第5話:空港にて
成田国際空港第2ターミナル。空の玄関口と呼ばれるここは、国内で最も外国人の多い場所のひとつだろう。国際線の出発ロビーには国に帰る者、他所に行く者など様々な人種国籍の人々によって、保安検査場の前に待機列が形成されている。
その長蛇の列を尻目に、男はソファに腰を下ろして人が捌けるのを待っていた。海外旅行にでも行くのだろうか、薄く花柄の入ったポロシャツに白のストレッチパンツといったラフな服装で、傍に大きな青いバックパックを携えている。そんな観光客然とした格好の中、足元で黒く光る半長靴がひときわ異彩を放っていた。
落ち着かない様子で解けてもいない靴紐を何度も結び直すと、突然周りから隠すかのように前屈みになってスマホを覗き込む。文字を打ち込んでいるのかしきりに指を動かしているが、手が少し震えており緊張がうかがえる。
指を動かし続けること数分、ようやくスマホをポケットにしまった男は座ったままで体を捻って検査の列を一瞥した。先ほどに比べてかなり人も捌けて、並べばすぐに抜けられそうな状況だ。
男は重そうな腰をゆっくりと上げると、足元に置いたバックパックに視線を落とした。そして、大きく深呼吸をして持ち上げる。その所作から中身がパンパンに詰まっているであろうことが傍目からでも容易に想像できる。
右腕だけを肩紐に通すと、肩に担いで列を目指して歩みを進める。ソファのすぐ近くで立ち話をする団体客の隙間をするすると抜けていき、あまり人のいない開けた場所に出ると、列の最後尾に黒いスーツを着たビジネスマン風の男が並んでいるのが見えた。
男はその背中を目掛けて少しだけ足を早める。そうして、列の最後尾に連なる位置で足を止めようとした。
その瞬間、ビジネスマン風の男が突如振り返って一歩を踏み出した。不運にも、振り出した肩と肘がバックパックの肩紐をぶら下げる右肩に接触する。
その衝撃で男は大きく体を退け反らせ、バックパックを床に取り落とした。底に何か硬い物が入っていたらしく、パーンという甲高い音がターミナルに鳴り響く。
「あっ、申し訳ない」ビジネスマン風の男は片手を挙げて謝意を示すと素早く屈み、男のバックパックを拾い上げた。
「怪我はないですか?」
「いえ、大丈夫です」男は笑顔でバックパックを受け取って再び肩に担ぐと、早に去っていくビジネスマン風の男の背を見送る。
遠くまで行ってしまって男の方を気にする様子がないことがわかると、笑みを浮かべていた顔が一転して険しい顔つきへと変わる。少し痛みの残る右肩を手で払って舌打ちを漏らし、その姿が完全に見えなくなるまで怒りを孕んだ眼差しを向けた。
そんな気持ちが落ち着いてくる頃にはちょうど列が進んで、保安検査の順番が回ってきていた。
男はズボンのポケットからスマホを取り出し、デジタルチケットのバーコードを表示させて機械を通す。そして、バックパックの肩紐から腕を抜くと、ベルトコンベアーの前に置かれたプラスチック製のトレーに置き、それをベルトコンベアーの上に載せる。すると、男のバックパックは検査装置に吸い込まれていった。
それから男は、真っ直ぐ進んで行って2枚の白い壁の間に立つ。機械は何の反応も示すことはなく、特に問題はないようだ。
そうして、男は空の玄関口から外へ向けて一歩を踏み出した。
成田空港P2南駐車場。第2ターミナル直結の連絡通路を足早に通り抜けると、ビジネスマン風の男は一目散に停められた黒のレクサスLSのドアを開けた。
愛車のNSXとは違い、タバコの匂いが染み付いた慣れないシート鼻を必要以上に刺激する。運転席に座る男も喫煙者ではないはずだが涼しげな顔をしており、この匂いにすっかり慣れきったようだ。
「次期エース候補直々のお迎えとは恐れ入るよ」
「宮津先輩の頼みとなったら断るわけにはいかないですよ」運転席に座る男――
「入庁してちょっとは丸くなったと思ってたが……」宮津は世屋上の頭を見ながらそうボソリと漏らす。すると、世屋上は宮津を見返して大げさに肩を竦めた。
「方々で散々暴れ回ってる先輩が言いますか、それ?」大学時代に慣れ親しんだその憎たらしい顔と言い草は公僕となった今でも健在のようで、宮津は若干の不安感とともに懐かしさを覚えた。
「それに、見た目で人を判断するのは良くないですよ。こんななりでも、超エリート検事なんですから」軽口が多いのは玉に瑕だがその経歴は華々しいもので、大学在学中に司法試験に合格し現役で検察庁に入庁、A庁明けすぐに政治家絡みの事件の捜査に参加し高い評価を得るなど、自称した超エリートという言葉に嘘偽りはない。
「見た目といえばその男、ただのミリオタにしか見えませんけど、まさかシリアでテロ活動に参加していたとはね。人当たり良さそうな顔してるのに」
「ほんと、人は見かけによらないな」そう言うと、宮津は世屋上の差し出したスマホに視線を落とす。画面には先ほど宮津が保安検査所の前でぶつかった男の顔写真が映し出されている。一度画面をタップすると、下部にいくつかのアイコンが表示され、その右下のゴミ箱のアイコンに指を伸ばす。すぐ後に表示された確認のメッセージの下の方を押すと、男の顔写真はアルバム内から綺麗さっぱり姿を消した。
その直後、手に持ったスマホがブルブルと振動を始める。咄嗟に切り替わった画面へ目を向けると、着信画面に"営業部長"とだけ表示されていたのが確認できたが、すぐに横から伸びてきた手によってスマホを奪われる。
「そんなに凝視しないでくださいよ。恥ずかしいじゃないですか」
「いつから検察庁に営業部ができたんだ?」そんな宮津のツッコミに世屋上は、ん?と惚けて見せると、口の前で人差し指を立てながらスマホを耳に当てた。
「はい、世屋上です」数度相槌を打つとすぐに要件が終わったようで、うっすらと埃が付いたダッシュボードの上にスマホを置いて宮津に向き直る。
「例の男、保安検査所で拘束されたそうです」宮津はそれを聞いて、うんうんと頷いた。そして、徐に運転席の方に手を伸ばし、世屋上が置いたスマホを拾い上げる。
「あとはそっちで好きにしてくれ、"営業部長"殿」それだけ言うと、着信画面のままになっていたスマホの終話ボタンを押した。その様子を見た世屋上は、面食らった顔で宮津の方を見詰める。その間抜け面に思わず笑いそうになるのをグッと堪えながら、宮津は世屋上にスマホを突き返した。
「部長さんに何か聞かせたい話でもあったか?それとも、ただの切り忘れか?」
「後者、ってことにしといてもらえませんかね」そんな宮津の問いかけに、居心地の悪さを誤魔化すかのように世屋上はニッコリと笑う。しかし、すぐに耐えきれなくなったのか、宮津から視線を逸らしてハンドルの上に覆い被さった。
「知ってもらいたかったんですよ、先輩がどういう人間か」口元を腕で隠したまま発せられたその言葉は今までもよりも低い声色で、それが軽口などではないことがはっきりと窺える。
「お前から言ってやれば済む話だろ?」
「伝聞では人の本質は伝わらない。どれだけ注意しても、必ずそれを伝える人間のバイアスが介在してしまいますから」ハンドルの上で首を振りながら、世屋上はそう言った。そして、宮津の顔をチラリと見遣る。
「だから、あなた自身の声で伝えたかった。あなたが敵になったら、どれほど危険かを」宮津は世屋上とは目を合わせることなく、その言葉だけをグッと噛み締める。
「じゃあ、俺を敵にしないようによく言って聞かせてやっておいてくれ」そうします。そんな世屋上の明らかに落胆したような声が耳に届くと、宮津はそのまま黙りこくってシートに体をだらんと沈めた。
そのまましばらく黙っていると、世屋上は手持ち無沙汰な様子で徐にスマホへ手に伸ばす。しかし、なにかを思いとどまったようにすぐにスマホをしまうと正面を向いたままこの沈黙を破った。
「無罪の男の荷物に銃弾を忍ばせて無理矢理別件逮捕するとは、違法捜査もここまでくれば逆に清々しいですね」
「
「それで、その見返りはなんですか?」
「お察しの通りだよ」検察はこちらの意図を汲んだ上で協力したのだろうからここでわざわざ口に出す必要はない。宮津が答えをはぐらかしてみせると、世屋上は難しい顔をして宮津の方を見返した。
そのまましばらくジッと宮津の顔を見詰めていたが動く素振りがないとみると、何かを諦めた様子でジャケットの内ポケットに手を突っ込んですぐに両手を頭の上に挙げた。
「参りました」そう言う世屋上の手にはボイスレコーダーが握られており、既に録音をしている状態のようだった。そして、世屋上はゆっくりとその腕を降ろすと、宮津の目の前にそのボイスレコーダーをそっと差し出した。
「これだけか?」
「本当にこれだけです。嘘じゃありませんよ。なんならここで全部脱ぎましょうか?」そう早口でまくし立てる割に一切服に手を掛けようとする様子はないが、世屋上のことを熟知している宮津は嘘ではないと確信した。
差し詰め、目的を果たすよりも真実を知りたいという欲求が勝ったといったところだろう。宮津は取り上げたボイスレコーダーをダッシュボードの上に置いた。
そして、わざわざ出向いてくれたせめてもの礼にと、ゆっくりと口を開く。
「防衛省もそろそろ動こうと思ってるんだ」
「つまりこれは、忖度させるための袖の下と?」そういうことだ。宮津はフッと笑うと視線を落とした。しかしそこへ、1度口が緩んだことをこれ幸いと更に欲求を満たそうとする世屋上が畳み掛ける。
「ところで、あの男の情報どこから仕入れたんですか?警察も検察も他国での小規模なテロ活動をそこまで詳しく調べませんし、防衛省だってそれは同じの筈でしょう?」
「アイルランドの悪友からのタレコミだ」
「アイルランド……」世屋上は宮津の発した言葉を復唱しながら思考を巡らせる。すると、思い当たるものを見付けたのかハッとした表情で顔を上げた。
「まさかIRAから?」
「さあな」宮津は肩をすくめて答えをはぐらかすが、世屋上は満足した様子でニッコリと笑うと、刺さりっぱなしになった車のキーに手を伸ばしてエンジンを始動させた。
耳馴染みのない轟音が世屋上のその切り替えの速さと相まって少し不快な気持ちにさせる。成果主義でのし上がるエリートらしいと言えばらしいが、宮津の声を撮ろうと散々時間を使った割に、自分の欲求が満たされるや否やすぐに帰ろうとするのは自分本位が過ぎるように思えた。
そんな宮津の心中を知ってか知らずか、世屋上は最後にと前置きを置いた上で優しげに口を開く。
「ここを出たら警察のお見送りがあると思いますけど、今のうちに何か言うことはありますか?」それに対して宮津がゆっくりと首を振ると世屋上は、そうでしょう。と言わんばかりに何度か頷いてサイドブレーキを下げた。そして、ギアをドライブに入れてブレーキに乗せた足の力を抜くと、ゆっくりと車が動き出す。
しかしその直後、世屋上は勢いよくブレーキを踏み込んで進み出した車を止めると、そうそう。と言って世屋上は手を合わせながら顔を宮津の方に向けた。
「まだ裏は取れてないん情報なんですけど、なんでも警視庁管内の所轄署がサクラを紛失したとか」
「へえ」その情報は宮津個人としては興味を惹かれる話ではあったが、こんなときに面倒ごとに手を出すべきではないと考えて軽く受け流す。
「確実に署長のクビが飛ぶな」確かに。世屋上はそう言ってハハッと笑うと今度こそ車を発進させた。始動音こそやかましいが、いざ走り出してみるとそのエンジン音は高級車らしい優雅な音を奏でている。
市ヶ谷に着くまでの間この音をしかと堪能させてもらおうと、宮津は体の力をだらんと抜いてシートに体を沈めた。すると次の瞬間、スーツの胸ポケットに入れたスマホが振動する。
宮津はため息をつきながら完全に気の抜けた手でノロノロとスマホに手を伸ばした。だが、画面に表示されている名前を見るや否や、一瞬にして体に緊張が走る。
「どうした?」そう言ってスマホを耳に押し当てる手には、一層力がこもっていた。そこにすかさず、大きなため息が鳴り響いた。そして、いつになく気力を失ったような様子の高槻の声が電話口から発せられる。
「かなり面倒なことになった」
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