第10話:結果と結末






「御上はかなりご立腹だぞ」


「でしょうね」警視庁への侵入から数日、松阪からの呼び出しを受けた宮津は防衛計画部の部屋を訪れた。警視庁への不法侵入と窃盗、おまけに発砲までしたとなると流石に黙っているはずもなく、すぐさま非公式の会合が催されたらしく、その結果を知らせるとのことだ。


 「あちらはなんと?」


「非合法組織の活動を凍結することを条件に今回のことには目を瞑るとのことだ」あくまでも自分たちは被害者だというような警察側の口ぶりは気になるが、落とし所としては妥当なところだろう。


 「まさかとは思いますが、黙ってそれを飲んだりしてませんよね?」


「そのまさかだ」松阪のその返答に、宮津は違和感を覚えた。本を正せば、公安部が法案作成を担当する綾部を拉致したことがそもそもの問題なはず。それによって今回の法案は全ておじゃんになり、その上綾部に怪我も負わされた。それをカードに強気に出るかと思われたが、松阪の考えはそうではないらしい。


 「何を企んでいるんです?」


「別に何も。ただ連中の目がなくなるまでおとなしくするだけだ。処遇は追って伝える」松阪は両手を広げて大袈裟に反応してみせた。が、当然宮津がその言葉を額面通りに受け取ることはない。必ず何か考えがあるはず。


 もっと言えばその考えもおおよその検討がついていた。できることなら本人の口から聞きたいところだが、このままいくら問い詰めようともそれは叶わないだろう。少なくとも、こちらから真実を言い当てるまでは。


 「話は以上だ」松阪がそう言うと、宮津は頭を下げて踵を返す。そして、納得のいかないながらもその思いを押し殺して一直線に扉へと向かう。ところが、扉まであと2、3歩というところで突然背後からかけられた声に足を止めた。


「近々新しい参事官が着任する。挨拶に行く準備をしておけ」松阪のその言葉を聞いて、宮津は一瞬静止した。その一瞬の間で思考を巡らせる。


 何故、綾部が法案を作成していることを公安が知っていたのか。何故、タイミングよく赤坂に公安が現れたのか。何故、宮津に協力的だった舞子が防衛省の調べには応じなかったのか。これまでに抱いていた違和感や疑念の全てが腑に落ちる着地地点。即ち、この事件真相。その一説にたどり着いた。


 「なるほど。それが目的ですか」宮津はそう呟いて天を仰いだ。そして、松阪の方を振り返って少し睨むような顔で見遣ると諭すように言う。


 「隠し事はなしにしてくださいと言ったでしょう?」それを聞いた松阪は僅かにだが眉をピクッと引きつらせ、驚いたような表情を見せた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに元の様子に戻るとお返しとばかりに笑みを浮かべる。


「お互い様だと言っただろう?」






 外気温が35度を超える炎天下の駐車場。左手に見える並木の影からは石の大鳥居が顔を覗かせている。


 何も考えずに空いている場所に車を止めたが、先ほどまで太陽を隠していた雲が風に流されるとフロントガラスからまるで合わせたかのように日差しが差し込んできて、いくらエアコンの風力をあげようとも逃れることのできない暑さを感じる。


 宮津はここに駐車したことを後悔しながら、右手で目に入る日光を遮って窓の外にに視線を向ける。参拝客の乗用車や大型の観光バスが入れ替わり立ち替わり出入りしていく中、大鳥居の方から歩いてくる徒歩の参拝客に目を光らせた。


 当然と言えば当然だが、Tシャツや薄手のブラウスといったようなカジュアルな服装の参拝客がほとんどで、宮津のようにネクタイを外しただけのクールビズで来る者などいない。


 しかし、そんな中に他とは明らかに違う服装の男が紛れ込んでいる。ノーネクタイの白いワイシャツに下は黒のパンツといったビジネスマン風の男で、歳は20代半ばから後半、背丈は180前後と宮津とほぼ変わらない風貌だ。


 男は参道を横切ると駐車場まで一直線に歩いてきた。そして、一切躊躇することなく宮津が乗る車の助手席側のドアを開けた。


 「その歳でNSXを買えるなんて羨ましいね」男はそう言うと助手席に腰を下ろしてドアを閉める。そして、軽そうなバッグを投げ捨てるようにダッシュボードの上に置いて運転席に座る宮津の方を向いた。


 「初めまして。宮津陸仁さん」


「2度目だろ。岡崎湊斗オカザキ ミナト」すると男-岡崎湊斗-は意外そうな顔をして驚いた。そして、まるで知り合いにようやく名前を覚えて貰えたことを喜ぶかのような嬉しそうな顔をした。


 「金目周一カナメ シュウイチのときのこと、覚えてたんだ」この岡崎という男は、宮津が金目周一の聴取に行った帰り、警察署の玄関で宮津を庁舎まで送ると申し出た男だ。そのときはまさか公安の人間などと思いもしなかったが、はっきりとこの顔は覚えていた。


 「以外に早かったな」


「そりゃ、公安警察に電凸されたらほっとくわけにはいかないでしょ。それも、プライベートの携帯にかかってきたのならなおさらに」そう言うと、岡崎は運転席に座る宮津に対して右手を差し出した。と言っても、その手は握手を求めているわけではなく、ダッシュボードの上に置かれた茶封筒に向けられている。宮津はゆっくりと封筒に手を伸ばすと、中から紙を取り出して1枚1枚確認していった。


 「まさか名簿が狙いだったとは思わなかったよ」


「警視庁に行く機会なんて滅多にないからな。やれることは一度にやらせてもらった」宮津はそう言いながら岡崎の顔写真が載った紙に視線を落とした。


 年齢は宮津と同じ28歳。警察学校を上位2%の成績で卒業し、警視庁公安部外事三課を経て現在の公安第三課に配属された。一見したところ華々しい経歴で、ノンキャリアではあるもののエリートであるという印象だ。


 「かなり優秀みたいだな。ノンキャリなのが不思議なくらいだ」


「そりゃどうも」岡崎はそう言いながら、早くよこせと言わんばかりに差し出した手をピクピクと動かした。それをなだめるように微笑むと、ところで。と話を切り出す。


 「彼女とはいつ会わせて貰えるんだ?」宮津は名簿のうちの1枚をひらひらと扇ぐように岡崎に向ける。そこには、赤坂や警視庁で顔を合わせた厩橋ウマヤバシという女とは別の若い女の写真が写っている。

「さあ?恥ずかしがり屋だからね。会いたがらないんじゃないかな」


「残念だ。うちのガキンチョがかなり興味を持ってたんだがな」宮津は橿原の顔を思い浮かべて哀れみを抱きながら、名簿を封筒の中に戻してようやく岡崎の差し出した手の上に置いた。受け取った岡崎はすぐに封筒を開け、紙幣の枚数を数える銀行員のごとく名簿を確認するとダッシュボードの上に置いたバッグに封筒を仕舞う。そして、はあ。と大きなため息をついてシートに体を沈めた。


 「まんまと君らの掌の上で踊らされたよ」いや。岡崎はそう呟いて宮津のほうに視線をやる。


「君も踊っていたうちの1人か。松阪澗正マツサカ カンセイの掌の上で」岡崎のその言葉と視線に、わずかながら身を震わせた。的確に図星を突いてじわりじわりと精神的に追い詰めていくその様は、宮津自身が目指す攻め方であり、宮津の天敵とも呼べる松阪の常套手段に似ていた。


 「我々が阻止に動くのを見越して防衛省公安部法案を作成する動きを見せて、まんまと綾部君聖アヤベ キミマサを拉致させた。そして、その消毒・・を君らに行わせ、我々との衝突を生んで警察と防衛省の間に決定的な確執を作り出した。すべては、統幕から警察と繋がっている人間を排除するため。そのために官僚1人を辞任に追い込み、直属の部下まで欺いた」岡崎はフロントガラスから見える空に目をやった。そして、ははっ。と息が喉に擦れたような笑い声を漏らした。しかし、その表情は決して楽しそうなものではなく、ただ笑うしかない。そんな虚無感に溢れた目をしていた。


 「別班らしいやり方だ。さすがとしか言いようがないよ」宮津もこれにはまったくの同感であった。自分が主導して進めていたはずの捜査も蓋を開けてみれば松阪にそう仕向けられていたに過ぎず、不可解な点も全て統合幕僚監部に潜むスパイをあぶり出し排除するという唯一の目的のために仕掛けられた撒き餌だったのだから。


 思い返してみれば、法案を作成するのが綾部だと知っていて拉致したことや、宮津が赤坂の貸しオフィスを訪れた丁度そのときに公安の面々が姿を現したこと。両方ともあまりにタイミングがよすぎた。


 法案の作成を開始するちょうどその日に合わせて綾部を拉致できたのは、恐らく何者かが公安に情報を流していたから。そして、この法案を推進してきた松阪は当然、綾部がタコ部屋に入る日を知っていたはず。とは言え、松阪が直接流したとは考えづらい。わざとスパイの耳に入れ、公安に流したと考えるのが自然だ。宮津が赤坂の貸しオフィスを訪れるタイミングも同様だと思われる。


 では、何故そんなことをしたのか。それは恐らく、スパイの正体を突き止めるためだろう。いくら防衛省と公安に確執を生み、統幕のメンバーを更迭する大義名分を作ろうとも、肝心のスパイが誰か特定できなければ意味がない。そこで松阪は、それぞれに異なった情報を少しずつ渡し、そこから公安にどの情報が渡っているのかを特定したのだろう。


 次に、宮津ら特防隊が捜査に乗り出したきっかけだ。それは言うまでもなく防衛省の職員だけでは綾部の行方を追うことができなかったからだ。庁舎を訪れた記録は拉致の前日までしかなく、妻である舞子マイコからも情報を得ることができなかった。そこで特防隊が捜査を開始し、防犯カメラの映像や舞子の証言から綾部の居場所を特定するに至ったわけだ。


 しかし、綾部自身ですら自らが公安の手の中にあったことを知らなかったのだから妻である舞子が手掛かりを知っているはずがなく、隠すことなど何もなかったはず。にもかかわらず、舞子が防衛省の調べには応じず、宮津にだけ協力したのはあまりにも不可解だった。言い換えれば、協力しないわけがないのだ。それが意味することは何か。


 恐らく、舞子は聴取した職員に綾部の行方がわからなくなったことを知らされた。しかし、舞子は事前に綾部からどこかの貸しオフィスで法案作成することを聞いており、単なる連絡ミスによって起こった騒ぎだろうと思い込んで深刻には受け止めず、職員にその旨を伝えた。


 当然その職員は上に報告しただろう。しかし、その報告を松阪が握りつぶし、誰にも悟られることなく自然に宮津へと捜査の主導権を渡した。


 あとは松阪が手を出さずとも自然に物事が運ぶ。宮津が綾部の居場所を突き止め貸しオフィスに乗り込むと、公安と鉢合わせし何かしらの軋轢が生じるのは不可避。


 そしてこのとき、宮津のスーツに仕込んだ盗聴器によって宮津が赤坂に現れるタイミングが公安に知られていることがわかり、参事官がスパイであったことを突き止めたのだと考えられる。


 その後、警視庁に侵入し綾部を奪還。警察と防衛省の会合が開かれて特防隊の活動凍結が決定した。全て松阪の思い描いたシナリオ通り。


 唯一構想外のことがあったとすれば、それは警視庁から特防隊を監視する公安警察官の名簿を盗み出したことくらいなものだろう。


 これら全てを宮津に隠していたのは、特防隊の存在を知る者は宮津ですら例外なくスパイの容疑者として考えており、同時に宮津がスパイではないことを証明するためだろう。


 もっとも、これらは全て宮津の推測でしかない。それも当然だ。誰かから情報が漏れる可能性を一切排除した上で、自然に何人もの関係者を利用して全てのことをやってのけてみせたのだから、証拠など残るはずもない。


 1匹の兎を獲るために確実に確実を重ねる、別班にいた人間だからこそ成せた計画だ。結果として松阪は綾部の身柄とスパイの排除、おまけに敵の詳細な情報まで手にした。二兎追う者が三兎得た形となった。


 宮津と岡崎は車のフロントガラスから同じ空を見上げた。もう6時が来ようとしているのに空はまだ青く、夜の気配をまったく感じさせない。


 宮津は腕時計を見遣ると、ハンドルの根本付近にあるボタンを押して車のエンジンを切った。そして、岡崎の方に顔を向ける。


 「参拝していくか?」


「駐車料金くらい払いなよ」その返答に宮津は思わず面食らった。車のことで年収を羨ましがっておきながら、よもや駐車料金を出し渋るような人間だと思われているとは考えもしなかった。


 「別に駐車料金が惜しいから行くんじゃない。この国のために戦った英霊に手を合わせるのは当然のことだろ?」


「生憎、僕らはそれを監視対象って呼んでるんでね」岡崎はそう言うとドアを開けてバッグを持って車外に出る。そして敬礼のように右手を自らの額に当てた。


「それじゃあ、また」






 「というわけだ。しばらくの間会うことはないだろうが、各々職務を全うするように」特防隊に言い渡された処分は、一時的な活動の凍結という想像よりもはるかに軽いものであった。恐らく、スパイを排除した功績を盾に松阪が便宜を図らせたのだろう。とはいえ、凍結が解除されるまではこの6人が顔を合わせることは禁じられ、もし破れば片道切符の島流しに遭うことになるとのお達しだ。


 凍結の間、高槻、丹波、和泉の3名はそれぞれ元々所属していた各自衛隊の部隊で活動することになり、橿原、斑鳩の両名については他の隊員及び、防衛省への接近禁止命令を課して普通の学生生活に戻ることとなった。


 「あんたはしばらく何処で何をするんだ?」すでに口元が緩みかけている丹波の問いかけに応じるのはこの後の光景を想像すると非常にはばかられるところではあるが、黙っていても解決にはならないだろう。


 「防衛大臣官房付で雑務だとさ」しぶしぶ口を開いた宮津だったが、案の定も案の定、丹波が意地悪そうな笑顔を向けた。


「ああ、不祥事起こした官僚が辞める前に飛ばされるところか」丹波のそのひと言で一瞬にして場がドッと笑い声に包まれた。そして、宮津はすぐに口をへの字に曲げてこの場にいる面々の顔を見回す。


 全員が笑っているとは言っても、ほとんどがクスクスと控えめに笑っており、乾いた目つきの宮津と目が合うとすぐに口を結んで居直った。


 しかし、斑鳩だけは違った。大きく口を開けて笑い声を上げ、今にも転がり出しそうなくらいだ。宮津が視線を向けても、それに気付くことすらなく腹を抱えている。おまけに、腹が痛い。と笑いながら騒ぎ出す始末だ。


 この図太さが変装と不法侵入をやりきる秘訣なのかも知れない。宮津の脳裏に一瞬そんなようなことが過ったが、今はとにかくこのバカみたいに笑うバカの顔が憎たらしい。


 笑う面々を恨めしそうに見ていた宮津も、いつの間にか口元が綻んでいた。丹波はそれに目ざとく気が付いたが、ただ微笑ましそうに眺めるだけで、そのことに突っ込むことはしなかった。


 「2度と市ヶ谷に踏み入らせねぇからな。覚悟しとけよ」ひとしきり笑ってようやく静かになってきた斑鳩に、宮津は指をさしてそう告げる。すると斑鳩は、慌てた様子で丹波の方を指差した。


「言ったのは丹波さんじゃないですか!」


 その後も不毛な言い合いはしばらく続いた。まるで親子かのように楽しそうに口撃を交わす丹波と斑鳩を眺めていた和泉は、無関心な様子でスマホを見る高槻へと視線を向ける。


 高槻のスマホはメッセージアプリの画面を映し出しており、相手が送信したメッセージであることを意味する白い吹き出しと自分が送信したことを表す緑の吹き出しとが交互に画面を上から下まで覆い尽くしている。


 高槻は視線に気が付くと、スマホをスリープにしてデスクの上に置いた。そして、視線の元を辿って顔を上げる。


 「なんだよ?」目を合わせてしまったチンピラかのようにそう言うと、話の輪に入らず高槻のほうを見詰める和泉を不思議そうに見返す。


 「彼女さんからですか?」これに対して高槻は、だったらなんだ。とでも言いそうな気怠げな顔をしたが、実際にそう言うことはなく、ああ。と首肯した。


「高槻さんってなんやかんや言いながらも面倒見いいですよね」


「なんやかんやは余計だ」完全に力を抜いてやる気のなさそうな姿とは裏腹に飛んできた素早いツッコミに対して安心感を覚え、思わず口元を綻ばせかける和泉だが、そうすると今度こそ何を言われるかわからないのでなんとか自重する。


 「ただ単に信用してないだけだ。他人のことはあれこれ世話を焼く癖に、自分のこととなると1人で抱え込んで話そうとしない」和泉がくだらない心配をしているなどつゆ知らず、高槻は真剣なトーンで自らの行動の理由をまるで照れ隠しのために無理矢理理由を並べているかのような言い方で述べた。


 しかし、それが照れ隠しなどではなく本心であるということははっきりと伝わってくる。


「あいつと同じだよ」そう言った高槻の目線は宮津の方に向いていた。


 今回の事件で高槻がいの一番に宮津の監視を提案したのは、宮津の性格を知ってのことだったのだろう。いくら任務といえど、友人が関係していれば私情を挟まないことは容易ではない。ましてや、公安の影がちらつく中でともなると、余計に周りを巻き込もうとしない。だから高槻は、宮津の行動を監視し、宮津を救おうとした。


 これで謎は解けた。安心して海自での任務に就くことができそうだ。和泉はスッキリとした様子で壁に掛かった時計を見上げる。時計の針は午後5時のすぐ後を指し示していた。


 官公庁は定時ぴったりに帰宅できるという幻想を抱いていた時期もあったが、そうではないという現実を知って久しい。宮津が頻繁に終電間際までこの部屋で仕事をしていたことはもとより、和泉が出勤する時間になって庁舎から出てくる職員も多かった。かく言う和泉自身も、ここで寝泊まりをしたのは1度や2度では済まない。


 気が付けば自衛官としての活動よりも特防隊での活動の方が長くなっていた。最初こそ望んでここへ来たわけではなかったが、ここでの生活もそう悪いものではなかった。


 凍結は少しの間だけというのはわかっているが、まるで永遠の別れかのようにここでの日々が頭を過っていく。和泉は、大丈夫だ。と自分に言い聞かせると、両方の掌で顔を拭って顔を上げた。


 丹波や橿原、斑鳩も帰り支度が済んだようで、立ち上がって椅子をきちんとデスクの下に入れると、鞄やリュックを手に持った。


 身支度を調えようとする素振りも見えない宮津と高槻は、恐らくもうしばらくここに残るのだろう。全員が揃ってるうちに退散してしまおう。和泉も立ち上がって、椅子を整え、全員の顔を見回す。


 そして、にっこりと微笑み、深々と頭を下げた。


「それじゃあ。またそのうち」






 「見送らなかったんだな」2人だけになって閑散とした部屋を高槻の声がこだまする。なんの前触れもなく高槻はそう言ったが、奪還後すぐに依願退職した綾部のことを言っているのだろう。


 宮津は高槻の方に向けていた視線を逸らし、何もない自分の手を見詰めた。そして、沸々と湧き上がってくる感情を必死に抑えようとした。


 本当は見送って別れを告げたかった。だが、綾部に会う勇気がなかった。宮津と出会ったばかりに地位も名誉も全て失うことになった綾部に、自分のせいだから。お前は悪くない。と全てを背負って本当は泣きたいはずだろうに、強がって笑顔を向けられることが怖かった。綾部の後ろ姿を見て、舞子やお腹の子のことが頭を過るのが怖かった。


 「公安や、陸将補が憎いか?」高槻のその問いに、宮津は俯きながら首を振った。


「それぞれが、それぞれの立場で最善を尽くしただけだ」防衛省と警察庁という所属の違いこそあれど、国家公務員として職務を全うしたということに相違ない。彼らを恨むのはお門違いだろう。松阪も同様に彼の立場による最善の行動をとったに過ぎない。


 宮津が抱いていたのは憎しみなどという感情ではなかった。自分のせいで人ひとりの人生を潰してしまうような事態に陥ったにもかかわらず何もできなかった。宮津が抱いていたのは、そんな自分の無力さに対する怒りだった。


 「もし恨むべき相手が居るとすればそれは、自分の目的のため友人を巻き込んで、剰え守ってやることができなかった俺自身だよ」宮津はそう言って椅子の背もたれに体を沈めると、床を蹴って椅子を背後にある窓の方に向けた。


 ブラインドの隙間から差し込む僅かばかりの夕日に焦点の合わない視界を向けて、何をするわけでもなく、ただ時間が過ぎてしまうのを期待した。そんな宮津の背中を見て、高槻は口を開く。


 「俺たち人間の手じゃ全ての雨粒は掬えない。どうやったって零れ落ちちまう」高槻は、ここにはない何かを見つめるような目でそう言った。宮津はその言葉をじっくり、じっくりと噛み締める。そして、先ほどまで湧き上がっていた感情を鎮めると同時に、あの日刻んだ決意をぎゅっと握りしめるように胸に抱いた。


 「わかってるさ。だから俺は前に進む。少しでも、誰かが笑って暮らせる国にするために。一滴でも多く、雨粒を掬うために」宮津は袖で目元を擦ると顔を上げた。そして、斜め前で腕を組みながら椅子に腰を沈める高槻の目を見つめる。


 「そのために、最後までついて来てくれるか?」すると、高槻は宮津の目を見返してフッと笑う。


「地獄だろうが何処だろうが、喜んで」






 「庁舎の近くの電柱にこれが仕掛けられていました」グレーのスーツに白と黒のストライプのネクタイといった平凡なビジネスマンのような格好をした30代の男―佐藤―は、同じくスーツを着て、眼鏡をかけた50歳前後の上司とみられる中老の男にそう告げながら、チャック付きのビニール袋を執務机の上に置いた。


 袋の中にはプラスチック製の黒い箱状の物が入っている。箱の周りはガムテープでグルグル巻きにされていたり、所々塗装が剥げて地の黄色いプラスチックが露わになっているなど、以前佐藤たちが見たときとは見違えるほどに乱雑さが目立っているが、上司の男はそれを見た瞬間にそれが何であるかはすぐにわかった。


 「まさか例のEMP兵器を利用されるとは、不覚でした」


「意趣返しにしては中々洒落たことをするな」上司の男はそう言うと、眼鏡を外して目頭を押さえた。


 「まさか、君ともあろう者が1度に2度も失敗を犯すとはな」


「申し訳ありません」佐藤が軽く頭を下げるが、上司の男は見向きもせず手に持っていた眼鏡のレンズを高そうな布きれで拭う。そして無関心そうな様子で、まぁいい。と吐き捨てた。


 「君の部下の暴走も特防隊イチゼロの報復も想定の範囲内だ。防衛省公安部法案を阻止するという目的は達成された。多少の痛手は必要経費と言ったところだろう」上司の男は手に持っていた眼鏡を胸ポケットにしまうと、箱が入っている袋を机の端まで押し出して佐藤に持って行くように促す。


 「君たちと彼らが交わるには早過ぎた。ただそれだけのことだ」佐藤は袋を拾い上げると深く頭を下げた。そして、自分もまた誰かの手のひらの上で踊らされている存在に過ぎない。そう気付いてグッと噛み締めた。


 「引き続き、監視を怠るなよ。奴らのことも、部下のことも」了解。そう言って顔を上げる佐藤を見て、上司の男は薄らと笑みを浮かべる。


「期待しているぞ。青葉アオバ班長」


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