第3話:教室にて
授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響くと、それにつられて橿原は机の天板から顔を遠ざけた。赤くなっているであろう左頬をさすりながらちらりと教室の前方に目をやると、数学教師が数式を書く手を止めチョークを置いて教卓の上を片付け始めた。
「続きは明日の1限にするから予習しておくように」毎授業お決まりのセリフを言うと、教師はテキストや余ったプリントを脇に抱えて教室を後にした。ドアが開くガラガラという音を耳にし、橿原は再び左の頬を机の天板と密着させる。
しばらくしてホームルームが始まった。連絡事項を伝える担任は机に突っ伏す橿原に気づいてはいたが、いつもこの調子なので注意されることもなく、結果として次に顔を上げたのはホームルームが終わってからだった。
快眠とはいかないまでも、退屈な時間を一瞬で消化することには成功し、ある程度の満足感を得た橿原は上体を起こして大きく伸びをした。
「カッシーやっと起きたか」そう言って、1人の男子生徒が橿原の隣の席に腰を下ろした。仲良さげに話しかけてきたが、彼の名前を橿原は覚えていない。今まで何度か言葉を交わしたことはあるはずだが、記憶の片隅にもその氏名は浮かんでこない。仮に田中くんとしよう。
「なぁなぁ、ここ教えてくれよ」田中は机を寄せると、教科書を開いてさっき授業でやったであろう箇所を指さした。近頃、放課後になるとこうして授業の内容を聞かれることが増えた。
まともに学校へ顔を出すようになったことも一因だとは思うが、1番の原因は中間考査でうっかり成績優秀者として廊下に張り出されたことだろう。
成績自体は前と大して変わらないが、受験生とは思えない1学期の欠席、遅刻、早退の数々が大幅に改善され、晴れて生活態度も認められたというわけである。
学校での勉強は退屈きわまりないが、他人に頼られて勉強を教えるということに関してはその限りではない。
とりわけ、高校3年生のこの時期ともなると友人同士であってもピリつくことがあるが、そうはならず素直に頼られると悪い気はしない。幸いにも、期待に応えるだけの力は持ち合わせているつもりだ。
橿原はカバンの中からスケッチブックを取り出し、教科書の最終盤の分野を解説していく。ちょうど最近授業を無視して勉強していた場所だったので、完璧とまではいかないまでも、最低限実践できる程度に理解させるには十分こと足りたのではないかと思う。
「カッシー教師になったらいいんじゃない?めっちゃ教えるのうまいよ」
「ありがとう」橿原は満更でもない様子で答えたが、実際のところは教師になる予定は頭の片隅にもない。仮に教師になったと想像してみても、自分自身のような生徒がいればとてもじゃないが面倒を見切る自信がない。学友のこのアドバイスは、記憶の思い出せないくらい奥底に留めておくことにしよう。
「ありがとなカッシー」田中は満足した様子で荷物をまとめると、橿原に手を振りながら教室を後にした。
田中の姿が見えなくなると、橿原はそれまで力を入れていた全身を脱力させ、プラスチック製の椅子に体を投げ出した。何の気なしに窓の方に視線をやると、窓際の席に数人の女子たちが集まって話しているのが目に入る。
毎日毎日一体何をそんなに話すことがあるのだろうか。橿原は聞き耳を立ててしばらくそのまま眺めていた。
「いいなーもう大学決まってる人は」女子の中の誰かがそういうと、ある1人が得意げにピースして見せた。どうやら早々に受験戦争を終えた1人が、昨日催されていた秋祭りに遊びに行ったという話だそうだ。
「先に頑張ったから、後は遊びまくるんだー」眩しさすら感じるその屈託のない笑顔に、橿原は呼吸をすることを忘れてジッと見惚れていた。すると、彼女はその視線に気づいたようで、熱い視線の主を見返した。
うっかり目を合わせてしまい、橿原の体に緊張が走る。話したこともない女子たちを遠目からこっそりと盗み見していたのがバレたとなると、この後橿原に待ち受けている運命は、他の女子たちに告げ口をされて卒業するまで犯罪者のような扱いを受けながら学校生活を送ることだろうか。
今更あからさまに目をそらすことなどできるはずもなく、橿原は固まったまま、わずかばかりの平穏な学校生活を偲んで固唾を飲んだ。しかし、彼女がとった次の行動は想像のそれとはかなり違った。
彼女は橿原を見て一瞬キョトンとした表情を浮かべたが、すぐにいつもの微笑み顔に変わる。そして、少し恥ずかしそうな様子で橿原に対して小さく手を振った。
あまりにも予想外の展開に、手を振り返す橿原の動きはぎこちなかった。それでも、唯一自由が利いたその顔だけは彼女の微笑みのように自然で穏やかな表情を浮かべている。
「
固まったまま後悔の念ばかり募らせていると、無意識のうちに焦点がズレて視界に映る景色はぼやけて見えるようになった。その中で何かが動いていることに気がつくのはたとえ視界の中央であっても容易ではない。
気がついたときには、彼女は三つ編みの綺麗な黒髪を揺らしながら橿原のすぐ側まで歩み寄っていた。そして、橿原の前の席に行くと、椅子を引いておもむろに目の前に腰を下ろした。椅子の背もたれに身を乗り出した彼女は、橿原の顔をジッと見つめる。そして、首を少し傾げてニコッと笑った。
間近で見る彼女の顔に鼓動が高鳴るのをはっきりと感じ、橿原は少しだけ目を背ける。果たして自分は今どんな顔をしているのだろうか。顔の端々が緩んで変な表情になっていないだろうか。顔を背けたのが無愛想な悪い印象を与えていないだろうか。数々の不安が頭を過ぎるが、少なくとも今確実に言えることは、顔が先ほどよりも赤みを増していることくらいだろう。
橿原の心配をよそに、彼女は覗き込むようにまた首を傾げる。そして、橿原の眼前で人差し指をビシッと突き立てて橿原の視線を向けさせると、ニッコリと笑って口を開いた。
「私のことわかる?」橿原は一瞬面食らったが、意外にも口ごもったりすることなく、すんなりと会話をすることはできた。
「
こういうタイプは裏での性格は悪いと相場が決まっているが、実際そんなことはなく、男女問わず交友関係が広い上に誰の口からも悪い話は聞かない。
当然、異性に交際を申し込まれたことも数知れないが、その全てが玉砕に終わったそうだ。誰も傷つけないがために交際を断っていると囁かれるなど、一人歩きする噂までも欠点がない。まさに才色兼備、雲中白鶴の如き才媛だ。
そんな天音が、対極の存在とも言えるサボタージュ常習犯の自分に何の用があるのか、橿原は不思議で仕方なかった。
離れたところから盗み見していたのが原因にも思えるが、それを咎めるような雰囲気には到底見えない。むしろ嬉しそうにしているようにも見える。橿原の頭の中にはクエスチョンマークばかりが浮かんだ。
「憶えててくれたんだ」
「そりゃクラスメイトだし、一応」嬉しそうにする天音に対して、橿原は少しそっけない返事をした。食い気味に言うと変に思われるかもしれない。そんな不必要とも思える心配をして素直な反応をすることができなかった。本当はもっとずっと前から知っていたのに・・・
ほぼ初対面の橿原と天音は、あれからしばらく自己紹介のような会話を交わした。最近になってやっとまともに学校に来るようになった橿原と、塾のために授業が終わったらすぐに帰っていた天音。そんな2人が放課後の教室で椅子に座って話しているのは、以前には考えられない奇妙な光景だった。
だが、それを目敏く見付けて口にする人間はここには居ない。誰もが周りに関心を持っているようで無関心で、騒がしくもあり静かでもある。橿原は、そんな刺激のない日常の片隅にいた。
「橿原くん勉強教えるのうまいんだね」天音はそう言って、おもむろに机の上に置かれた教科書を手に取った。
ペラペラとページをめくる手は透き通るように白く、間近で見ると細く綺麗だということがよくわかる。橿原の視線はそこに釘付けになる。そうなると、他の感覚がお留守になるのは言うまでもなく、天音が問い掛ける声にしばらく気づかず、ビクッと体を跳ねさせながら視線を上げることになった。
「橿原くん?」
「ごめん、聞いてなかった」そう言って、おどおどしながら聞き返すと、天音は唇に手を当ててクスリと笑った。そして、優しい口調でさっきしたであろう問いをもう1度口にする。
「橿原くんは大学どうするの?」
「一応行けるとこに行くつもりだよ」すると、天音は先ほどまでの落ち着いた表情を崩し、そうなの?と驚いた様子で漏らした。
「てっきり、今のバイト先に就職するつもりなのかと思ってた」橿原が進学する気がないと考えるのは、天音に限らずとも誰もが思うごく自然なことだろう。
都内有数の進学校に入学しておきながら学校よりもバイトを優先して遅刻早退を繰り返し、丸一週間学校に姿を現さなかったことも1度や2度ではない。年に数回の定期試験の成績と学校側の温情で辛うじて入学時の同級生が今でも同級生でいるが、とてもじゃないが高等教育を受ける気があるとは思えない。
実際問題、橿原自身も宮津の下で働くようになってからは進学をする気などこれっぽっちもなかった。
「
「それで最近はちゃんと学校に来てるんだ?」来ているというよりは来ざるおえなくなっているといったほうが正確ではあるが、ここでは正確であることになんの意味もないのでそういうことにしておこうと、橿原は頷きながらぎこちなく笑みを浮かべた。
「何処に行くかは決まってるの?」
「今のままで試験前にちょっと勉強すれば入れそうなところかな?」取り敢えず答えてはみたものの、そうしたいという断固たる意思はない。それ故か、本当にそれでいいのか自分自身に問いただすように自然と語尾が上がった。だが、天音はそれを気にする様子もなく優しい表情を浮かべて口を開く。
「もう少し頑張ってみない?」橿原はしばらくその言葉の意味が理解できなかった。ぽかんと口を開けて間の抜けた顔をしていると、天音は再び机の上に置かれた教科書を手にとって、自らの顔の前に掲げた。
「これから毎日放課後に勉強してもっと上の大学目指そうよ」教科書の裏に顔を隠し、喋るのに合わせて教科書を左右に傾ける。そして、教科書の横から顔をひょこっと出すと、少し首を傾げてニコッと笑った。
「私が教えてあげるからさ」真面目で大人っぽいイメージしかなかった天音が見せたやや子供っぽい可愛らしい一面を垣間見て、橿原は彼女が完璧と称される理由をよく思い知った。そして同時に、彼女の提案がただの哀れみだけでないことも。
「目的があれば、毎日学校に来てくれるでしょ?」
ベランダから教室の中を覗くと、友人たちが下校した中で律儀にポツンと座って待つ天音の姿を見ることができる。手短に済ませなくては彼女に申し訳ない。橿原は頭から邪念を振り払うと、スマホの向こうに意識を集中した。
「あれだけ連絡してくるなって言ってたのは何処の誰でしたっけ?」
「橿原クンがサボらずにちゃんと学校に行ってるのか、どうしても気になってな」スマホ越しに聞こえてくる宮津の声は、最後にあったときと変わらず元気そうで橿原は安心感を覚えた。
「心配しなくても、有意義な時間を送ってますよ」
「そりゃよかった」嫌味を込めた返答に、宮津は実に簡素な相槌を打った。その言葉に込められた温かみから察するに、電話の理由は他にあるのだろう。手短に済ませたいところだが、自分から用件を聞いて体良く面倒を押し付けられるのは避けたい。どういう態度をとるべきかおいそれとは決めかねるので、少し様子を見ることにした。
「最近どうしてる?」どう。という質問は、橿原がこの世で1番苦手としている問いかけだ。抽象的で質問者が何を意図しているのか推し量り難い。そして何よりも、今は報告するほどの近況がないというのが悩ましい。
「学校行って寝て起きて帰るくらいですね」宮津が望んでいる答えかどうかはわからないが、こう答えるほかにやりようがない。
と思ってはいたが、いざ口に出してみると他に伝えるべきことがあることに気付き、慌てて付け足す。
「あと最近筋トレを始めました」すると、宮津はにんまりとしているのが容易に想像できるほど嬉しそうな声色に変わった。
「やっと防大に行く気になったか」
「まさか。ただの暇つぶしですよ」宮津は橿原自身の後の人生も考えて、橿原を官僚ないし制服組にしたがっているようだが、当の橿原にとっては、国に従事しつつもある程度自由が利く今の状態が理想的であった。この考えの乖離もそろそろ解消せねばならないだろう。
すっかり自分の身の上を考えていた橿原だったが、ふと我に返り校門の前に立つ時計に目を遣った。幸いにもまだそれほど時間は経っていないようだが、この調子がいつまでも続くと、さすがに待ってもらっている天音に申し訳ない。教室の中にいる天音を一瞥すると、橿原は意を決した。
「それで、本当の用はなんですか?」
「ん?」宮津は面食らったように素っ頓狂な声をあげた。しかし、それがとぼけているだけで演技だということは明らかだ。ここで下手に突っ込むと完全に宮津の土俵にあげられるところだが、そうそう簡単に主導権は渡さない。
「大した用がないなら切りますよ。僕も暇じゃないんで」
「てっきり暇かと思ってた」またも驚いた様子で、宮津はボソリとそう言った。今度は演技なのか本気なのか判断できなかったが、とにかく無性に頭に来る物言いだ。仮に本気なのだとしたら無条件に暇だと思われているのは心外だし、また演技なのだとしたら、そう思ってしまった時点で宮津の思惑通り。どちらにせよ人の神経を逆なでするのがお上手である。
「残念ながら、ちょうどさっき暇じゃなくなりました」注意していながらまんまと宮津の術中にはまりかける自分自身への苛立ちを抑えながら発する言葉は自然と語気が強くなった。すると、宮津はクスッと笑う。完全に遊ばれている。そう思ったのも束の間、宮津は急に柔らかな声色になって口を開く。
「高校生してるようで安心したよ」橿原は、宮津のそんな声を聞いて目を丸くする。豪速球がくると予想していた中で半速球を投げられたかのような感覚だ。実に調子が狂う。
だが、これが気紛れや誘導などではなく、宮津が橿原たちに出会ったときから変わらず根底に抱いている感情であるということを知っている。
そして、橿原は思い返した。道を誤りかけた自分を、必死になって止めてくれた宮津のことを。最後まで宮津に着いていこうと決めたあの日のことを。気がつくと、橿原の口からは自然と笑みがこぼれていた。
「なんだ?」怪訝そうに尋ねる宮津に、なんでもないです。と適当に返事をする。そして、さきほどまで抱いていた、厄介事を押しつけられたくないという考えなどこれっぽちもなくなり、屈託なく晴れやかになった気分にまかせて、橿原は口を開いた。
「しょうがないから、今なら何でも頼みを聞いてあげますよ?」
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