符を浮かべながら、宮津が再び口を開くのを待った。


 彼女と上手くいっていたら何か宮津に不都合でもあるのだろうか?よもや宮津にこの身を狙われている?そんな考えが頭を過ったそのとき、宮津が腹を据えた様子で、ふう。と息を吐き、そして口を開いた。


 「近々、特防隊の活動が再開される予定なんだが、戻ってくる気はあるか?」特防隊の活動再開。それは私生活も保証された自衛隊を離れる事を意味し、和泉にとっては、それ即ち今感じている幸せを捨てることに相違ない。宮津もそう思っているが故に言いにくそうにしていたのだろう。


 和泉はそのことについて、今でも鮮明に記憶の中にある出来事を思い返す。


 「前は僕に選ぶ権利がなかったのに、今回はあるんですか?」自分でも思うほど嫌みったらしい言い方でそう問い掛けると、宮津はばつが悪そうにこう応えた。


「あのときのこと、まだ根に持ってんのか」"あのとき"というのは和泉が特防隊に配属されるときのことで、海上自衛隊幹部候補生学校を卒業直後、配属される部隊が決定し、いよいよ夢へと一歩近づくというところで急転直下、宮津らの手により特防隊への配属に変更となり、諸々を経て現在に至る。


 和泉からすれば人生計画が早々に破綻したのだから、宮津の言い草には些かながら怒りを禁じ得ない。


 「そりゃ、親と喧嘩別れしてまで目指した僕の夢がいきなりパーですからね」


「悪かったと思ってるよ。だから今回はこうやって聞いてるんだ」その気遣いは痛み入るが、前々からどうも気を遣うところがズレているような気がしてならず、宮津なりの優しさと人としての不器用さを再認識する。


 「それでどうする?慣れた狭苦しい場所に帰ってくるもよし、広い海の近くでもう1度夢を追いかけるもよしだ」配属される前であれば迷いなく後者を選んでいたのだろうが、数年の時を経た成長の証なのか、はたまた半ば諦めているせいなのか、和泉に迷うという思考の工程を与えた。


思い返してみても、良いことばかりではなく大変なことも多かった。コソコソと陰に隠れながら、誰からも賞賛されることがなく、自身の正義と葛藤しながら日々を送る毎日だった。


 だが、それでも逃げ出さず続けてきたことには理由があった。それに気付いた和泉は、答えを出すのにそれほど時間は有しなかった。


 「確かに、ここに居ればまだ夢を追えますし、ここには僕を必要としてくれる人だって居ます。でも――」和泉は宮津の顔を思い浮かべると、まるでそこに宮津がいるかのように電話の前でニッコリと、屈託のない笑顔を浮かべた。


「宮津さんにも僕が必要でしょ?」





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