第4話:カフェにて
ある日曜の昼下がり、三連休の中日ということもありショッピングモールは家族連れで賑わっていた。かくいう丹波もその家族連れの1人で、午前中からウィンドウショッピングに興じたのち、ランチも食べて今はカフェで独りくつろいでいるところである。
たまの家族サービスくらいはと意気込んでは来たものの、自分が興味のないこととなるとすぐに疲れが来てしまう。牛歩で進んでは止まるを2時間ほど繰り返した体は、普段鍛えていることとは関係なしに既に動く気力を失っていた。
丹波は腕時計に目を遣って時間を確認すると、ハチミツ入りのカフェラテに口を付けた。思ったよりもハチミツの味が強いが、それが角のある苦味をうまく和らげており、砂糖とはまた違った味わいだ。いつもは缶コーヒーのブラックしか飲まないが、たまにはこういうのも悪くない。
うんうんと頷き、グラスを持ったまま背もたれに体を預ける。四女がまだ小学生の頃はこれくらいなんのことはなかったが、中学生となった今では父親を振り回す力も昔の比ではない。体の疲れに娘の成長と自身の衰えをひしひしと感じる。
そんな感傷に浸っている、突如背もたれににガツンと何かがぶつかるような衝撃を受けた。驚きのあまりに上体を跳ね上がらせると、慌てて振り返って衝撃の正体を確認する。
そこには先ほどまで姿のなかったビジネスマンと思しきスーツ姿の男が座っていた。その椅子は丹波が座る椅子の背もたれに触れるほど極端に後ろに引かれており、どうやらこれがぶつかったようだ。
真後ろにいるため顔は見えないが、後ろ姿から少なくとも丹波よりは若いことが見て取れる。謝れという訳ではないが、ぶつかったのなら声くらいかけてほしいものだ。だが、わざわざ言っていたずらに事を荒立てるのは気が進まない。
黙っているのが吉と判断した丹波は、またぶつけられないように浅く腰掛け、少し椅子を引こうとした。その時――
「相変わらずだな」背後から耳に入ってきたその声に、丹波は動かそうとしてた体をピタッと止めた。そして、やれやれと言わんばかりにフーッと息を吐くと、再び椅子の背もたれに体を預ける。
「相変わらずはお互い様だろ?」振り返ることはせず、背中越しに言葉を投げかけた。すると、男はよく聞き馴染みのある声で、違いない。と答える。どうもこの男が回りくどいのが好きなのは生まれつきらしい。
「あんたは俺の貴重な休みを邪魔するのが好きだな」
「そう言うなよ丹波さん」男はそう言うと、丹波の背後でクスクスと笑った。顔は見えないが、恐らく子供のような憎たらしい表情を浮かべていることだろう。是非ともその顔を拝んでやりたいところだが、そうすることはせずに前を向いたままグラスを口に運んだ。
「俺もそれにすればよかったな」
「もう1個頼んできたらいいんじゃないか。どうせ俺より給料貰ってるだろ」丹波はそう言うと、振り返ってようやく男の姿を伺う。そして、おもむろに頭に手を置いて髪の毛をぐしゃぐしゃと乱した。
「なぁ、宮津大臣官房付?」
「あんたにしちゃずいぶん長い間大人しくしてたな」
「諸々ちょっと手こずってね」テーブルを挟んで向かいに座った宮津はバツが悪そうに肩をすくめた。だが、改めて注文したコーヒーに手を伸ばすと、途端に目の色を変えた。さながら、初めてツナ缶を口にした野良猫のようだ。
「たまにはコーヒーも悪くないな」普段険しい顔つきの人間が目の前で多少幸せそうな顔をしてくれているのは結構なことだが、そんなことよりも今置かれている状況が気が気でない。
「呑気なもんだな。いつどこで公安が見てるかわからないっていうのに」
「多分今も見られてるだろうな」宮津が何かを気にかけることもなくけろっとした様子で発したその言葉に、丹波は思わず口をぽかんと開けた。
「今度は一体何を企んでる?」
「一緒に転職活動するハメになりたくなかったら、それは聞かない方がいい」
「ここまでやらせておいて、今更それを言うか?」そう言って丹波は宮津の眼前に左手を突き出して、ロッカーの鍵をぶらぶらと揺らして見せた。
「こういうのは高槻の専売特許だろ?」
「ただある男にお土産を一発持ってセキュリティゲートに向かって貰うだけさ」なるほどね。全容はさっぱりだが、前よりは穏便に済みそうだ。丹波はほっと胸をなでおろすと、グラスに手を伸ばして一瞬の緊張で乾いた喉を潤した。
「あんまり無茶するなよ。あんたも独り身じゃないんだから」真剣な面持ちで丹波がそう言うと、宮津は急に静かになって手中に納めた鍵に視線を落とした。黙りこくってストラップをいじくりまわし、必死に返す言葉を探っているようだった。
「なぁ丹波さん」丹波の名を呼ぶその声にはいつものような自信は感じられず、上げた視線も右へ左へウロウロとしている。
「俺は、
宮津とそれなりに長い付き合いになる丹波はこの顔を幾度と見てきたが、そのたびに実に適当な言葉をかけてきたという記憶が頭の片隅に存在する。当然、今もそうするのだろう。そんな丹波の考えを、もう1つのある記憶が邪魔をした。
うじうじする宮津の姿と同じくらい、何度となく見た光景。脳裏に鮮明に刻まれたその記憶に、丹波の顔からは自然と笑みがこぼれていた。
「零ちゃんは、もう幸せだと思うぞ」丹波の発したそのひと言があまりにも予想外だったらしく、宮津はピクッと眉を動かして丹波の顔を凝視した。どうして断言できるのか。そう言いたそうにしているのが見て取れる。
丹波は再び自身の記憶を思い起こした。宮津が初めて丹波の家に零を連れてきた日、家に呼ばれて一緒に酒を飲んだ時、街中で2人とばったり出会した日、そのいずれの記憶でも彼女は決まって同じ顔をして宮津の隣に立っていた。
「零ちゃん、あんたと居るときいつも笑ってるぞ」すると宮津は、突如時が止まったかのようにピタッと固まった。臆病な小心者。それが宮津の本当の姿だ。
普段の自信家然とした振る舞いは周りを不安にさせないための虚勢に過ぎず、心の奥底では誰よりも自分自身を疑っている。だからこうして、自分が既に誰かを幸せにしていることに気づけずに罪悪感に苛まれる。まったく手間のかかる上司だ。
丹波は控えめにため息を漏らすが、それも一瞬のことで、すぐに宮津に対してそっと微笑みかけた。すると、宮津もそれに呼応するように固まっていた表情を崩す。
「大丈夫だ」丹波が優しくそう言うと、それっきり2人は口を閉ざした。2人の間にそれ以上言葉は必要ない。それぞれが何かに思いを馳せ、心を通わせ、そのまま時が過ぎていった。
そんな2人を現実に呼び戻すように、テーブルの上に置かれたスマホが音を立てながら震える。丹波はすかさずスマホを拾い上げると、メッセージアプリを開いて適当なスタンプを送信した。
「うちの姫様が呼んでるみたいだ」
「
「最近ずっと零ちゃんとキャッチボールしたいって言っててな、また近いうちに2人で家に来てくれよな」返事を待つことなくそれだけ聞くと、丹波はスマホをズボンのポケットにしまって宮津の方に背を向けた。その背中からは様々な喜びや嬉しさの感情を感じ取ることができる。
丹波にとって、家族との時間が何よりも大切なものなのだろう。普段よりも生き生きとしているその姿を見て、宮津は突然不安に襲われた。
「丹波さん」今にも歩いて行ってしまいそうな丹波を、宮津は思わず呼び止めた。すると、丹波は振り返って不思議そうに宮津の顔を見遣る。
「今回の事が終わったら、市ヶ谷に戻ることになると思う。また丹波さんの幸せを奪うことになるかもしれない・・・」こんなことを口にしたからと言って、何かが変わるわけではないことも、丹波がその覚悟くらいとうにできていることもわかっていた。だが、心のどこかで丹波が迷ってくれることを期待していた。そんな自分がまた嫌になり、宮津は丹波を直視できずにいた。
すると丹波は、なんだ。と拍子抜けた様子で言うと、手を振るように右手を挙げて歩きだした。
「俺は十分幸せだぞ。あんたと出会う前も――」そして最後に、肩越しに宮津を見返してふっと笑った。
「あんたと出会ってからもな」
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